今回は、「コリントの信徒への手紙二1章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二1章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙二1章」では、一つ目は「挨拶」、二つ目は「苦難と感謝」、三つ目は「コリント訪問の延期」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、下記のような挨拶から入ります。

 

(1章1〜2節)・・・

挨拶

1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。 

2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

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ここに出てくるアカイア州とは、コリントの街があるギリシア南部の地名です。

 

そして、パウロと共に名を連ねているテモテは、パウロの一番弟子であり、パウロが最も信頼を置く協力者の一人です。

 

彼はパウロの第二回宣教旅行、第三回宣教旅行に同行し、マケドニアなど、パウロがすでに宣教活動を行った場所に派遣されて、指導に当たっています。

 

パウロは、前もってテモテをコリントの教会に派遣し、その指導に当たらせようと計画していたこともあって、この挨拶文の中に彼の名前を併記したものと考えられます。

 

そして、その挨拶文の後、アジア州でパウロたちが被った苦難について語り始めるのです。

 

(1章3〜11節)・・・

苦難と感謝

3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 

4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 

5キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。 

6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。

また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。 

7あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。

なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。

8兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。

わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。 

9わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。

それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。 

10神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。

これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。 

11あなたがたも祈りで援助してください。

そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

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ちなみに、ここに出てくるアジア州とはエフェソを含むトルコ西部の地域を指しています。

 

パウロたち一行は、そのアジア州(エフェソ)滞在中に死の宣告を受ける程の苦難を受けたことが上記(1章3〜11節)でわかりますが、具体的にどのようなことが起こったのでしょうか?

 

それについては、『新約聖書』(使徒言行録19章21〜40節)から伺い知ることができます。

 

(使徒言行録19章21〜40節)・・・

エフェソでの騒動

21このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。 

22そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。

23そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。 

24そのいきさつは次のとおりである。

デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。 

25彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。

「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、26諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。 

27これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」

28これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。 

29そして、町中が混乱してしまった。

彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。 

30パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。 

31他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。 

32さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。

集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。 

33そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。 

34しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。 

35そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。

「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。 

36これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。

決して無謀なことをしてはならない。 

37諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒瀆したのでもない。 

38デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。 

39それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。 

40本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。

この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」

こう言って、書記官は集会を解散させた。

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以上のように、エフェソでの騒動は、アルテミスを崇める技術職人たちによる、偶像崇拝を批判するパウロたちへの反感から起こったものであることがわかります。

 

そしてこの出来事は、日本に住む私たち信仰者にとっても、決して他人事として見過ごすことのできない切実な問題です。

 

もし私が、神社仏閣を崇める人たちの前で「手で造った仏像やお札などは神でも仏でもない」と言ったらどうでしょう?

 

おそらく、その場にいる多くの人たちから反感を食らい、場合によってはパウロのように、激しい攻撃や弾圧を受けることになるかもしれません。

 

あるいは、その場では直接的な攻撃がなくても、陰で悪口を叩かれ、最終的には村八分となる可能性だって有り得ます。

 

普段は無宗教で、何の信仰も持っていない人であっても、クリスマス、ハロウィン、バレンタインデー、ひな祭り、祇園祭などを否定し、それらが悪魔崇拝由来のものであることを述べる者がいたとしたら、彼らはどのような態度を示すでしょうか?

 

変人、狂人扱いする人も居れば、場の雰囲気を乱す者として、近くにいて欲しくない態度をあからさまに示す人も出てくるかもしれません。

 

そのようなことを思うと、安易に偶像崇拝や悪魔崇拝を批判する発言を慎まなければならないと思う自分がいるのです。

 

しかし、それは神様の御前で正しい態度だと言えるでしょうか?

 

あまりにも周りの人の目を気にし過ぎて、自分の本心を公然と語ることができないのです。  

 

間違っていることは間違っていると、パウロやRAPTさんのように正々堂々と述べる勇気が無いのです。

 

このことから見ても、自分の信仰が如何に薄っぺらいものであるかを自覚するのです。

 

まだまだ神様のことを第一に愛することができていない自分に気づくのです。

 

本当に神様のことを第一に愛しているのであれば、他人がどう見ていようが、世の人々からどう思われようが、そんなことはどうでも良いはずです。

 

本当に神様を愛しているのであれば、たとえ相手が敵意をむき出しにすることがあっても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、正々堂々と発言することができるはずです。

 

