今回は、「コリントの信徒への手紙二6章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二6章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙二6章」では、「生ける神の神殿」というテーマで書かれています。

 

キリストを通して神様と人類を和解させるためにその任務を神様から授かったこと、そして神様から与えられた恵みが如何に心強く素晴らしいものであるかを、パウロは第2コリントの手紙(5章)で述べておりますが、(6章)はその話の続きとなるものです。

 

(6章1〜13節)・・・

1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 

2なぜなら、

「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。

救いの日に、わたしはあなたを助けた」

と神は言っておられるからです。

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 

3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、4あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。

大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、7真理の言葉、神の力によってそうしています。

左右の手に義の武器を持ち、8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、10悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

11コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。 

12わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 

13子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

・・・・・・・・・・

 

上記(6章4〜7節)を読むと、パウロたちがどれほどの迫害を受けていたかを窺い知ることができます。

 

鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓(6章5節)

 

これらは全て、実際にパウロが受けた迫害・苦難を示しているものと思われます。

 

もし仮に、パウロと同等の迫害・苦難を受ける状況になったら、今の私なら我先にと一目散に逃げるでしょうし、そのような状況になる前に、派手な振る舞いは避けて、目立たぬよう、おとなしく世の流れに阿る生活を選ぶと思います。

 

「出る杭は打たれる」「長い物には巻かれろ」という奴隷根性から抜け出せない自分をそこに見るのです。            

 

それを思うと、パウロの信仰心がどれだけ強力なものであったのかを窺い知ることができ ると同時に、私自身の信仰の弱さを痛感します。

 

しかしここで、はたと気づきました。

 

実際に遭遇してもいない迫害・苦難について、あれこれと気を揉んで自己卑下すること自体が間違いであることに、今気づいたのです。

 

最初から悪いことの方ばかりに焦点を合わせ、不安・心配・落胆の方へ自ら追い込み、劣等感に陥ってしまっていることに、今気づいたのです。

 

冷静に毅然とした態度で苦難に立ち向かって行く自分をイメージするのではなくて、情けなく不甲斐ない自分を自虐的にイメージしてしまうのです。

 

これが私の思考する時のクセであることに、今気づいたのです。

 

ネガティブな方向へと自分を追いやるような思考パターンがあることに、今気づいたのです。

 

これでは、神様の御心とは真逆の方向に行ってしまいます。

 

神様が望まれることは、私たち一人一人が喜びと希望を持って、ポジティブ思考で生きることです。

 

何事も悲観的に捉え、最初からできない自分をイメージすることを、神様は決して望まれてはいないことに、今改めて気付いたのです。

 

できない自分、苦難であたふたする自分をイメージするのではなく、いかなる困難があろうとも、力強く逞しく突き進んで行く自分をイメージすることが神様は喜ばれることに、今気づいたのです。

 

このようなネガティブな思考パターンから、もういい加減、卒業しなければなりません。

 

パウロのように、神様の力を信じて祈り求め、全てを神様に委ねるのです。

 

純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛(6章6節)

 

このような神様の次元に霊魂を引き上げて、神様の力を信じるのです。

 

サタンが誘導する思考パターンに引き込まれないように、常時、神様の思考回路を身につけることが重要です。

 

そのために「聖書」を読み、「御言葉」を学ぶ必要があるのです。

 

「聖書」と「御言葉」という義の武器を携えてサタンを打ちまかし、生ける神の神殿と呼ばれるに相応しい者へと成長するのです。

 

(6章14〜18節)・・・

生ける神の神殿

14あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。

正義と不法とにどんなかかわりがありますか。

光と闇とに何のつながりがありますか。 

15キリストとベリアルにどんな調和がありますか。

信仰と不信仰に何の関係がありますか。 

16神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。

神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。

そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

17だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。

『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、18父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

全能の主はこう仰せられる。」

・・・・・・・・・・・

 

聖書では、神様に使われる人の肉体を「器」とか「神殿」という言葉に置き換えて語られることがありますが、「器」も「神殿」も、いずれは壊れ、土に帰っていく儚い存在です。

