今回は、「コリントの信徒への手紙二12章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二12章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙二12章」では、一つ目は「主から示された事」、二つ目は「コリントの教会に対するパウロの心遣い」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、高次の霊と繋がり、天に引き上げられた時の体験を、下記(12章1〜10節)の中で語ります。

 

(12章1〜10節)・・・

主から示された事

1わたしは誇らずにいられません。

誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 

2わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。

体のままか、体を離れてかは知りません。

神がご存じです。 

3わたしはそのような人を知っています。

体のままか、体を離れてかは知りません。

神がご存じです。 

4彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 

5このような人のことをわたしは誇りましょう。

しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 

6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。

だが、誇るまい。

わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。

それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 

8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 

9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 

10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

・・・・・・・・・・・・

 

ここでもパウロ独特の表現がうかがわれます。

 

例えば、自分自身を語るのに「霊の人」と「肉の人」に分け、「肉の人」の目線で「霊の人」を客観的に語っているところなどは、パウロならではの言い回しです。

 

「霊の人」のことを自分とは言わずに、「その人」という言い方をしているのも、「霊の人」は、もはや自分というチッポケな存在ではなく、より神様に近い存在となり、神様と共にしている崇高な存在であるということを悟ったが故の表現です。

 

「霊の人」は「肉の人」とは次元が違うことを強調したかったのだと思うのです。

 

だから、「肉の人」と距離を置くために、あえて「その人」という言い方をしているのです。    

 

わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。

体のままか、体を離れてかは知りません。

神がご存じです。 (12章2節)

 

 

「その人」は、キリストに結ばれていた人であり、十四年前、第三の天にまで引き上げられた人だと述べています。

 

そして「その人」は、楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたとまで述べています。 

 

これは明らかに、パウロの霊魂が高次の霊界に引き上げられ、至高体験した様子を表しています。

 

つまりこれは、神様がおられる天国に近づいたことを意味し、それだけパウロの霊魂が成熟している印として見ることができます。

 

勿論、このような至高体験は誰でも得られるものではなく、その幸福感がいかほどのものであるか、ほとんどの人は推し量ることはできませんが、私たちが目指すべき境地であることは、まず間違いないでしょう。

 

これに関連した「御言葉」が、直近のRAPTブログで視聴することができます。

 

○RAPT有料記事848(2024年7月1日)聖霊を豊かに受けた人は、その霊魂が天国へと引き上げられ、そこで様々な体験をするようになる。これによってその人の考え方は100%変わり、完全に新しく生まれ変わるようになる。

 

 

以前の私は、天国という所が仮にあるとすれば、それは肉体が死んだ後に行ける世界であり、まさか肉体が生存している内に天国に行けるとは考えもしなかったのですが、RAPTさんの「御言葉」でそのことを知った時、大変衝撃を受けたことを覚えています。

 

「御言葉」の中で、たびたび「地上天国」という言葉が出ててきますが、これがどのような状態を指す言葉なのか、最初は中々、現実味のある言葉として受け止めることができなかったのが正直なところです。

 

しかし、「御言葉」を学び、実践していく中で、「地上天国」というものが、どのような世界を指すのか、徐々にイメージできるようになってきたのです。

 

私のような者でも、これまで神様から様々な恩恵を戴いて、幸福感に満たされたことが何度もありますが、そのような体験を繰り返していく内に、「地上天国」というのは決して机上の空論ではないということが少しずつ分かってきます。

 

それは、霊魂を成長させればさせる程、分かってくるものと言って良いでしょう。

 

まずは、私たち一人一人が霊魂を成長させて、神様から与えられた恵みによって幸福感を実感することが大切です。

 

それら幸福感の積み重ねによって、神様からの恩恵に感謝するようになり、益々各自の信仰が深まっていくようになれば、肉体が生存している今この瞬間でも「天国」に近づくことは決して不可能ではないと思えるようになってきます。

 

そして、そのような幸福感に満たされた人たちが増えれば増えるほど、「地上天国」は益々現実味のあるものになってくるのです。

 

なので、まずは神様と疎通して、豊かな聖霊を受ける体験を積み重ねていくことが大切です。

 

そのためには、RAPTさんの「御言葉」を学び続ける必要があるのです。

 

