今回は、「コリントの信徒への手紙一10章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙一10章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙一10章」では、一つ目は偶像への礼拝に対する警告、二つ目は「すべてを神の栄光のために」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、偶像への礼拝に対する警告の中で、先祖が陥った誤ちについて語ります。

 

(10章1〜11節)・・・

1兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。

わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、3皆、同じ霊的な食物を食べ、4皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。

彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 

5しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 

6これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。

彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。 

7彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。

「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。 

8彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。

みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。 

9また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。

試みた者は、蛇にかまれて滅びました。 

10彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。

不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。 

11これらのことは前例として彼らに起こったのです。

それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 

・・・・・・・・・・・

 

上記はモーセの時代に起こった出来事を彷彿とさせるような内容を取り上げています。

 

例えば、

わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け(10章1節)

は、(出エジプト記14章21〜22節)の場面を思い起こさせる表現です。

 

(出エジプト記14章21〜22節)・・・

21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 

22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

また、

彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。

「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。 (10章7節)

は、(出エジプト記34章3〜6節)の場面を思い起こさせます。

 

(出エジプト記34章3〜6節)・・・

3民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。 

4彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。

すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。 

5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。 

6彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。

民は座って飲み食いし、立っては戯れた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

さらに、

また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。

試みた者は、蛇にかまれて滅びました。 

彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。

不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。 (10章9〜10節)

は、(民数記21章4〜7節)の場面を思い起こさせます。

 

(民数記21章4〜7節)・・・

4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。

しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5神とモーセに逆らって言った。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。

荒れ野で死なせるためですか。

パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 

6主は炎の蛇を民に向かって送られた。

蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 

7民はモーセのもとに来て言った。

「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。

・・・・・・・・・・・・・

 

このように、モーセの時代に起こった出来事を取り上げながら、パウロは先祖と同じような誤ちを犯さないようコリントの信徒たちに警告しています。    

 

これらのことは前例として彼らに起こったのです。

それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。(10章11節)

 

この(10章11節)で注目したいのは、「時の終わりに直面している」という箇所です。

 

2024年に生きる私たちも、「時の終わりに直面している」と実感して今の時代を生きていますが、パウロの時代にも同じような受け止め方がされていたことに興味深く感じます。

 

ここで想像できることは、パウロの時代も今の時代と同様に、大きな転換期に入っていたということです。

 

世の価値観が、それまでの価値観にそぐわなくなって来たことの寓意的表現として、「時の終わりに直面している」という言葉が使われたのではないかと思うのです。

 

つまり、それまでは旧約時代の古い価値観がまかり通っていましたが、救い主イエス・キリストが現れたことによって新約時代の幕開けとなり、新しい価値観へと移行する転換期を迎えていたのです。

 

それが、パウロの言う「時の終わり」であったということです。

 

そして、私たちの言う「時の終わり」は、中心者RAPTさんの登場によって成約時代が幕開けし、新約時代からさらにバージョンアップされた価値観へと移行している今現在の状況を示しています。

 

ハルマゲドンで神様が勝利し、大バビロンが滅び去った今、千年王国への道はすでに始まっており、イルミナティは、かつてのような勢いは無くなり、サタン及び人間サタンはこれから滅びの一途を辿ることでしょう。

 

これまでまかり通っていた悪事の一つ一つが洗い出され、成約時代の新しい価値観が尊ばれる時代に入ったと言えるでしょう。

 

しかし、まだまだサタン及び人間サタンは、この地にのさばっています。

 

この終わりの時に、サタンは最後の悪あがきをしています。

 

私たち人類を貶めようと、今も密かに虎視眈々と私たちを狙っています。

 

このサタンの悪質な性癖は、今の成約時代に入ってもモーセやパウロの時代と何ら変わってはいません。

 

今も私たち人類は、サタンとの戦いが続いているということを忘れてはならないのです。

 

私たちは常に、戦場にさらされているのです。

 

だからこそ私たちも、パウロの忠告に耳を傾ける必要があるのです。

 

(10章12〜13節)・・・

12だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 

13あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。

神は真実な方です。

あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

・・・・・・・・・・・・

 

上記の聖句は、私たち信仰者にとって励みとなる御言葉です。

 

たとえサタンの攻撃にあったとしても、私たちには神様が近くしてくださっています。

 

信仰の4本の柱を立てて神様に縋り付けば、サタンの攻撃に打ち勝ち、そこから逃れる道を神様は備えてくださるのです。

 

○2024年2月9日(金)朝の祈り会

今年は信仰の4本の柱をしっかりと立てることで、サタンと人間サタンの力を限りなくゼロに削ぎ落とす年にしなさいと主が仰った。自分自身を強くすると同時に、サタンと人間サタンの力を弱体化させることで、サタン不可侵になっていくのだ。

