今回は、「コリントの信徒への手紙二8章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二8章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙二8章」では、一つ目は「自発的な施し」、二つ目は「諸教会からの使者」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、マケドニア州の諸教会で成された慈善の業と奉仕について紹介し、コリントの信徒たちにも、その活動を行うよう勧めています。

 

(1〜15節)・・・

自発的な施し

1兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。 

2彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。 

3わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、4聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。 

5また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、6わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。 

7あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

8わたしは命令としてこう言っているのではありません。

他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。 

9あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。

それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 

10この件についてわたしの意見を述べておきます。

それがあなたがたの益になるからです。

あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。 

11だから、今それをやり遂げなさい。

進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。 

12進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。 

13他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。 

14あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

15「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」

と書いてあるとおりです。

・・・・・・・・

 

私は、これを読んで改めて「豊かさ」とは何かを考えさせられました。

 

豊かという語彙が、(8章2節)(8章7節)(8章9節)の3箇所に出てきます。

 

(8章2・7・9節)ーーー

 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。(8章2節)

 

② あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。(8章7節)

 

③ あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。

それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(8章9節)

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①と②は、信仰、言葉、知識、熱心、愛といった目には見えないものが豊かだと言っており、物質的な「豊かさ」よりも、霊的な成長をもたらしてくれる精神的な意味合いで使われているのがわかります。   

 

では、③についてはどうでしょうか?

 

元々、貧しさとは対極にある神様が、天上界から地上界へ降りて来られたことを「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」というキリスト教ならではの世界観で語られています。

 

では何故、神様はあえて貧しい者として地上界へ降りて来られたのでしょうか?

 

「あなたがたが豊かになるためだった」とありますが、何故イエス様は貧しくなる必要があったのでしょうか?

 

私は、イエス様が貧しくなられた理由を、肉的な側面と霊的な側面から考えました。

 

肉的な側面としては、人々の関心を肉的に貧しい人たちに向けさせ、サタンの洗脳に染まった人々の価値観を神様の御心に適った価値観へと転換させるために、イエス様は貧しくなる必要があったと考えます。

 

仮に、イエス様が社会的地位の高い、物質的に豊かな者として、この世に現れて来られたとしたらどうでしょう?

 

人々の心は、社会的強者の方に心が奪われ、地位と名誉と富を得ることに関心を寄せるばかりで、社会的弱者の方に目を向けることから益々遠ざかるのではないでしょうか?

 

財力があり、名声と社会的地位を得た人こそが尊いという価値観ではなく、富も名誉も地位もない人の方が天国への道は近く、幸いだという価値の転換を神様は望んでおられたのだと思います。

 

人類が神様と結ばれるためには、神様に助けを求め、縋りつき、心と思いと精神を尽くして神様に祈り求める必要があります。

 

最初から何もかも自分の力で成し遂げることができるのであれば、人は神様に頼る必要がなくなってしまいます。

 

この世で肉的な富と力を得て社会的強者となった者ほど、神様に縋りつく必要もなく、やがて神様から心が離れ、神様と愛の関係を結びたいとも思わなくなってしまうのです。

 

こうなってしまっては、神様の御心とは真逆の道を歩むことになってしまいます。

 

神様は、全人類と愛の関係を結ぶことを望んでおられるのです。

 

神様は、人類からもっともっと頼りにされたいと思ってらっしゃるのです。

 

一方、肉的に恵まれない社会的弱者と呼ばれる人は、富と力が無いが故に貧困から自力で抜け出すこともできず、苦しい生活を強いられます。

 

そしてその苦しみから逃れるために、最後に行き着くのが神様です。

 

神様に縋りつき、神様に祈り求めることで、神様と結ばれる可能性が生まれ、天国に一歩近づくことができるのです。

 

だから、社会的強者よりも社会的弱者の方が天国への道は近く、幸いだと言えるのです。

 

そのような価値観を教え諭すために、イエス様は意図的に社会的弱者の側に立ち、肉的に貧しくなられたのだと思います。

 

では、霊的な側面としてはどうでしょうか?

 

神様が地上に降りて来られたということは、霊的次元を神様の次元から人間の次元に合わせたということになり、神様側からすると、豊かな霊から貧しい霊へと、あえて次元を引き下げられたことになります。

 

つまり、神様は人間に寄り添うために、ご自身の霊の次元を意図的に引き下げられ、この地に降臨されたのです。

 

大人が幼子に寄り添う時、わざわざ幼児言葉を使ってあやそうとするのも、その子の警戒心や恐怖心を解くためであり、その子への愛があるからです。

 

それと同様、神様の霊をわざわざ豊かな霊から貧しい霊へと低められたのも、人類の神様に対する恐れを少しでも和らげるためであり、人類への愛があるからこそです。

 

自らを低めてまでしても、人類を救い出そうとする神様の愛の深さを、ここで悟らなければなりません。

 

憐れみ・慈しみといった神様の愛をここで理解しなければならないのです。

 

よって、③の「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」というのは、神様が人間の次元にまで低められたのは、神様の愛を悟らせるためであり、一人一人の霊魂を成長させるためだったという解釈ができます。

 

つまり③においても、霊的な意味で豊かという語彙が使われているということです。

 

但し、その解釈は新約時代に合わせたものであり、成約時代に生きる私たちは、さらに一歩先を見据えた上で「豊かさ」を捉える必要があります。

 

つまり、成約時代は神様の歴史が成就される時代であり、サタンに勝利することによって、霊も肉も豊かな祝福を受けることができる時代であることを忘れてはならないのです。

 

霊的な「豊かさ」だけでなく、肉的にも豊かな恩恵を受けることができる時代、それが成約時代なのです。

 

