今回は、「コリントの信徒への手紙二9章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二9章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙二9章」では、「エルサレムの信徒のための献金」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、エルサレムにいる聖なる者たちへの募金活動をさらに推し進め、いつでも献金できるよう準備しておくことをコリントの信徒たちに促します。

 

(9章1〜4節)・・・

1聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。 

2わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。

あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。 

3わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。

また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。 

4そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。 

・・・・・・・・・・・・・・

 

以上の文面から、パウロはマケドニア州に滞在していることが想像できます。

 

そして、アカイア州に属するコリントの教会へ立ち寄った後、集めた募金をエルサレムの信徒たちに手渡す計画をパウロは立てていたと思われます。

 

パウロの今後の計画②(ローマ15:25-29) | みなとのブログ

 

その際、マケドニア州の何人かが、パウロと一緒にアカイア州(コリント)を訪問することが(9章4節)で読み取れます。

 

そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。(9章4節)

 

だから恥をかかないように、今から献金の準備を始めておいてくださいよと、パウロはコリントの信徒たちに念押ししているのです。

 

但しそれは、私利私欲のためにそのような催促をしているのではなく、何がなんでもその献金活動を成就させたいという彼の熱い思いから出た言葉であることは言うまでもありません。

 

その裏付けとなるのが、下記(9章5〜15節)の彼の言葉です。 

 

(9章5〜15節)・・・

5そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。

渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。

6つまり、こういうことです。

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 

7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。

喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 

8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。

彼の慈しみは永遠に続く」

と書いてあるとおりです。 

10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。 

11あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。 

12なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。 

13この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。 

14更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。 

15言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

・・・・・・・・・・・

 

ここで注目したいのが、(9章10〜12節)です。

 

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。 

あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。 

なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。(9章10〜12節)

 

この聖句に出てくる「種」とは、霊魂を成長させてくれる天の恵みのことであり、施しの原動力となるものです。

 

つまり「種」とは、「神様の愛」を指すのであり、その愛を悟ったからこそ施しという成果を実らすことができるのです。

 

よって、そのような天の恵み(悟り)を与えていただいたことに感謝して惜しまず施すならば、天に富を積んだ者とみなされ、ますます神様から祝福され、地上天国へと導かれるのです。

 

また、施しを受ける側も、その施しが「神様の愛」によるものである事を悟り、神様に感謝し、神様をほめたたえるのであれば、ますます兄弟姉妹を慕うようになり、地上天国への道が拓かれるのです。

 

施しをする側は、「神様の愛」を悟ったからこそ神様の御心を成す業に参加できたのであり、また、施しを受ける側は、与えられた恵みは「神様の愛」によって成されたものであることを悟るのです。

 

施しをする側も、される側も、その奉仕の業の根底には「神様の愛」が流れていることを忘れてはなりません。

 

これに関連したことを、実は直近のブログで私は述べておりました。

 

ここより転載)**********

 

「施し」を受けた側は、神様の慰め(愛)によって「施し」が受けられるよう導かれたのであり、「施し」をする側は、神様の霊(愛)を悟ったからこそ「施し」をすることができるのです。

 

いずれにせよ両者に共通するのは、神様から恩恵を受けている点であり、「施し」を受ける側は勿論のこと、「施し」をする側も神様に感謝することが大切です。

 

神様の愛があってこそ、「施し」という愛の交換が成立するのです。

 

なので「施し」は、喜びと希望が伴うものでなくてはならず、苦痛や重荷となるものになってしまっては意味がないのです。

 

そのためにはパウロが述べているように、「施し」は一人一人のゆとりの範囲で行うことが知恵であり、継続させるための秘訣です。

 

自分のゆとり分を分け与えることで相手の欠乏を補い、また逆に、自分の欠乏は誰かのゆとり分で補ってもらうという愛の関係を構築するのです。

 

まさしくこれは、地上天国を成就させるためのヒントとなるものです。

 

「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」

と書いてあるとおりです。(8章15節)

 

**********(転載ここまで)

 

 

以上のことを、もう少し掘り下げて考えてみましょう。

 

例えば、無神論者が募金活動を行った場合のことを想像してみてください。

 

恵まれない人はかわいそうだとか、苦しんでいる人を見て放っておくわけにはいかない、居ても立っても居られないという良心があれば誰でも、そのような募金活動に参加することは可能です。

 

つまり無神論者であっても、自分の中の良心に従って行動しているという点では、神様を信仰している者たちと変わりがないわけです。

 

では、彼ら無神論者と私たち信仰者との決定的な違いはなんでしょう?

