今回は、「コリントの信徒への手紙二7章」の内容について考察したいと思います。
但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。
もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。
ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。
どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。
もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。
どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。
神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。
前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二7章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。
「コリントの信徒への手紙二7章」では、「教会の悔い改めを喜ぶ」というテーマで書かれています。
以前にもパウロは、問題のあったコリント教会に手紙を書き、それを彼の献身的協力者の一人であるテトスに託したことがありました。
その結果、パウロとコリント教会の緊張関係は解消されたわけですが、その良き報告をテトスから受けた時の彼の感動を下記(7章2〜16節)に記しています。
(7章2〜16節)・・・
教会の悔い改めを喜ぶ
2わたしたちに心を開いてください。
わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。
3あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。
前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。
4わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。
わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。
5マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。
外には戦い、内には恐れがあったのです。
6しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。
7テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。
つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。
8あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。
確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。
たとえ後悔したとしても、9今は喜んでいます。
あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。
10神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
11神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。
例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。
12ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。
13こういうわけでわたしたちは慰められたのです。
この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。
彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。
14わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。
それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。
15テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。
16わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。
・・・・・・・・・・・
私は、これを読んで、ある意味ホッとしています。
コリントの信徒たちが、パウロに対する信頼と従順を取り戻すことができたという意味でホッとしたということもありますが、もう一つ別の意味でホッとしました。
それは、パウロも私と同じ心の弱さを抱くことがあったのだなという意味でホッとしたのです。
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。
外には戦い、内には恐れがあったのです。 (7章5節)
いかなる患難苦難に対しても心挫けることなく、逞しく立ち向かって行く超人的なパウロの姿はそこには無く、全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいる彼の姿を見ることができ、私にとって遠い存在であったパウロが、少しだけ身近に感じることができたからです。
内には恐れがあったという彼の正直な告白は、私にとってはかえって希望と勇気を与えるものとなりました。
ここでは、超人ではなく普通人としてのパウロを垣間見ることができますが、そんな普通人でも信仰の力によって恐怖心を乗り越え、神様からの慰めに満たされ、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれる人になれることに勇気づけられたのです。
確かに人間である以上、恐れるという感情は捨てることができない、というか、むしろ生活を営む上で必要な防衛本能なのかもしれません。
自分の身に危険を感じたり、自分を害する対象に遭遇した時に、まずは恐れを感じ取り、瞬時に自分の身を守るための行動を起こさなければなりません。
なので、恐れるという感情が湧き起こるのは、心の中にアラームが鳴り響いている状態だと捉え、ごく自然な現象であると認識した方が良いでしょう。
大切なことは、その警報をキャッチしたのであれば、すぐに次の行動に移れるかどうかです。
いつまでも警報を鳴らしっぱなしで、ビクビク震えているだけでは命の保証はないわけです。
重要なのは、恐れという警報を鳴りっぱなしにするのではなく、瞬時にそのスイッチを消して冷静に行動することです。
ここで学ぶべきは、一時的に恐れることがあっても、その恐れという感情に振り回されないことです。
いつまでも恐れおののいて不安・心配に陥ってしまってはいけないということです。
不安・心配といった負の感情を持つこと自体は罪です。
そのことは、RAPTさんの「御言葉」を通して知ることができました。
例えば、ある一つのことで失敗を犯した時に、その失敗によってこれから起こるであろう様々な心配事が頭に浮かび、さらに過去の嫌な経験までもが思い浮かんできたりして、いつまで経ってもその心配から逃れることができないことがあります。
一つの心配事をきっかけに、また別の心配事が次から次へと沸き起こり、いつまで経っても、その泥沼から脱出できない場合、それは負の感情に支配されてしまった状態だと言えるでしょう。
そうなってしまったら、サタンの思う壺です。
