サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』 | ホーストダンスのブログ

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サミュエル・ベケットの3部作に続いて、戯曲『ゴドーを待ちながら』を読みました。

最近読んだ「三部作」が、ほぼ確かなストーリーもなく、人の頭の中の妄想が延々と語られていくような内容だったので、ある程度予想していましたが、この戯曲もまさにナンセンス劇が延々と続いていく独特の展開の作品で、「不条理劇の代名詞にして最高傑作」との評価を得ているそうです。


舞台には木が一本あるだけ、主な登場人物も浮浪者風の初老の男2人と、そこに通りかかる主従の二人だけです。

浮浪者風の二人は「ゴドー」(神「god」に引っ掛けられているとの説もあるようです)なる人物を待ちながら雑談をしたり、たわいもない遊びをして無為な時間を過ごしていて、そこに偉そうな男が首に縄をつけた従者を連れて通りかかり、ナンセンスなドタバタ劇が展開されます。

第一部ではその主人が従者を奴隷市場に売りに行く途中だということでしばらくしてその場所を通り過ぎていき、第二部の舞台となる翌日は、従者を売ることができなかったらしく、帰路でまたその浮浪者風の二人に会いますが、その時には主人は盲目に、従者は聾唖になってしまっています。(従者は前日には3人の前で大演説をしたのですが)

同じような毎日を過ごしているであろう彼らには日付や時間の感覚もなくなっているようで、主人と従者は昨日起きたことも覚えておらず、自分たちが盲目に、あるいは聾唖になったのもいつのことかわからないほどです。そしてまた明日も同じような生活を繰り返すことが暗示されます。

浮浪者風の二人は、ゴドーに会うことができれば救いが受けられるという望みを持っているものの、それがかなわなければ自殺しようかと考えているような男たちです。しかし、首を吊ろうにもズボンの紐が切れてしまい、それもできず、恐らく明日もまたゴドーを待つと言いながら無為な一日を過ごすであろうことが暗示されます。


このようにまさしく不条理劇であり、読み進めていて退屈を感じることもしばしばです。

なお、浮浪者風の二人はキリストとともにゴルゴダの丘で磔刑となった二人の泥棒をモチーフにしているとの考え方もあるようで、この作品を理解する上ではキリスト教の終末論の知識が必要であると言う人もいるそうです。

残念ながらそのようなバックグラウンドを持たない私にはこの作品の本質は理解できないのかもしれませんが、とりあえず「三部作」に続いて戯曲の形でサミュエル・ベケットの世界観に浸ることができたことで満足しています。