 

そして、それらはいずれも脇役的な存在であり、その中に何を入れるかによって、その価値は決まってきます。

 

「器」や「神殿」の外見をいくら着飾っても、肝心の中身が腐敗し、汚れたものが入り込んでしまっては、使う側も使われる側も、良い気がしません。

 

1ミリでも腐敗したものや汚れたものが混じってしまうと、「器」も「神殿」も本来の機能を果たすことができず、廃棄処分するしか方法がなくなってきます。

 

もし仮に、汚れた「器」や「神殿」を再利用したいのであれば、汚染された中身を完全に除去し、清浄な水で洗い流す必要があります。

 

1ミリたりとも汚染物が残らないように、徹底して洗い清めなければ、再起復活の道はないのです。

 

汚れたものを完全に洗い落とし、清らかなもので中を満たすことができたならば、使う側も使われる側も、幸せな気分で喜びを讃え合うことができるのです。

 

この事は、決して聖書の中だけの話で終わらせてはならないのです。

 

現実社会に生きる今の私たちに突きつけられた問題として捉える必要があるのです。

 

私たち一人一人が汚れたものを完全に洗い落とし、清らかなもので中を満たすことができれば、神様に使っていただける存在として再起復活できるのです。

 

生ける神の神殿として使われることが、私たち一人一人の進むべき道です。

 

それが私たち人類の喜びであり、幸福感で満たされる道なのです。

 

人間本来の役割を果たすことが地上天国へ繋がるのです。

 

霊肉共に清らかとなり、神様の清涼な思考回路で満たすのです。

 

サタン不可侵の「器」となり、生ける神の神殿となるのです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事829(2024年4月15日)今年は一人一人が完全にサタン不可侵の体にならなければならないと主が仰った。サタン不可侵になってこそ、神の歴史、千年王国の歴史を成すことができるからだ。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

神様は今年の1月1日に、「今年はサタン不可侵の年にしなさい」と言って新年を迎えられました。
 
それと同時に、神様は今年から「聖霊の歴史」を始めると仰り、私たち一人一人が聖霊の体にならなければならないと仰いました。
 
サタンは常に私たちの中に入って、私たちをサタンの体にしようとしますが、聖霊もまた常に私たちの中に入って、私たちを神様の体にしようとしています。
 
そして、私たちがサタンの体となるのか、それとも聖霊の体となるのかは、私たち次第です。
 
私たちがサタンのような考えを持てば、自ずとサタンの侵入を許してサタンの体となり、私たちが神様のような考えを持てば、聖霊が豊かに宿って神様の体となることができます。
 
私たちが神様の体となって、サタン不可侵になるためにも、私たちは神様の考えがどういうものなのかを御言葉から深く学び、神様の考えを豊かに身につけていかなければなりません。
 
そうすることで、私たちは絶えず神様と心情一体となって、神様の御心を成し、神様から大きく祝福される者となるのです。
 

**********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、神様が望まれることは、私たち一人一人が喜びと希望を持って、ポジティブ思考で生きることだと悟りました。

 

できない自分、苦難であたふたする自分をイメージするのではなく、いかなる困難があろうとも、力強く逞しく突き進んで行く自分をイメージすることが神様は喜ばれることに、今気づいたのです。

 

どうか神様、サタンが誘導する思考パターンに引き込まれないように、常時、神様の思考回路を身につけ、パウロのように、神様の力を信じて祈り求め、全てを神様に委ねる者となれますよう心から祈ります。

 

「聖書」と「御言葉」という義の武器を携えてサタンを打ちまかし、生ける神の神殿と呼ばれるに相応しい者へと成長できますよう心から祈ります。

 

サタン不可侵の「器」となり、絶えず神様と心情一体となって、神様の御心を成し、神様から大きく祝福される者となれますよう心から祈ります。

 

私たち一人一人が、強い信仰をもってサタンを滅ぼし、神様の御心を成していくに必要な聖霊の賜物を豊かに受けて、神様から大きく使われますことを心から祈ります。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.5.11)