「御言葉」によれば、霊魂が成長して神様と愛を成し、豊かな聖霊に満たされるようになれば、肉的にも祝福を受けて幸福に生きられると説いておられます。

 

そして、「霊の人」が幸福であれば、肉体の死後も幸せな世界が待っているのです。

 

逆に、この世でいくら富や名声があったとしても、「霊の人」が成長していなければ、サタンの主管圏から逃れることができず、結局その人の人生は真の喜びと平安に満たされないまま終わることになるのです。

 

そして、肉体の死後に待っているのは地獄です。

 

なので、「霊の人」が幸福になるような生き方が知恵なのです。

 

私たちの多くは、「肉の人」の欲望と虚栄心を満たすことばかりを追い求めて生きてきましたが、これからは「霊の人」が幸福になるような生き方を追求することが重要です。

 

「霊の人」が幸福になるには、神様が嫌うことを避け、神様と繋がり、神様が喜ばれる生き方を追求するしか方法はないのです。

 

神様が最も嫌うことは、人々の心が神様から離れ、サタンの喜ぶことに意識が傾いてしまうことです。

 

神様を第一に愛するのではなくて、自分第一主義になってしまってはいけないのです。


自分第一主義に陥ると、自己中心的で全ての事柄に対して自分の思い通りにしなければ気が済まなくなり、自分の欲望を満たすことばかりに目を奪われ、肝心の神様のことを忘れてしまう恐れがあるのです。

 

そして、富と名声を得た者が勝ちであり、肉的に力を持った者が勝ちだという価値観に溺れ、やがてそれは権力欲・支配欲に繋がってきます。

 

神様は、そういった驕り高ぶった者を嫌います。

 

「肉の人」が力を持ってしまえば、神様に頼ろうとしなくなり、なんでも自分の力でできるという自惚が生じてしまうのです。

 

そうなると、神様の御力がその人に働かなくなり、結局は肉の繁栄も長続きすることもなく、滅びの道へと向かうしかないのです。

 

逆に、「肉の人」の力が弱い時、最後に頼るのは神様しかおられないと痛感し、神様に縋りつき、祈り求め、神様が喜ばれるような生き方を追求するようになります。

 

そうすると神様は、その人を憐れみ、救いの手を差し伸べてくださり、神様から強い御力を授けてくださるのです。

 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(12章9〜10節)

 


よってパウロは、人を評価する上においては、「肉の人」を見て判断するのではなく、「霊の人」を見て判断することが重要であると、信徒たちに言いたかったのだと思います。

 

「肉の人」の強さを誇る偽教師ではなく、弱さを誇るパウロの方が真理を語っていることに

気づいて欲しかったのだと思います。

 

そして、パウロとコリントの人々との信頼関係を回復するために、様々な心遣いをしていることを下記(12章11〜21節)で述べるのです。   

 

(12章11〜21節)・・・

コリントの教会に対するパウロの心遣い

11わたしは愚か者になってしまいました。

あなたがたが無理にそうさせたのです。

わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。

わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。 

12わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。 

13あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。

わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。

この不当な点をどうか許してほしい。 

14わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。

わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。

子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。 

15わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。

あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。 

16わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。 

17そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。 

18テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。

わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。

19あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。

わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。

愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。 

20わたしは心配しています。

そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。

争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。

21再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。

以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・
 
まずここで、私が少し違和感を持った箇所について触れましょう。
 
それが(12章13〜14節)です。
 

あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。

わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。

この不当な点をどうか許してほしい。 

わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。(12章13〜14節)

 

 

最初私は、矛盾するようなことを彼は語っていると思ったのです。

 

コリントの信徒たちが他の諸教会よりも劣っている点は何かというと、パウロの方がコリントの信徒たちに負担をかけないように様々な心遣いをしなければならないことだと言っています。

 

ここで彼は、自分(パウロ)の方が気遣いしなければならないコリント教会は、他の教会と比べて劣っていると述べているのです。

 

ならば、許しを乞うべきなのはコリントの信徒たちの方なのに、パウロはそんな彼らに謝罪を求めようとはしません。

 

むしろ逆に、負担をかけないように心遣いした自分の方が悪かったと、パウロの方が謝っているのです。

 