○ RAPT有料記事628(2022年2月12日)自分の霊が神のように成長すれば、肉体まで栄えるようになるから、霊と肉が葛藤することがなく、むしろ互いに支え合って生きるようになる。このようにして霊肉の救いが完成する。

 

 

「豊かさ」が精神的(霊的)側面と物質的(肉的)な側面があるように、「施し」についてもその両面があることを、ここで押さえておきましょう。

 

進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。 (8章12節)

 

要するに、お金のある人はお金で「施し」をすれば良いし、お金のない人はお金以外の方法で、自分のできる範囲で「施し」をすれば良いということです。

 

物質的な「施し」ができないのであれば、精神的な「施し」でも良いのです。

 

と言うか、むしろ精神的な「施し」の方が、より高度でやりがいのあるものだと言えるかもしれません。

 

何故なら、精神的な「施し」をするには、霊的な成長を遂げる必要があり、聖霊の賜物を受けた人でなければ成し得ない業だからです。

 

「施し」を受けた側は、神様の慰め(愛)によって「施し」が受けられるよう導かれたのであり、「施し」をする側は、神様の霊(愛)を悟ったからこそ「施し」をすることができるのです。

 

いずれにせよ両者に共通するのは、神様から恩恵を受けている点であり、「施し」を受ける側は勿論のこと、「施し」をする側も神様に感謝することが大切です。

 

神様の愛があってこそ、「施し」という愛の交換が成立するのです。

 

なので「施し」は、喜びと希望が伴うものでなくてはならず、苦痛や重荷となるものになってしまっては意味がないのです。

 

そのためにはパウロが述べているように、「施し」は一人一人のゆとりの範囲で行うことが知恵であり、継続させるための秘訣です。

 

自分のゆとり分を分け与えることで相手の欠乏を補い、また逆に、自分の欠乏は誰かのゆとり分で補ってもらうという愛の関係を構築するのです。

 

まさしくこれは、地上天国を成就させるためのヒントとなるものです。

 

「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」

と書いてあるとおりです。(8章15節)

 

次にパウロは、福音と慈善活動に熱心な使命者をコリントの教会へ派遣する旨を、信徒たちに伝えます。

 

(8章16〜24節)・・・

諸教会からの使者

16あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。 

17彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。 

18わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。

福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。 

19そればかりではありません。

彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。

それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。 

20わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。 

21わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。 

22彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。

この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。

今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。 

23テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。

これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。 

24だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。

・・・・・・・・・・・

 

ここでは、教会の使者がキリストの栄光を現す者として、絶対に欠かすことのできないものが何であるかを語っています。

 

一言で言えば、それは「熱意」です。

 

心を熱くして信仰に励む者こそ、教会の使命者として歓迎されるということです。

 

そのことは、「熱心」および「熱意」という語彙が、(8章16節)(8章17節)(8章19節)(8章22節)の合計4箇所も出てくるところからわかります。    

 

サタンの攻撃がどんなに激しくとも、最後まで信仰を捨てずにサタンに勝利し、「熱心」に祈り求めて神様の栄光を現す者こそ真の使命者と言えるのです。

 

成約時代に生きる私たちも、歴代の使命者に倣って「熱心」に信仰の道を歩み続ける必要があるのです。      

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事839(2024年5月27日)サタンがあなたを滅ぼすのは無理だと思って諦めるまで、サタンに徹底対抗し、最後まで義の条件を立てつづけなさい。そのようにしてサタンに勝利した人に、主は必ず大きな使命を与えてくださる。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

サタンが私たちを滅ぼそうとするとき、最初のうちは様々な知恵を使って私たちを誘惑したり、騙したりします。
 
しかし、どんなに誘惑したり騙そうとしたりしても、私たちがそれに引っかからなければ、サタンは最終的には私たちを徹底的に痛めつけるという暴挙に出てきます。
 
そうすると、サタンとの戦いは、どちらが先に我慢の限界が来るかという持久戦に入ることになります。
 
そのときに、私たちの方が先に、もうこれ以上やっても無駄だ、サタンに勝てるわけがないと思って諦め、義の条件を立てるのをやめてしまったら、私たちはサタンに敗北し、私たちの体はサタンのものになってしまいます。
 
しかし、サタンの方が先に、もうこれ以上この人を掴んでいても無駄だ、何をやってもこの人を自分のものにすることはできないと思って諦めるなら、私たちはサタンのものになることはなく、むしろサタンが私たちから離れ去っていきます。
 
そして、そのようにしてサタンに勝利した人に、主は勝利の栄冠を与え、大きな使命を与えてくださるのです。
 
サタンの攻撃が激しい今この時、皆さん一人一人が最後まで忍耐してサタンに勝利し、主の栄光を現す偉大な使命者となりますことを心から祈ります。

 

**********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、自らを低めてまでしても、人類を救い出そうとする神様の愛の深さを悟りました。

 

神様は人間に寄り添うために、ご自身の霊の次元を意図的に引き下げ、この地に降臨されたのです。

 

その神様の愛に報いるために、熱意をもって信仰に励み、神様に恩返ししていかなければなりません。

 

どうか神様、サタンの攻撃がどんなに激しくとも、最後まで信仰を捨てずにサタンに勝利し、「熱心」に祈り求めて神様の栄光を現す者となれますよう心から祈ります。

 

サタンがもうこれ以上は耐えられない、この人を掴んでおくことはできないというぐらいまで、徹底的に義の条件を立てることができますよう心から祈ります。

 

祈りによって神霊な波長と共鳴し、神様に守られているという確信に満たされ、不安・心配といった負の感情に溺れることのない真の信仰者となれますことを心から祈ります。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

サタンや悪人がすべて滅び去り、この世から全ての悪が消滅し、この世が神様の統治する義なる世界となって、千年王国の歴史が速やかに成されていきますことを心より祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.5.29)