 

それは、その活動の背景に「神様の愛」が介在しているか否かの違いです。

 

無神論者の募金活動をする動機は、少なくとも神様のことを考えて行っているわけではないことは確かでしょう。

 

そして彼らは、次のように言うでしょう。

 

「各自の良心に従って奉仕的行いができるのだから、わざわざ神様のことを考える必要はないでしょう」と…。

 

確かに、良い行いをしたいという気持ちは信仰者と同じであり、募金をする最初の段階としては、それで良いのかもしれません…。

 

しかし、その募金活動を最後まで不正なく、やり遂げることができるかという点で、はなはだ心許ないと思うのは私だけでしょうか?

 

普段、良識のある人間だと自他共に認めている人であったとしても、目の前に山積みにされた大金を見た時、抱いてはいけない欲望が湧き上がってくることはないでしょうか?

 

ふと魔が刺して、その大金の一部を自分の懐に忍ばせてしまう衝動に駆られることはないでしょうか?

 

昨今、巷で騒がれているニュースを見ると、政治家の裏金問題を筆頭に、他人のお金で賭博行為に走ったり、SNSを使った投資詐欺など、お金にまつわる問題がいたるところで露呈し、不正なことを不正であると認識できないまでに世の倫理観は腐れ切っています。

 

自分の利得のためなら、法律の裏をかいくぐることも辞さない彼らの醜態を見て、まるで三流ドラマの悪役を見ているようで、怒りを通り越して、むしろ滑稽ですらあります。

 

ここで大切なのは、私たちは彼らを反面教師として見ることです。

 

滅びの道へと向かっている彼らの生き様とは真逆の生き方を追求していく必要があるのです。

 

彼らは、大金を目の前にして欲望の虜になってしまった連中です。

 

つまり、サタンの仕掛けた罠にまんまとかかってしまった結果が、今の彼らの腐敗した姿なのです。

 

一方、信仰者の生き方はどうでしょう?

 

真の信仰者は、心の底から神様を愛し、100パーセント神様を信じる者です。

 

神様の御心を成すことが信仰者の願いであり、神様の喜ばれることを追求することが信仰者の生き甲斐なのです。

 

自分のために生きるのではなくて、神様のために生きようとするのが信仰者です。

 

なので、絶対に神様を悲しませるようなことはしたくないと考えるのが信仰者です。

 

神様を悲しませるようなこととは、不正をしたり、罪を犯したりすることです。

 

心の隙をつかれて、サタンの侵入を許すようでは、真の信仰者とは言えないのです。

 

サタンの攻撃がどんなに激しくとも神様に祈り求め、「神様の愛」に応えるために、もがく者こそ真の信仰者と言えるのです。

 

私たちの肉欲につけ入り、お金というエサを撒き散らして、不正や罪に陥れようとするのがサタンです。

 

だから大金を目の前にしても、決してサタンの誘惑に負けてしまってはいけないのです。

 

最後までサタンに勝利して、神様が喜ばれる真っ直ぐな生き方を追求するのです。

 

それが「神様の愛」に応える道であり、結果として霊肉共に神様からの祝福を受けることができるのです。

 

だから、募金活動をする上においても、「神様の愛」が介在する必要があるのです。

 

それが最後まで不正なく、目的を達成させるための欠くことの出来ない要素なのです。

     

そして、募金を手渡す時、相手からの見返りを期待してはいけません。

 

