東京駅 またはクールジャパン
わずかに残した歴史的建造物の再生で大騒ぎ…。久々のブログです。
貴重で美しい歴史的建築物の多くはとうの昔に消え去りました。
建築史家は「明治大正が作り昭和が壊す」と言っているらしいのですが。。
価値ある美しい文化遺産を、「石の文化と木の文化」あるいは「地震大国」という一般論を言い訳に、構わず破壊してしまう国であることはとても残念です。
基本的に我が国の運営を担ってきた層が、本来「文化的価値」に全く無関心であったということなんでしょうね。
活断層の上に巨大原発作ることは喜んでやるくせに。。
また、それを推進してきた同じお役所が、「クールジャパン」のお題目で「日本文化」輸出を、産業振興、雇用創出の秘策として推進しようと画策する某お役所であることもまたお笑いのネタです。
多いに笑いましょう。
http://jp.wsj.com/Life-Style/?mod=menu
iPhoneからの投稿
キャリアについて②
私の仕事上のテーマである、「キャリア」とは、あくまでも「職業」だけに限定された概念ではなく、「人生」全体に関わると思っています。
そして、キャリア構築を企業組織が引き受けていた時代。。。
そうした20世紀型モデルはもはや遥かな過去になっています。
組織をベースにキャリアを設計できる時代ではないことを象徴する、スタンフォードのクランボルツが唱えた“Planned Happenstance Theory”は、まさに21世紀型キャリアモデルを表しています。
「個人」が集団への依存度を緩め、リスクを取りながら変化に対応し、価値を創造する軸として、強くしなやかに生き抜いていく時代。それが我々の前に広がる現実なのだと思います。
かつてハイパーテキスト論を展開したテッド・ネルソンは、混沌とした現実を、彼の造語でストラクタングル(structure&tangle)=「構造物の絡み合い」と表現しました。
「思考の構造自体、連続ではない。アイデアが絡み合ったシステムだ(私はこれを構成物の絡み合いという意味で)〈ストラクタングル〉と呼ぶことにしたい」と。
ハイパーテキストの最も完成したものはワールドワイドウエッブ(WWW)だと言われています。
わかりやすいものは、ハイパーリンクが随所に埋め込まれたウィキペディアなどです。
私なりに、ハイパーテキストとは、“人間的経験の非線形的プロセスの生成する態様”と要約していますが、さらに言えば、ストラクタングルな現実を冒険する「寄り道」を可能にするもの、とも言えるかもしれません。
1980年代、野中郁二郎氏はその著書「知識創造企業」の中で、ハイパーテキストの概念を使って、「官僚型組織」と「タスクフォース型組織」の動的な関わりを通じて、知識ベースにknowledgeを蓄積しながら発展する企業組織の理想的モデルを表現し、世界に注目されました。
彼は「部門」のセクショナリズムに「分断」された組織の壁=集団的エゴイズムを打破する、“高度で動的なコミュニケーションプロセス”を「ハイパーテキスト型組織」と呼んだのですが、確かにそれは“Japan As Number One”の時代の日本企業の成功モデルと重なっていました。
ここでは、マイケル・ポランニーの「暗黙知」概念を掘り起こして、経営学に援用したことが非常にユニークであり、今でも尽きせぬ魅力に満ちています。暗黙知と形式知のそれぞれを担う組織的ミッションを洗い出し、相互にその価値を循環させるダイナミックなプロセスの理路を明らかにしています。
ここで最も重要なポイントは、組織の「固定化」の否定です。
しかし、本質的に重要なのは「コミュニケーションプロセスの固定化を否定」していることです。
これはその後の企業活動の中でそうそう成功はしていませんが、野中氏の研究は今も続き、そこに置かれた優れた思索の価値は何ら変わっていないと思います。
私自身は、ある文脈から異なる文脈への飛躍を可能にし、知識と実践を統合するプラットフォームであるハイパーテキストの概念を個人の生き方に応用することは、新しいキャリア論ヒントになると思っています。
複雑極まりない私たちの現在は、かつての牧歌的な予定調和を設計できる幸福な時代ではありません。
今の時代の「キャリア」とは、予測不可能なストラクタングル的カオスの中で、ためらわず、しなやかに前進することによって拓かれる地平そのものを指します。
言いかえれば、未来へのリスクを恐れないジャンプを「人生」と呼び、「キャリア」と読み替える時代なのかもしれません。
キャリアについて①
久々のブログは「キャリアについて①」です。取りあえず②までは続く予定。
私が12年ほど携わっているヘッドハンターと言うビジネスは、新しい人(candidate)との有効な出会いが最大のポイントであり、「他者との出会い」が出発点にあるビジネスです。
「転職」という契機を通じて人と接点を持つ場合、我々は会う前にすでに他者から「検索」されています。
だから、自分が先方(candidate)にどう見えるかはかなり大事なように思います。
しかし、実はもっと大事なことは「自分をどう見せるか」ではなく、自己の個別性の次元を自らが知ることにあります。
「自分は誰なのか?…」を常に疑い、自分の個別性を堀り下げるプロセスが、「他者との出会い」に他ならないと思うからです。
限定された「人生の一回性の中に」封じ込められた文化の個別性・・・。
他者との出会いという出来事は、この個別の文化(人生)の「掛け替えのなさ」みたいなもの…を通じてしか起こり得ない、と日頃思っているのですね。
②の後は、以前W大学で話したことを下敷きに話を広げていきたいと思います。