パウロやRAPTさんのように、たとえ自分の身に火の粉が降りかかることになっても、躊躇せず義を貫くことができるはずです。

 

どうか神様、私に勇気を与えてください。

 

神様を第一に愛することによって、人の目を気にしない強靭な勇気を与えてください。

 

そして、自分が成約時代の信仰者であることに決して引け目を感じることなく、むしろ誇りを持って世の人々に真理を宣告できる程の者に成長させてください。

 

自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神様を頼りにして生きたいです。

 

どうか神様、大きな死の危険からパウロたちを救ってくださったように、私たち信仰者をお救いください。

 

今日まで様々な危機から私たちを守り、救ってくださったことに感謝します。

 

これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神様に希望をかけています。

 

そのような境地に導いてくださった中心者RAPTさんに感謝して、話を第二コリントへの手紙(1章12〜24節)に移したいと思います。

 

エフェソでの騒動のこともあって、パウロは当初の計画通りに進めることが得策では無いことを悟りました。

 

つまり、パウロに対する反発はエフェソだけでなく、コリント内でも同様に、雲行きが怪しくなってきたのです。

 

よってパウロは、コリント訪問の延期を決断し、下記のような文面を綴るのです。

 

(1章12〜24節)・・・

コリント訪問の延期

12わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。

このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。 

13-14わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。

あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。

15このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。 

16そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。 

17このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。

それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。 

18神は真実な方です。

だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。 

19わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。

この方においては「然り」だけが実現したのです。 

20神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。

それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。 

21わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 

22神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。

23神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。 

24わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。

あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

・・・・・・・・・・・

 

ここで注目すべきは、「然り」と「否」という文言です。

 

神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。

この方においては「然り」だけが実現したのです。(1章19節)

 

これは、イエス様の霊魂は「然り」で埋め尽くされていて、「否」という文字は1ミリも入る余地のない状態であることを示しています。

 

すなわち、イエス様は神様に対して何の疑う余地もなく100%信頼され、神様への愛を最期の最後まで全うされたということです。

 

そこには「否」というネガティブな思考や感情は一切存在せず、只々「然り」というポジティブな思考や感情だけが存在していたということです。

 

神は真実な方です。

だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。 (1章18節)

 

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。

それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。(1章20節)

 

パウロがコリントの信徒たちに向けた言葉は、神様によって導かれた言葉であるから、ネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えなさいということです。

 

つまり、パウロがコリントの信徒たちに対して約束したことは、神様を讃えるためのものであるから「然り」だけでしかなく、いつかきっと実現できるものであることを伝えたかったのだと思います。

 

ここで私は、イエス様やパウロのようなポジティブ思考を持つことが、私たち信仰者の究極の目標であるということに気付かされました。

 

今の私は、ややもすると「アーメン」という言葉は唱えていても、心のどこかに「否」という言葉が残った状態でいることがあるのです。

 

頭では「然り」と思っていても、心の奥底には「否」が残っているのです。

 

現に、今書いているこの文章の中にも「否」が入り込んでいるのです。

 

自分の弱点や欠点を取り上げ、それらを列挙することには慣れているけれども、自分の前向きな決心や長所の方に光をあてることに慣れていないのです。

 

幼い頃から、自分の弱点や欠点について反省することばかりを繰り返し、それが謙虚であり美徳であるかのように教えられてきた所為か、何事にも自信がなく、確信を持って話をしたり、行動することができない自分になってしまっているのです。

 

だから昔から、インタビューを受けるスポーツ選手たちが、ネガティブ思考に陥らず、徹底してポジティブな発言をしている姿を見て羨ましいなと思ったことが何度もありました。

 

彼らのようなポジティブ思考ができるような人というのは、やはり何らかの確信となるものが自分の中にあるからこそできるのだと思います。

 

その確信となるものは、彼らのそれまで培ってきたトレーニングと努力の賜物によるものであることは、まず間違いないでしょう。

 

トレーニングと努力によって結果を残し、その実績によって自信が生まれ、それを心の拠り所にして、また一歩、確信を持って前進するのです。

 

このことは、私たち信仰者にとって、とても大切なことを示唆してくれています。

 

つまり信仰生活においても、常に心の拠り所となるものを持ち、常にポジティブに生きるトレーニングと努力が必要だということです。

 

もういい加減、日本人独特の「謙虚さこそ美徳である」という固定観念から卒業しなければなりません。

 