むしろ献金することで、神様が喜んでくださる活動に参加できたことに感謝すべきです。

 

献金とは、単に受け取る側に喜んでもらうためだけのものではなく、神様に喜んでもらうためにする行いでもあるのです。

 

献金によって、受け取る側が感謝するのは勿論ですが、献金する側も、神様に喜んでもらえる活動に参加できたことに感謝するというのが、本来あるべき姿です。

 

献金とは、一切の不正や不純の侵入を避けて「神様の愛」を具現化する行いです。

 

どこかの政党が受け取るような、不純な動機で手渡されるお金であってはいけないのです。

 

なんの汚れもない献金を受け取ることができた時、それを受け取った側も「神様の愛」を知り、神様に感謝し、心の底から神様を褒め称えることができるのです。

 

この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。 

更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。 

言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(9章13〜15節)

 

与える側は相手の幸福を祈って与え、受け取る側も相手の幸福を祈って受け取るのです。

 

この両者の祈りが神様に届いた時、この奉仕の業は完結され、地上天国への道が一歩近づくのです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事841(2024年6月3日)自分の生きたいように生きても、神様が祝福して下さらないので、疲労と虚無感が募るばかりだ。しかし、神様の願うことを行って生きるなら、神様が祝福して下さり、どこまでも幸福に生きられる。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

人はどんなに自分の楽しみを求めて生きたとしても、どんなに自分の好きなように生きたとしても、心の空しさは募っていくばかりです。
 
この世の金持ちたちは、多くの富を使って自分の好きなように生き、その生き方を周りの人たちに自慢し、それによって自分の心を満たそうとします。
 
しかし、いくらそんなことをしても心は全く満たされないので、ますます躍起になって自分の楽しみを追い求め、好きなように生きて、それを周りの人たちに自慢します。
 
しかし、いくらそんな生き方を続けても心は満たされず、むしろ疲労と虚無感が募っていくばかりです。
 
私たち人間は、私たちを創造した神様を愛して生きることで、驚くほどに心満たされ、幸福に生きられるようになります。
 
先ず、神様を愛するという生き方そのものによって心が満たされ、さらには神様から実際に祝福されて、自分の生活もより豊かなものへと変わっていきます。
 
自分自身が幸福を追い求めなくても、幸福が自分の後からついてくるようになるのです。
 
私たちは主の御言葉を通して、このような単純明快な天の法則を知ることができました。
 
皆さん一人一人が、真に神様を愛して生きることで、霊肉魂ともに満たされた真に幸福な生を生きられますことを心から祈ります。

 

**********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、献金とは、一切の不正や不純の侵入を避けて「神様の愛」を具現化する行いであることを悟りました。

 

どこかの政党が受け取るような、不純な動機で手渡されるお金であってはいけないのです。

 

献金は、単に受け取る側に喜んでもらうためだけのものではなく、神様に喜んでもらうためにする行いであることを悟らせていただいたことに感謝します。

 

どうか神様、多くの人々が献金の真の意味を悟り、不正や不純のない清らかな「神様の愛」の下で、お互いが補完し合い、助け合うことのできる世の中となりますことを心から祈ります。

 

自分のために生きるのではなく、心の底から神様のために生きると決心できるまでに、私の霊魂を成長させてください。

 

神様を愛するという生き方そのものによって心が満たされ、さらには神様から実際に祝福されて、自分の生活がより豊かなものへと変わってきていることを実感しています。

 

これからも、そのような祝福が受けられますよう、正しく私を導いてください。

 

サタンの攻撃がどんなに激しくとも、最後まで信仰を捨てずにサタンに勝利し、「熱心」に祈り求めて神様の栄光を現す者となれますよう心から祈ります。

 

そして世の人々も、真に神様を愛して生きることで、霊肉魂ともに満たされた真に幸福な生を生きられますことを心から祈ります。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

サタンや悪人がすべて滅び去り、この世から全ての悪が消滅し、この世が神様の統治する義なる世界となって、千年王国の歴史が速やかに成されていきますことを心より祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.6.7)