 

 

さて、ここから偶像礼拝の話に移ります。

 

(10章14〜22節)・・・

14わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。 

15わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。

わたしの言うことを自分で判断しなさい。 

16わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。

わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 

17パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。

皆が一つのパンを分けて食べるからです。

18肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。

供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。 

19わたしは何を言おうとしているのか。

偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。

それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。 

20いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。

わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。 

21主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。 

22それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。

わたしたちは、主より強い者でしょうか。

・・・・・・・・・・・・

 

ここで注目すべきは(10章16〜18節)です。

 

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。

わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 

パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。

皆が一つのパンを分けて食べるからです。

肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。

供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。(10章16〜18節)

 

上記は、(マタイの福音書26章26〜30節)の晩餐の場面を思い出します。

 

(マタイの福音書26章26〜30節)・・・

26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。

「取って食べなさい。

これはわたしの体である。」 

27また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。

「皆、この杯から飲みなさい。 

28これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

29言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 

30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ここに登場する「パン」と「杯」は、キリストの体と血を象徴するものであり、「神の霊」と「神の命」を指す暗喩表現なのです。

 

つまり、「パン」を食べ「杯」を飲むというのは、「神の霊」と「神の命」を戴くことであり、神様と同化することを意味するのです。

 

これと同様に、祭壇に供えてある物を食べるというのは、神様と同化することを表します。

 

パウロ風に言うならば、供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるということです。

 

そこで問題になるのが、その供え物を献げる対象です。

 

神様に献げるのであれば問題はありませんが、偶像に献げるのであればそれはサタンに献げることと同じ意味になるのです。

 

何故なら、偶像はサタンがつくり出したものだからです。

 

サタンは人類を神様から引き離し、神様の方に向かわせないようにするために偶像をつくったのです。

 

偶像を狭義に捉えれば、仏像、曼荼羅、位牌、お札、お守りといった類になりますが、広義に捉えれば、サタンの分身、あるいはサタンの霊が宿ったものという解釈ができます。

 

サタンの霊は、人を不安、心配、恐怖、怒りといった負の感情に陥らせることを好みます。

 

そういった負の感情を持つと、人は冷静な判断能力を失い、柔軟な思考を働かせることができなくなってしまいます。

 

柔軟な思考が働かないということは、臨機応変に対処できず、常識に縛られ、固定観念に囚われ、無思考状態に陥ってしまうことを意味します。

 

常識に縛られ、固定観念に囚われ、無思考状態に陥ることが如何に恐ろしいか、コロナ騒動を見れば明らかです。

 

コロナウィルスは怖い感染症という恐怖心を与えることによって人は冷静さを失い、無思考状態となり、ワクチンで感染を防ぐことが常識であるという固定観念に縛られた結果、ワクチン被害者が続出するという最悪の事態を招いてしまったのですから…。

 

常識や固定観念に縛られると、人は正しい道から外れ不幸になるのです。

 

これはまさしくサタンの思う壺です。

 

正しい道から外れることは、真理から遠ざかることであり、神様が望まれない方に向かうことを意味します。

 

神様が望まれない方に向かうことは罪です。

 

常識や固定観念に縛られることは、サタンの呪縛に縛られることと同じなのです。

 

以上のことから、常識や固定観念も、広義の意味で偶像の対象と考えて良いのではないでしょうか?

 

食べ物のことに話を戻すと、仮に、その食べ物が仏壇や神棚に置かれたものであっても、本来はその食べ物に罪があるわけではありません。

 

それがどこに置かれていようとも、食べ物は食べ物であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

ところが、その食べ物が「キリストの体だ」とか、「サタンに献げる物だ」という観念が入った途端、その食べ物は、ただの食べ物では無くなってしまうのです。  

 

宗教的に意味のある食べ物へと変貌するのです。

 

そうなったら、固定観念に縛られることになります。

 

固定観念に縛られて、その食べ物をただの食べ物として見過ごすことができなくなってしまうのです。

 

だから、仏壇や神棚に供えられたものを宗教心を持って食べることは、サタンが植え付けた固定観念に縛られて食べることになり、その行為はサタンと同化することに繋がるので、それは罪とみなされるのです。

 

では、イエス様が述べられた「パン」や「杯」はどうなのか?

