前回は『新約聖書』に掲載されている「ガラテアの信徒への手紙二1章」について考察しました。

 

聖書を読む目的は、御言葉を実践に繋げていくためです。

 

単に、知識を得るためだけに終わってしまっては、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

聖書を読むことによって、如何に実践に繋げ、如何に自分の信仰に深みを与えていくかが重要になってきます。

 

単に、物語や歴史的事象を読み解くだけに満足してはいけないのです。

 

如何に己の信仰に活かし、実践していけるかが重要なのです。

 

そのことを、常日頃から教えてくださっているのがRAPTさんです。

 

○RAPT有料記事762(2023年7月29日)全てのよこしまな心をなくし、神様をまっすぐに一筋の心で愛してこそ、真理を無限に悟り、吸収し、サタンに完全に勝利し、偉大な大使徒へと成長できる。

 

 

そのことを念頭に置きながら、今後も聖書紹介に挑んでいきたいと思います。


そこで、今回は、「ガラテアの信徒への手紙2章」の本文を紹介したいと思います。

 

 著者パウロは小アジア(現代のトルコ共和国)の中部、ガラテヤという地域のキリスト教徒の共同体に宛ててこの手紙を書いています。

 

ガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したもので、信徒たちはかつて異教徒であった者がほとんどでした。

 

パウロが離れた後、この共同体に非真理を伝える偽教師たちが現れ、パウロは手紙の中で、このような教えに耳を貸さないようガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めています。

 

割礼、安息日の遵守、モーセの律法の遵守などを巡って信徒の間に混乱をひきおこしていたことから、彼は自分の伝えた福音をあらためて思い出させ、自らの回心の経緯と使徒としての資格の正当性、さらにエルサレム教会との関係について詳しく述べています。

 

異邦人のキリスト教徒がユダヤ教の律法をどう考えればいいかという問題を明快に示されたこの書簡は、カトリック教会のみならず、宗教改革後のプロテスタント教会へも大きな影響を与えたと言われています。 

 

以下は、「ガラテアの信徒への手紙2章」の本文のみを掲載することに留め、2章の内容についての考察は、次回、このブログで触れることにしたいと思います。

 

(新約聖書〈新共同訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ガラテアの信徒への手紙2

使徒たち、パウロを受け入れる

1その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。

その際、テトスも連れて行きました。 

2エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。

わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。 

3しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。 

4潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。

彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。 

5福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。 

6おもだった人たちからも強制されませんでした。

――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。

神は人を分け隔てなさいません。――

実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。 

7それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。 

8割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。 

9また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。

それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。 

10ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

 

パウロ、ペトロを非難する

11さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 

12なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 

13そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 

14しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。

「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

 

すべての人は信仰によって義とされる

15わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 

16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。

これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。

なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 

17もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。

決してそうではない。 

18もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 

19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 

20生きているのは、もはやわたしではありません。

キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 

21わたしは、神の恵みを無にはしません。

もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ガラテアの信徒への手紙2章より)

 

 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.7.23)