本来ならコリントの信徒たちは、パウロに少しも気遣いをさせることのないように配慮し、むしろ彼らの方がパウロへの心遣いをすべきところです。

 

なのに、残念ながら彼らは、それができる様子ではなかったということです。

 

パウロとコリントの信徒たちとの間に、良好な関係が築かれておれば、パウロは余計な心遣いをする必要もなく、歓迎ムードの中で堂々とコリント教会に立ち入ることができたはずです。

 

ところが、そのようなムードではなかったということです。

 

なのにパウロは、そのような不当な扱いを許し、できるだけコリントの人々に負担をかけないように配慮した自分(パウロ)の方が悪いのだと、彼の方が謝罪しているのですから空いた口が塞がりません。
 
私からすれば、パウロがここまでコリントの信徒たちに遜る必要があるのかと、少し苛立ちさえ覚えますが、ここはもう少し冷静に熟考する必要がありそうです。
 
まず、彼は何に対して謝罪しているのかを、もう一度考え直す必要がありそうです。
 
この不当な点をどうか許してほしいと言っていますが、果たして何を指して不当だと言っているのでしょうか?
 
彼がコリントの人々に負担をかけないように配慮したということは、裏を返せばパウロ自身、それだけコリントの人々に対して信頼していない証拠です。
 
本当に信頼している相手なら、余計な心配や配慮をする必要もなく、心を開いて相手のいる所に生のまま飛び込んで行けるはずです。
 
ところが彼は、それができなかった。
 
それを裏付けるのが、下記(12章20〜21節)の彼の言葉です。
 

わたしは心配しています。

そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。

争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。

再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。

以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。(12章20〜21節)

 
 
コリントの信徒たちがパウロのことを心の底から信頼してくれることが彼の願いです。
 
では、彼自身もコリントの信徒たちに対してどれだけ信頼しているのか?
 
それを自問自答した時、不信感が募るばかりで、全く相手を信頼していない自分に彼は気づいたのではないでしょうか?
 
あれやこれやと不安・心配が先に来て、相手を信頼できない状態に陥ってしまっている自分が不当であると思ったのではないでしょうか?
 
相手と良好な関係を築くためには、相手から一方的に信頼を求めるだけでなく、自分の方からも相手に信頼を寄せることが大切です。
 
パウロは、それができていない自分に気がついた。
 
それが不当なことだと気がついた。
 
だから、この不当な点をどうか許してほしいと言ったのではないでしょうか?
 
このように考えるのは、少し穿ち過ぎでしょうか?
 
そう考えると、「この不当な点をどうか許してほしい」という言葉のニュアンスが、少しわかるような気がします。
 
この言葉をあえて砕けた言い方にすると、「本来なら何の不信感も持つことなく貴方たちを信頼すべきなのに、ちゃんと信頼できなくてゴメンね」という感じになるでしょうか…。
 
但し、彼がコリントの信徒たちに不信感を抱くのは仕方のないことです。
 
何故なら、上記(12章20〜21節)に書かれてあることは、過去に実際にコリントの教会であったことなのですから…。
 
そして、偽教師たちによって、パウロを貶める工作がコリント教会内に蔓延っていたのですから…。
 
パウロが、コリントの教会への訪問を思い立ったのも、彼らがどれだけ悔い改めて改心しているかを確かめる意味もあったのだと思います。    
 
それも、パウロのコリントの信徒たちへの愛故の決断だったと言えましょう。
 
コリントの信徒たちを愛するが故に、パウロは彼らを放っておくわけにはいかなかった。
 
罪を犯した者に対しては、心の底から悔い改めて欲しかった。
 
だから、手紙を通して彼の切なる思いを前もって伝えることで、少しでも余計な心配をせずに済むようにしたかったのだと思います。
 
彼の手紙は、当時の信徒たちにとっては、神霊で力強い神様からのメッセージ(啓示)であり、信仰の道を正しく進むための羅針盤的な役割を果たしていたと言えましょう。
 
ちょうど、今の私たちがRAPTさんの「御言葉」から神霊な波長を受けて様々な恩恵を受けることができるのと同じように、コリントの信徒たちも、パウロの手紙から大きな恩恵を受けていたに違いありません。
 