世の秩序が乱れ、物事の善悪が曖昧になってきている今の時代だからこそ、はっきりものを言う態度が必要なのです。

 

そのためには、私たち一人一人が確信を持って行動できるだけの心の拠り所が必要です。

 

その心の拠り所となるものが信仰なのです。

 

信仰によって心の拠り所となるものを獲得し、確信を持って常にポジティブに生きることができるのです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事805(2024年1月13日)永遠に朽ち果てない神様の愛に心の拠り所を置きなさい。そうしてこそ、あなたの心も人生も安定し、幸福を実感して生きられる。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

この世の人々は、この世の何かに心の拠り所を置いて生きています。
 
ある人は家族を、ある人は友人や恋人を、ある人は富や名誉を心の拠り所として生きています。
 
何か一つは心の拠り所となるものがなければ、この世でまともに精神状態を保って生きることは難しいからです。
 
しかし、家族や友人、恋人、富や名誉といったものは、いつ何のきっかけで消えてなくなるか分かりません。
 
ですから、それらを心の拠り所にして生きている限り、それがいつ消えてなくなるだろうかという不安・心配が絶えることがありません。
 
つまり、自分が心の拠り所としているものが、かえって自分にとっての不安・心配のタネとなってしまうこともあり得るわけです。
 
しかし、この世には「神」という永遠に朽ちることのない方が存在しています。
 
神様は、いついかなるときもそれが消えてなくなるという不安・心配がなく、私たちが神様を愛しつづける限り、神様も永遠に私たちに愛を返してくださいますので、常に大きな安心の中で生きることができます。
 
皆さん一人一人が、いつ朽ち果てるか分からないこの世のものに心の拠り所を置くのではなく、永遠に朽ちることのない神様の愛に心の拠り所を置いて、心身ともに安定し、充実した幸福な生を生きられますことを心から祈ります。

 

**********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、イエス様やパウロのようなポジティブ思考を持つことが、私たち信仰者の究極の目標であるということに気付かされました。

 

信仰生活において、常に心の拠り所となるものを持ち、常にポジティブに生きるトレーニングと努力が必要だということも悟りました。

 

もういい加減、日本人独特の「謙虚さこそ美徳である」という固定観念から卒業しなければなりません。

 

世の秩序が乱れ、物事の善悪が曖昧になってきている今の時代だからこそ、はっきりものを言う態度が必要なのです。

 

どうか神様、私に勇気を与えてください。

 

神様を第一に愛することによって、人の目を気にしない強靭な勇気を与えてください。

 

そして、自分が成約時代の信仰者であることに決して引け目を感じることなく、むしろ誇りを持って世の人々に真理を宣告できる程の者に成長させてください。

 

自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神様を頼りにして生きたいです。

 

どうか神様、大きな死の危険からパウロたちを救ってくださったように、私たち信仰者をお救いください。

 

今日まで様々な危機から私たちを守り、救ってくださったことに感謝します。

 

これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神様に希望をかけています。

 

どうか神様、私たちの心の拠り所となってください。

 

信仰によって心の拠り所となるものを獲得し、確信を持って常にポジティブに生きることができる者にしてください。

 

私たち一人一人が、いつ朽ち果てるか分からないこの世のものに心の拠り所を置くのではなく、永遠に朽ちることのない神様の愛に心の拠り所を置いて、心身ともに安定し、充実した幸福な生を生きられますことを心から祈ります。

 

私たち一人一人が「御言葉」を深く悟って、パウロのように神様が強力に臨み、神様の御心を壮大に成して、多くの人々に救いと恵みをもたらす者となることを心から願います。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんがサタンから守られ、毎日、より高い次元の啓示を受けられ、力強く御言葉を述べ伝えられ、壮大に神様の御心を成していかれますことを心より祈ります。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。


十二弟子をはじめ全ての兄弟姉妹たちが、霊肉のサタンの攻撃や誘惑から守られ、「御言葉」に従順に従って聖霊に満たされ、これから本格的に始まる聖霊の歴史に参加し、壮大に千年王国の歴史を成していくことができますよう心から祈ります。
 

サタンと人間サタンがすべて完全に滅び去ることを心から祈ります。
 

もう二度とこの地にサタンが働きかけることができなくなるよう、そして人間サタンどもが二度とこの地で悪事を働くことができなくなるよう心から祈ります。


それによって、この世の中が神様の統治する義なる世界へと完全に作り替えられますことを心から祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.4.7)