読了するのに1ヶ月以上かかってしまいましたが、夏目漱石の『道草』を読み終えました。
この1ヶ月ほど少し忙しく、読書の時間がなかなかとれなったことが原因の一つですが、この小説の構成(文庫本3ページ分くらいの分量が毎日、朝日新聞に連載されていた)も読むのに時間がかかった原因だと思います。
1章、1節がある程度長いと切りのいいところまで読んでから中断しようと思うので、1回あたりに読むページ数が多くなりますが、この小説のように3ページおきくらいに切れ目が来ると、ちょこちょこ中断してしまうので、自然と1日に読むページ数が少なくなるような気がします。
さて、形式的な話はさておき、この小説の内容ですが、漱石の自叙伝的なもので、註釈・解説等を見ると、実際彼がイギリスから帰国し、『吾輩は猫である』を執筆した頃の生活がモデルとなっているようです。
登場人物は漱石自身がモデルとなっている健三とその細君、健三が幼少時に世話になった養父・養母、健三の兄、姉夫婦、細君の父(義父)というところで、長編小説の割には少ない感じです。
主人公健三は留学帰りの教師で、人一倍自尊心が強く、人付き合いも苦手で、親戚の中でも浮いた存在となっていて、さらには細君との仲もあまりよくないという非常に偏屈な人物として描かれています。
ストーリーは、健三が、ある日たまたま見かけた養父から金をせがまれるようになるところから始まり、ついで養母、さらには義父である細君の父からも援助を求められるという話が淡々と綴られています。その中で細君との会話、細君の出産など家庭生活も出てきますが、家庭生活はとても幸せと言えるようなものではありません。これといった山場もなく淡々と話は続いていき、最後に健三が得た原稿料を手切れ金として養父に渡すところで完結します。
このように、あらすじを追っていくと全く面白くない小説のように思われますし、実際にそう思った人も多いと思いますが、健三の偏屈ぶりを楽しみながら読むことはできると思います。僭越ながら、私も自分自身と健三との共通点をいくつか見出し、半ば健三に自己投影させつつ、また半ば自分の生活ぶりを反省しながら読んでいました。
そもそも漱石は「余裕派」と言われ、自然主義派の文学者からは軽蔑されることもあったそうですが、この小説は自然主義派の文学者からの評価が高かったそうです。そのくらい、いわゆるふつうの「漱石の小説」とは違った趣をもつ作品なのだと思います。『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』だけ読んだという方にはお奨めできる作品かもしれません。