その世界は徹頭徹尾妖しい。暗い闇が覆う無機質な世界に、漂う天然色の自我。50cm先も見えない中で、確かなものは触れあう指先の感覚と、通り抜けていく風だけ。視覚も聴覚も削ぎ落とした自我が求め合うロマンチック


彼女のハスキーで張りつめた声と独特のイントネーション、そして素晴らしい発声と低音から高音まで一つのイメージで貫ける歌唱力。これらが絶妙に絡み合い、類のない独自の世界観を作り出している。
例えばコンピアルバム「If The Girls Are United」に参加している11人は、それぞれ素晴らしい女性歌手だけど、近似値にある。だから一枚のアルバムとして、ガールズどうし共振する。だが清家千晶は、その突き詰めた実存主義的?な音楽は、このアルバムに馴染みそうにない。彼女のテーマは、恋愛や友情、夢や思い出ではないのだ。(うなされる夢ではあるかもしれないが)
万の言葉で伝えようとしても、清家千晶を聞いた事がないと、伝わらないとは思う。だが、あえて表現すると、このアルバムに収められた全7曲を通じ、彼女が切実に探し求めているものは「確かな生の感触」なのではないか。しかも現在進行形。現代に生きることの苦しさ、掴みどころのない所在なさ、漠然と広がる不安、その中でかすかに見出だした確かなものに込めた希望。
全7曲は以下の通り。
1)electric sense
2)センチメンタリズム
3)愛とデリケート
4)妄想回遊魚
5)ice waltz
6)裸と煙草
7)-beauty-
一曲目から引き込まれる。「君の目、君の手、君のスタイル、君の夢、君のルール、君の深い傷、君の恋、君の激しさ、君が遠い…」と君の一つ一つのパーツをメロディアスに確認していくくだりが、鬼気迫る。
2曲目もすごい。もし目も見えず、耳も聞こえなかったらと始まる歌詞は、想像力をかき立てる。「生きることに罪はない」と断じ、この世界に悲しみなんてないという。なんという無常感。人は想像力で生きられる、のだろうか。「我思うゆえに我あり」。自分とは何か、意図してないかもしれないが、そんな哲学の命題を突きつける。その曲に「センチメンタリズム」とタイトルを付けるセンス。
この後の曲にも、歌詞に「君」がよく登場する。その他者はおぼろげで、手の先からスルリスルリと逃れてなかなかつかめない。その希薄な存在を繋ぎとめ、確かなものにするために触れて、言葉を紡いでいく。そんな歌が続く。
だが、何より魅力的なのはそのメロディーライン。たぐいまれなソングライターの資質。ある意味、天才なのだ。頭が良いという意味ではない(ゴメン)。現実社会ではなく音楽の中に身を埋没させ、音の流れに身を任せながら生きている、その才能に驚嘆する。
それでも学校卒業する頃は社会との折り合いを探してたと思う。しっかり業界に見出だされて、メジャーデビューを1度は果たしのだから。
発端となった曲は「スミレ」。彼女の才能を十二分に生かした名曲だ。心臓が止まるかという緊張感が後半にかけ走り、最後は圧巻の歌唱力だ。スミレを含む12曲を収録した初アルバム「Silence」はそれでも、まだ大衆を向いていて、取っつきやすい。メジャーだけに、プロのアレンジャーやレコード会社の社員らが、楽曲選定や製作に関わっていたからだろう。
その後、インディーズで出した?「Tokyo Escape Music.」。こちらは、その情景に華やかな彩飾が、色が満ちていて、明るい。無機質な東京を脱出して、清家千晶が花が咲き乱れ、三日月がくっきり浮かぶ、空気のきれいな田園で、音と戯れている姿が浮かぶ。エスケープという単語を少し分解するとe-scape=いい景色。いい景色の音楽でもあるんだね(笑)
「Sensitive Doll」で、無機質な都会に戻ってきて苦悩する姿との対比が際立つ。彼女が何を求めて闇をさ迷うのか想像力を駆り立てられる(音楽と?、しかないか)。
ところが、最近のライブでまた清家千晶は変わりつつある。確かなものは、体の感触のみと歌い放っていた彼女が、「心がわかってきた」というのだ。そして、MySpaceなどでも公開している「ふわー」みたいな楽曲が生まれ始めた。これが、なかなかいいのだ。
そもそも、表参道FAB企画「flower voice」のホストを引き受け、「Emily」を作り、ビデオクリップを製作し、ラジオ番組を持つようになって、あれだけ感受性の高い彼女の中で何かが変わらない訳はないだろう。
さらに、フラボのダブルホストのパートナー、玉城ちはるの影響も大きいのではないか。玉城さんの周囲を巻き込むパワー、不快感を抱かせずに、ずかずかと心の中に入っていける性格。行動を伴った理想主義。身近で長期間接したら、感化されずにいられないだろうな。
一皮むけつつある清家千晶が次にどんなアルバムを作ってくれるか、今から楽しみですしょうがない。