今回は、「ガラテアの信徒への手紙2章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「ガラテアの信徒への手紙2章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「ガラテアの信徒への手紙2章」では、一つ目は「使徒たち、パウロを受け入れる」、二つ目は「パウロ、ペトロを非難する」、三つ目は「すべての人は信仰によって義とされる」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、福音の宣教活動を続けてから数年後、エルサレムでキリストに結ばれた人々と出逢い、そこで主立った人々の意見を求めています。

 

その主立った人々の中には、ヤコブとケファ(=ペテロ)とヨハネ、つまりイエス・キリストの直弟子であり、使徒の中で柱と目される人たちがおりました。

 

(2章1〜10節)・・・

使徒たち、パウロを受け入れる

1その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。

その際、テトスも連れて行きました。 

2エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。

わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。 

3しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。 

4潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。

彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。 

5福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。 

6おもだった人たちからも強制されませんでした。

――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。

神は人を分け隔てなさいません。――

実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。 

7それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。 

8割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。 

9また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。

それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。 

10ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

・・・・・・・・・・

 

 

エルサレム教会の主立った人たちがパウロたちに取った対応を列挙すると、下記のようになります。

 

① 同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。 (2章3節)

 

② わたしにどんな義務も負わせませんでした。 (2章6節)

 

③ ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。(2章7節)

 

④ わたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。

それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。(2章9節)

 

⑤ わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。(2章10節)

 

 

①と②については、ユダヤ教の律法による義務と絡んできます。

 

モーセの律法が与えられて以降、それに従うのがユダヤ人の義務でした。

 

そして、旧約時代から新約時代への移行期においても、異邦人はユダヤ教に改宗して律法に従わなければ、ユダヤ人と同等の祝福を受けることはないという律法主義が根強く蔓延っていたと考えられます。

 

パウロと同行したテトスは無割礼の異邦人信者でした。

 

なので、律法主義者の主張によれば、テトスは割礼の義務を負うことになってしまいます。

 

しかし、エルサレム教会の主立った人たちは、テトスに割礼を受けさせようと強制することはなかったのです。

 

むしろ、パウロたちが述べ伝える福音こそが真理であり、人々を正しい方向へと導く道であることを彼らは認めたのです。

 

すなわち、異邦人であろうがユダヤ人であろうが、上部だけ取り繕った作法や義務に従うのではなく、キリストの信仰によって義とされるというパウロの主張する福音と彼らは共鳴することができたのです。

 

また、③と④については、パウロたちの宣教活動は、異邦人(割礼を受けていない人々)に対する福音が任されていることを公式に認めたということになります。

 

そして⑤については、エルサレム教会を援助するための募金活動を指しています。

 

貧しい人たちというのは、経済的な生活支援を受ける必要があるキリスト信仰者たちのことで、当時の社会では、他宗教に改宗した者は、家族や親戚の輪から追い出され、さらに自分の職業を営むのが困難になるなど、生活することもままならない人々がエルサレム教会内にたくさんいたのです。

 

このような事情から、エルサレム教会から募金活動の依頼を受けたパウロたちですが、その依頼を受けるまでもなく、以前からパウロ自身も募金活動の必要性を感じていたということです。

 

以上のことから、基本的にはエルサレムの主立った人々は、パウロたちの宣教活動を全面的に支持していたことがわかります。

 

しかし、そうは言ってもユダヤ教の厳格な慣習から、中々抜け出せない者もいたのです。

 

エルサレム教会の柱と称されたケファ(=ペテロ)でさえも、そのような慣習から完全に解放されていた訳ではなかったことが下記から、うかがい知ることができます。

 

(2章11〜14節)・・・

パウロ、ペトロを非難する

11さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 

12なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 

13そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 

14しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。

「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

・・・・・・・・・・・

 

 

ユダヤ社会では、異邦人と同席して食事してはならないという掟があったようで、イエス・キリストの直弟子であるケファ(=パウロ)でさえ、周りのユダヤ人の目を気にし、ユダヤ古来から伝わる慣習から完全に抜け出すことが困難であったということがここでわかります。