 

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 

と言われたイエス様は、固定観念を信者に刷り込んでいるわけだから、それは罪ではないのか?と疑念を持つ方がおられるかもしれません。

 

確かに、[ 固定観念 = 偶像 = 罪 ]という図式に当てはめれば、その様に映るかもしれません。

 

しかし、ここで忘れてはならないのは、その観念は誰が刷り込んでいるのか?ということです。

     

サタンが刷り込んでいる観念は、

[ サタン+観念 = サタンの霊 = 偶像 = 罪 ]です。

 

一方、神様が刷り込んでおられる観念は、罪とはならないのです。

 

むしろそれは、義と繋がるのです。

 

何故なら、神様が刷り込んでおられる観念は神様の霊であり、愛と真理から来るものだからです。

 

すなわち、

[ 神様+観念 = 神様の霊 = 愛+真理 = 義 ]です。

 

なので、本当の神様と同化できる供え物は感謝して食べたら良いですが、サタンと同化するような供え物は、決して口に入れるべきではないのです。

 

パウロも「すべてを神の栄光のために」の中で、下記の様に述べています。

 

(10章23〜33節)・・・

23「すべてのことが許されている。」

しかし、すべてのことが益になるわけではない。

「すべてのことが許されている。」

しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 

24だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。 

25市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 

26「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。 

27あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。

28しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。 

29わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。

どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。 

30わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。 

31だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 

32ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 

33わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

・・・・・・・・・・・・

 

何度も言いますが、偶像を礼拝することは、サタンによって刷り込まれた常識や固定観念に縛られて、サタンの奴隷と化してしまうことを意味します。

 

私たちが真の自由を獲得しようと思うのであれば、そのサタンが植え付けた常識や固定観念の呪縛から抜け出す必要があるのです。

 

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 (10章31節)

 

パウロがこの様に述べるのも、全てはサタンの呪縛から抜け出すためです。

 

神様の栄光を現すことによってサタンの呪縛から逃れ、真の自由を獲得するのです。

 

神様の栄光を現すとは、神様の御心を実生活の中で体現することです。

 

そのために必要なのが、中心者RAPTさんの「御言葉」です。

 

何故なら「御言葉」は、常識や固定観念をつくるためではなく、むしろ逆にそういった常識や固定観念をすべて破壊するためにあると言っても良いからです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事809(2024年1月29日) 愚かな人は沢山の常識と思い込みを持っている。賢い人は、昨日までの常識は今日の常識ではないと考え、臨機応変に物事を考え、絶えず真理が何かを追求して生きる。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

この世の多くの人々が、様々な「常識」や「思い込み」に縛られて生きています。
 
そして、御言葉を学んだ私たちは、彼らの持っている「常識」や「思い込み」のほとんどが、サタンによって刷り込まれた間違った考えであることを知りました。
 
ですから、それらの「常識」や「思い込み」に従って生きれば生きるほど、彼らが不幸になることが分かります。
 
しかし、御言葉を学んでいながらも、過去に持っていた「常識」や「思い込み」に縛られたまま生きたり、新たに自分の中に「常識」や「思い込み」を作って生きる者たちがまだまだ沢山いると主は仰いました。
 
神様がこうして毎日のように豊かに御言葉を伝えてくださっているのは、皆さんの中に「常識」や「思い込み」を作るためではなく、むしろ逆にそういった「常識」や「思い込み」をすべて破壊するためです。
 
そうすることで、皆さん一人一人が余計な「常識」や「思い込み」に縛られることなく、「真理」を悟り、「真理」に従って正しく生きられるように導いてくださっているのです。
 
真理に従って生きてこそ、私たち人間は神様から祝福されて、真に幸福に生きられるようになるからです。
 
皆さん一人一人が、この深い事実を心から悟って、すべての「常識」や「思い込み」を破壊し、常に臨機応変に物事を考えて、正しく真理を悟って生きる者となりますことを心から祈ります。


  **********(転載ここまで)

 

この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。

 

 

聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、サタンは人類を神様から引き離し、神様の方に向かわせないようにするために偶像をつくったことを再認識できました。

 

そして、常識や固定観念も、広義の意味で偶像の対象と考えて良いことを悟りました。

 

常識や固定観念に縛られると、人は正しい道から外れ不幸になるのです。

 

これはまさしくサタンの思う壺です。

 

どうか神様、サタンによって刷り込まれた常識や固定観念に縛られて、サタンの奴隷と化してしまうことのない様にしてください。

 

私たちが真の自由を獲得しようと思うのであれば、そのサタンが植え付けた常識や固定観念の呪縛から抜け出す必要があります。

 

私たち一人一人が「御言葉」を悟ることで、サタンが植え付けた常識や固定観念の呪縛から抜け出し、真の自由を獲得する者となれますよう心から祈ります。

 

そして、すべての「常識」や「思い込み」を破壊し、常に臨機応変に物事を考えて、正しく行動できる者となれますよう心から祈ります。

 

自分が正しいと思っていることも、実は間違っているかも知れないと考えて、常に真理を追究して生きる者となれますよう心から祈ります。
 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

そして一刻も早く、私たち一人一人の祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.2.14)