そのことをパウロ自身も自覚していたのだと思います。
 
だから彼は、手紙に託したのです。
 
豊かな聖霊を受けるまで霊魂を成長させて、天国に入ることができるように信徒たちを育てることがパウロの使命であることを伝えたかったのです。
 
そのことを、彼らが心底悟れるように願って、手紙に託したのです。
 
そして一刻も早く、コリントの信徒たちを心から信頼する自分であるようにしたかったのだと思います。 
 

あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。

わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。

愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。(12章19節)

 

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事700(2022年11月26日)あなたがこの世に生まれてきたのは、あなたの霊魂を成長させて天国に入るためだ。それがあなたの人生の最終ゴールだ。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

私たち人間には「肉体」と「霊体」が存在していて、「肉体」は「霊体」にとっての母胎のようなもので、「肉体」が生きている間に「霊体」を成長させなければならないと、神様はこの御言葉を通して教えてくださいました。
 
そして「霊体」が大人に成長して、神様と愛を成す関係になるならば、その人は死んだ後も天国に行って、永遠に神様と愛を成して幸福に生きられると教えてくださっています。
 
さらに、今回の御言葉を通して、私たちが神様と愛を成し、神様の恋人として相応しい者として認められたときに、そのしるしとして毎日24時間、聖霊で満たして下さると仰いました。
 
ですから、毎日24時間、聖霊に満たされて生きられるようになったなら、その人は神様の恋人として認められたということであり、死んだ後も確実に天国に入ることができるということです。
 
しかも、そうやって神様の恋人として認められた人は、単に死んだ後の人生が保証されるだけでなく、この世を生きている間も豊かに祝福されて、大きく栄えて生きることができると約束してくださいました。
 
ですから、この世でもあの世でも真に幸福に生きたいと願うならば、何よりも自分の「霊体」のために生きなければならないということです。
 
そして、「霊体」を成長させる方法は、主がこの御言葉を通してどこまでも具体的に教えてくださってきました。
 
この御言葉を聞いている皆さん一人一人が、ただ「肉体」のためだけに生きるのではなく、「霊体」のために生き、この世でもあの世でも真の幸福を掴んで生きることができますよう心から祈ります。

 

**********(転載ここまで)

 

この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。

 

 

聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、人を評価する上においては、「肉の人」を見て判断するのではなく、「霊の人」を見て判断することが重要であることを悟りました。

 

私たちの多くは、「肉の人」の欲望と虚栄心を満たすことばかりを追い求めて生きてきましたが、これからは「霊の人」が幸福になるような生き方を追求することが重要です。

 

「霊の人」が幸福になるには、神様が嫌うことを避け、神様と繋がり、神様が喜ばれる生き方を追求するしか方法はないのです。

 

どうか神様、毎日24時間、聖霊に満たされて生きられるように導いてください。

 

神様の恋人として認められるまでに、私たちの霊魂を成長させてください。

 

私たち一人一人が、ただ「肉体」のためだけに生きるのではなく、「霊体」のために生き、この世でもあの世でも真の幸福を掴んで生きることができますことを心から祈ります。

 

そのためには、RAPTさんの「御言葉」は欠かせません。

 

「御言葉」を学ぶことで、私たちは一切の非真理を避けることができ、神様の真理に近づくことができるのです。

 

どうか神様、多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神様に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

そして、どうか神様、RAPTさんをサタンの攻撃からお守りください。

 

中心者がただ自分のためにばかり祈らなければならないという状況に陥らないよう、むしろこの世の全ての人々のために祈れるようにしてあげてください。

 

そのために、私たち信仰者もRAPTさんのために心を込めて祈ります。
 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

例えどんなにサタンに攻撃されて苦しいことがあったとしても、絶えず神様に感謝を捧げ、愛を捧げて、神様から喜ばれる者となれますよう心から祈ります。

 

自分のために生きるのではなく、心の底から神様のために生きると決心できるまでに、私の霊魂を成長させてください。

 

神様を愛するという生き方そのものによって心が満たされ、さらには神様から実際に祝福されて、自分の生活がより豊かなものへと変わってきていることを実感しています。

 

これからも、そのような祝福が受けられますよう、正しく私を導いてください。

 

サタンや悪人がすべて滅び去り、この世から全ての悪が消滅し、この世が神様の統治する義なる世界となって、千年王国の歴史が速やかに成されていきますことを心より祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.7.5)