 

翻って私自身も、日本古来から伝わる慣習や風習といったものに、いまだに囚われ、中々そこから抜け出せないまま、悶々とした生活を続けています。

 

勿論、全ての慣習や風習が悪いという訳ではありませんが、神様の御心にそぐわないものであるならば、周りの目を気にすることなく、キッパリと切り捨てる勇気が必要です。

 

ここで、やはり障害となるものが世間の目、人の目です。

 

仏壇に手を合わせること、お宮参りすること、神社仏閣への奉賛金に協力すること、お祭りなどの宗教行事に絡んだ地域活動に参加することなど、反キリスト的な行事や慣習に対して、キッパリとNOと言える勇気がないのです。

 

どうしても世間の目、人の目を気にする自分がいるのです。

 

ここの部分を乗り越えることができない限り、自分の信仰が本物であるとは言えないのです。

 

例え周囲の人から変人と見られても、自分の信仰を貫き通すだけの意気込みが欲しいのです。

 

まだまだ、自分の信仰に自信がないのです。

 

自分の信仰を公に宣言するだけの勇気が無いのです。

 

どうか神様、このような私をお許しください。

 

自分の信仰を公に宣言するだけの勇気を私に与えてください。

 

自分の信仰に自信が持てる程に、神様と愛の関係を深めたいです。    

 

そのために、私の霊魂をもっともっと成長させてください。

 

そして、すべての人は信仰によって義とされるという神様の御心を、真に悟れるようにしてください。

 

(2章15〜21節)・・・

すべての人は信仰によって義とされる

15わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 

16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。

これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。

なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 

17もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。

決してそうではない。 

18もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 

19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 

20生きているのは、もはやわたしではありません。

キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 

21わたしは、神の恵みを無にはしません。

もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

・・・・・・・・・・・
 
 
イエス様がパリサイ派・律法学者たちを批判したのは、彼らが上部だけ取り繕った形式主義に陥っていたからです。
 
神様は、律法に従うだけでは満足されていなかったのです。
 
何故なら、神様と愛の関係を深めることが信仰の本質であるのに、神様の心情を察することをせず、人前で熱心な信仰者のふりをして、ただ表面的に神様の御言葉である律法に従っている偽善的態度に、神様は辟易されていたからです。
 
その点について、直近の「RAPT朝の祈り会」で、わかりやすく宣布されています。
 
 
 
私たち日本人も、人前では善人に見られるように装いながら、肝心の愛が欠如しているという偽善性を持ち合わせていないでしょうか?
 
表面的な形式主義に陥ってはいないでしょうか?
 
それに関連して私は、我が国の平和祈念式典を思い出しました。
 
先の戦争で亡くなられた方々を追悼し、平和を祈る式典ということで毎年、広島・長崎・沖縄などで執り行われているシーンをTVで視ることがありますが、どこか白々しさを覚えてしまうのは私だけでしょうか?
 
特に、来賓を代表して、時の首相が平和へのメッセージを読み上げる場面で強くそう思います。
 
式典では平和を祈る言葉を述べながら、式典会場から一歩外へ出た途端に、平和よりも金儲け、平和よりも格差社会推進、支配構造の強化といった別の顔が現れるのです。
 
日本人もユダヤ人に負けないくらい儀式的な行事が大好きです。
 
平和祈念式典をやれば平和への取り組みをやったことになり、大々的な式典を行えば、それだけ故人への追悼の思いが強いということになるのです。
 
心の中はさておき、表面だけでも取り繕っておけばそれで良しという風潮がまかり通ってしまうのが、この日本社会でありユダヤ社会なのです。
 
このような上部だけの形式主義にNOを突きつけたのがイエス様です。 
 
神様は、律法という形式的な儀式や慣習を義務的に従う者よりも、むしろ心から神様を愛し、神様のためなら命を捧げても良いと思ってくれる人と愛を成すことを望んでおられたのであり、それを体現されたのがイエス様なのです。  
 
人類が神様との愛の関係を深めることに熱心になることを神様は望んでおられるのであり、そのことを自らの死をもって人類に示された方がイエス様なのです。
 
このイエス様の示された信仰の本質を理解せず、表面的に「イエス・キリストを信じています」と宣言するだけで救われるわけではないのです。
 
心から神様を愛しイエス様を愛してこそ、信仰によって義とされるのです。
 

わたしは、神の恵みを無にはしません。

もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(2章21節)

 
 
翻って、私自身の信仰はどうでしょうか?
 