不安・心配といった負の感情は、あくまでもサタンの波長に共鳴してしまっている一つの幻影に過ぎないのであって、そんな幻影を自分の手で追い払おうとしても、空気を切るようなものです。
戦う相手を間違ってはなりません。
感情と戦うのではなくて、私たちが勝利しなければならない相手はサタンです。
サタンという悪意のあるプロジェクターを破壊することによって、心のスクリーンに映し出された幻影を消し去るのです。
根本を叩くことによって、心に映し出された負の感情を消すのです。
よって、負の感情に溺れそうになった時は、サタンに勝利することを真っ先に考えることです。
しかし残念ながら、人間の力だけではサタンに勝利することはできません。
ここは、どうしても神様の御力に頼るしかないのです。
神様に祈り求め、己の霊魂を神様の波長に合わせることで、サタンに勝利するのです。
感情を自分の力で押さえつけようとしても、かえってその感情が増幅されるだけです。
大切なのは、神様の波長に合わせることです。
祈りによって神霊な波長に合わせるのです。
神様の波長に合わせることで、サタンの主管圏から離れるのです。
神霊な波長と共鳴することで、神様に守られているという確信に満たされるのです。
この神様から守られているという確信こそが、パウロの言う慰めであり、信仰の源です。
これによって、パウロも不安・心配に陥ることなく、改めて神様の慰めを受けていることに喜びを感じ、それに勇気づけられ、感謝することができたのだと思います。
そして、何よりの慰めは、コリントの信徒たちがパウロの手紙を受け入れ改心することができたことだと、下記(7章9〜10節)のように喜びを表明しています。
今は喜んでいます。
あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。
神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 (7章9〜10節)
「悲しみ」は「喜び」の対局にあるものであり、通常は、好ましくない負の感情として捉えます。
しかしここでは、神の御心に適ったこととして捉えている点に注目する必要がありましょう。
どうやら「悲しみ」には2種類あって、好ましい「悲しみ」と好ましくない「悲しみ」があることがわかります。
好ましい「悲しみ」とは、神様の御心に適った「悲しみ」であり、愛のある「悲しみ」です。
逆に、好ましくない「悲しみ」とは、神様の御心から離れたサタンが喜ぶ「悲しみ」であり、恨み・辛みといった負の感情を増幅させる、愛のない「悲しみ」です。
神様の御心から離れた「悲しみ」であれば、その感情は罪になりますが、「悲しみ」を好機と捉え、それを乗り越えて悔い改めたのであれば、その一連の感情の揺れは是とされるのです。
何故なら、悔い改めは悟りであり、霊魂の成長なしでは、そこに至ることはできないからです。
霊魂の成長がなければ悟ることはできず、悔い改めもできるはずがないからです。
だから、悟りへと導くきっかけとなるのであれば、一時的な「悲しみ」を抱くことも、霊魂を成長させるカンフル剤的な役割として神様は認めてくださるのです。
但しここで重要なのは、心から悔い改めることです。
口先だけで「悔い改めました」と言っても意味がありません。
本当に心から悔い改めているかどうか、神様は私たちの心の中をお見通しです。
悔い改めた時、心から神様に詫びて、救いの道へと導いていただいた神様に、どれだけ感謝しているかどうかが重要です。
つまり、神様の愛に気づき、その愛に感謝して、その愛に報いるように恩返ししたいという気持ちが込められているかどうかが重要なのです。
神様の裁きを恐れ、自分の不利益を避けるために、その場しのぎの詫びを入れても、神様は決して許してはくださらないでしょうし、むしろ、そのようないい加減な詫びの仕方では、かえって神様の心情を逆撫でするようなものです。
悟りを得たことへの感謝の気持ちがなければ、それは悔い改めではなくて、むしろそれは神様を冒涜した罪として見做されてしまいます。
だから、いい加減な気持ちで悔い改めることはできないのです。
心から悔い改めて、その気持ちを行動で示すことが大事になってきます。
悔い改めた後の行いで、その悔い改めが本心からのものであるかどうかが明らかにされるのです。
悟りへと導いていただいた神様に対し、心で感謝し、口で感謝し、行いで感謝するのです。
ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。
○RAPT有料記事836(2024年5月13日)サタンからどんなに攻撃されても、神様からどれほど愛されてきたかを絶えず思い起こして感謝し、神様に恩返しする者となりなさい。
この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。
(ここから転載)**********
私たちが神様から豊かに祝福を与えられているのを見ると、サタンは激しく嫉妬し、私たちを攻撃しないではいられなくなります。
つまり、私たちがサタンから攻撃されるのは、それだけ神様から沢山の祝福を与えられているという証拠です。
ですから、例え私たちがサタンからどんなに激しく攻撃されたとしても、神様から豊かに祝福されていることを絶えず忘れることなく、神様に感謝しなければなりません。
神様は、私たちが神様に感謝して、神様に恩返しするのを心待ちにしながら、これまでずっと私たちを大きな愛で愛し、私たちを祝福してきてくださいました。
神様はそのようにして、私たち人間と恋人のように愛を成したいと願っていらっしゃるのです。
そんな純粋な神様の気持ちに、私たち人間がきちんと応えて差し上げ、例えどんなにサタンに攻撃されて苦しいことがあったとしても、絶えず神様に感謝を捧げ、愛を捧げていかなければいけません。
そうすると、神様はどこまでも喜んで、私たちのことをますます愛してくださり、さらに豊かな祝福を私たちに与えてくださるでしょう。
**********(転載ここまで)
この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。
聖なる神様、ありがとうございます。
聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、悔い改めは悟りであり、霊魂の成長なしでは、そこに至ることはできないことに気づくことができました。
悔い改めた時、心から神様に詫びて、救いの道へと導いていただいた神様に、どれだけ感謝しているかどうかが重要です。
どうか神様、神様の愛に気づき、その愛に感謝して、その愛に報いるように恩返しできる者となれますよう心から祈ります。
例え私たちがサタンからどんなに激しく攻撃されたとしても、神様から豊かに祝福されていることを絶えず忘れることなく、神様に感謝し、愛を捧げる者となれますよう心から祈ります。
祈りによって神霊な波長と共鳴し、神様に守られているという確信に満たされ、不安・心配といった負の感情に溺れることのない真の信仰者となれますことを心から祈ります。
私たち一人一人が、強い信仰をもってサタンを滅ぼし、神様の御心を成していくに必要な聖霊の賜物を豊かに受けて、神様から大きく使われますことを心から祈ります。
多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。
中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。
RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。
これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。
アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
皆様に祝福がありますように。
(2024.5.18)