「神様を愛します」と言いながら、心からそれを祈り求めているでしょうか?
 
本当に心の底から神様を呼び求めて愛そうとしているでしょうか?
 
神様が天地万物を創られた目的は、ただひたすら神様と私たち人間が愛を成して幸せに生きるためであることを、RAPTさんの「御言葉」から学びました。
 
愛を成すこと、それを頭で理解しているつもりでも、心から愛を成そうとしているでしょうか?
 
観念的で偽善的な信仰生活に陥ってはいないでしょうか?
 
今一度、神様がこの世界を創造された目的を思い出して、本当に正しい目的で信仰生活をしているのかどうかを私自身、顧みる時期に来ているのだと思います。
 
 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事250(2018年2月12日)主が天地万物を創造した目的はただ一つ。私たち人間と愛を成すためだ。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

前回の有料記事では、悪魔を崇拝するカルト「生長の家」についての啓示の御言葉が宣布されました。
 
そして、この「生長の家」は環境保護のためだと言いながら、信者たちに肉を食べることを禁じています。
 
実際、私の教会に紛れ込んできた工作員のほとんどが肉を食べることができませんでした。
 
しかも、彼らのほとんどが皆、ポテトばかりを好んで食べていました(笑)。
 
しかし、この世を創造された神様は、私たち人間に肉を食べることを禁じることはなさいません。
 
むしろ、旧約聖書を見れば分かる通り、神様の聖殿で仕えていたレビ人たちは大量の肉を食べて生活していたほどです。
 
では、どうして神様は肉を食べることを禁じず、逆に悪魔どもが肉食を禁じることを愚と見なされるのか。
 
朝の配信の御言葉を聞いている人には、このことについて宿題を出していましたが、今回、その答えを啓示の文章のままお伝えします。
 
多くの読者の方たちがこの宿題の答えを提出してくださいましたが、かなり近い答えを書いてきた人は何人かいたものの、残念ながら、ぴたりと主の答えと一致する人は誰もいませんでした。
 
今回のこの啓示の御言葉を読んで、主が私たち人間と天地万物を創った真の創造目的をよりいっそう深く悟り、皆さん一人一人がその創造目的を成していくことを願います。
 
まずは、私の受けた啓示です。
 

**********(転載ここまで)

 

この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。

 

 

聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、表面的に「イエス・キリストを信じています」と宣言するだけで救われるわけではないことを悟りました。

 

心から神様を愛しイエス様を愛してこそ、信仰によって義とされるのです。
 
どうか神様、神様の基準で愛を成すことができるまでに、私を奮い立たせてください。
 
神様のことを一心不乱に一筋の心で愛するようになるために、私を霊的に成長させてください。
 
これまでにも充分に神様から愛されてきましたが、私はそれに関しては貪欲になります。
 
もっともっと神様、この私を愛してください。
 
それによって神様の愛に気づいた私は、今以上に神様を愛することができると思います。
 
もっと神様に祈り求めます。
 
もっと神様と愛を成す時間を増やします。
 
そして、私にとって最大の課題である朝の祈りの実践を、継続できるよう努めます。
 
どんなにサタンから攻撃されても、それに打ち勝つことができるように神様に祈り求めます。
 
今一度、神様がこの世界を創造された目的を思い出して、神様の栄光を表す者となれますよう心から祈ります。
 

私たち一人一人が、本当に正しい目的で信仰生活をしているのかどうかを今一度深く考え、真の祝福を神様から受けられる者となることを心から願います。

 

どうか神様、多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神様に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

サタンや悪人がすべて滅び去り、この世から全ての悪が消滅し、この世が神様の統治する義なる世界となって、千年王国の歴史が速やかに成されていきますことを心より祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.8.4)