今回は、「コリントの信徒への手紙一7章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙一7章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙一7章」では、三つのテーマで書かれています。

 

一つ目は「結婚について」、二つ目は「主が定めた生き方」、三つ目は「未婚の人たちとやもめ」です。

 

まずパウロは、「結婚について」下記のような見解を述べています。

 

(7章1〜9節)・・・

1そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。 

2しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。 

3夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。 

4妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。

同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。 

5互いに相手を拒んではいけません。

ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。

あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。 

6もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。 

7わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。

8未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。 

9しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。

情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。

・・・・・・・・・・ 

 

上記(7章1〜9節)を読む限り、パウロは積極的に結婚を勧めているわけではない印象を受けます。

 

「情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだ」という言い回しから、みだらな行いを避けるための手段として男女の結婚を認めている感じがします。

 

パウロ自身がそうであったように、できれば結婚せずに独り身でいる方が良いような語り口です。

 

そのことについて、(7章25〜40節)「未婚の人たちとやもめ」の中でも、より具体的にパウロの本音が語られています。

 

(7章25〜40節)・・・

25未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。 

26今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。

つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。 

27妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。 

28しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。

ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。

わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。 

29兄弟たち、わたしはこう言いたい。

定められた時は迫っています。

今からは、妻のある人はない人のように、30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。

この世の有様は過ぎ去るからです。 

32思い煩わないでほしい。

独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、33結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、34心が二つに分かれてしまいます。

独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。 

35このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

36もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。

罪を犯すことにはなりません。

二人は結婚しなさい。

37しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。 

38要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

39妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。

ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。 

40しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。

わたしも神の霊を受けていると思います。

・・・・・・・・・・・・

 

パウロが結婚について一番危惧していることは、神様のことに心を遣うよりも世の事に心を遣うようになってしまうことです。

 

結婚によって信仰者の意識が神様の方に向かうのではなくて、伴侶の方に気を取られてしまい、霊的成長の妨げになる恐れがあるからです。

 

結婚することで、自分の信仰生活の妨げになるぐらいなら、無理に結婚する必要はないというのがパウロの立ち位置だったのだと思います。

 

しかしRAPTさんの「御言葉」では、結婚を祝福として捉える御教えがあり、男女が結ばれることを、決して信仰の妨げとして神様は捉えているわけではないことがわかります。

 

○ RAPT有料記事44(2016年2月22日) 神様が人類に用意した三つの大きな祝福。

 

 

この「御言葉」によると、神様は我々人類に対して、大きく三つの祝福を用意してくださっているとのことです。
 
先ず一つ目は「霊魂の成長」の祝福、二つ目は「結婚」の祝福、三つ目は「万物を治める」祝福です。
 
これによって、人間は「霊・肉・魂」すべてにおいて満たされ、この世でもあの世でも永遠に幸せに暮らすことができるようになると述べられています。

 

ここから分かることは、結婚は神様からのプレゼントとして捉えるべきものだということです。

 

決して結婚が、信仰の妨げになってはいけないのです。

 

むしろ、結婚することによって、より一層神様との愛の関係が深まるものとして捉える必要があるのです。

 

よって、その祝福を得るためには、それ相当の条件が必要になってきます。

 

その条件とは、男女とも神様の「御言葉」に従い、霊的成長のために、もがく者同士でなければならないというものです。

 

サタンの誘惑に惑わされることなく霊的成長を遂げて、神様に喜んでもらえるような信仰生活を送っている男女であれば、神様はその二人を祝福し、結婚へと導いてくださるのです。

 

信仰を持つ前に、すでに結婚している人は、そのまま、その相手と結婚生活を続けることができますが、未婚の人たちや伴侶に先立たれた人たちが、これから結婚を考える場合、その相手も同じ信仰心を持ち、神様に結ばれている者でなければならないのです。

 

無神論者の多い日本で暮らしている人にとっては、かなりハードルの高い条件に映るかもしれませんが、自分の人生をいかに幸福と平安に満たされ、かつ有意義な生活にするかという観点に立てば、「御言葉」で述べられていることは絶対条件として捉えるべきでしょう。

 

ここで思い出すべきは、「新約聖書」の(マタイの福音書22章37〜40節)です。

 

(マタイの福音書22章37〜40節)・・・

37イエスは言われた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 

38これが最も重要な第一の掟である。 

39第二も、これと同じように重要である。

『隣人を自分のように愛しなさい。』 

40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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結婚後の生活において、最も近しい隣人は伴侶です。

 

その伴侶が上記(マタイの福音書22章37〜40節)を理解していないと、安定した結婚生活は望めません。

 

何故なら、信仰心のない伴侶にとっては、第一に愛して欲しいのは自分だからです。

 

一番目に神様を愛し、二番目に隣人である伴侶を愛するという信仰者の掟が理解できないのです。

 

一番目に愛すべきは、伴侶である自分であって欲しいのです。

 

なのに信仰心のある相手がひたすら神様を追い求め、自分よりも神様を第一に愛しているとなると、その伴侶は納得できず、挙げ句の果て嫉妬心を起こす可能性があるのです。

 

そうなると、結婚生活は悲惨なものになります。

 

なので、信仰者が結婚を考える場合、自分と同じレベルの信仰心を持ち、人生の目標を同じ方向に立てているもの同士の方が理に適っているのです。

 

その方が衝突なく、祝福された結婚生活が送れるのです。

 

しかし、信仰する前に既に結婚している人は、たとえ伴侶が信者でなくても結婚生活は続けるべきだとパウロは述べています。

 

(7章10〜16節)・・・

10更に、既婚者に命じます。

妻は夫と別れてはいけない。

こう命じるのは、わたしではなく、主です。 

11――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――

また、夫は妻を離縁してはいけない。 

12その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。 

13また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。 

14なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。

そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。 

15しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。

こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。

平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。 

16妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。

夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。

・・・・・・・・・・・

 

先に述べたように、伴侶が上記(マタイの福音書22章37〜40節)を理解していないと、安定した結婚生活は望めません。

 

従って、信者でない伴侶と結ばれている既婚者にとっては、ある意味、患難の道を歩むことになると言って良いでしょう。

 

自分が信仰に励めば励むほど、信者でない伴侶は不快感をあらわにし、信仰の道から外れるようにするために、あの手この手で弾圧してきます。

 

そうなると、信仰心のある既婚者にとっては、伴侶の存在が障害となり、場合によってはサタンが伴侶に乗り移って、自分を攻撃しているのではないかとさえ思ってしまうのです。

 

しかし、ここは冷静に対応する必要があります。

 

何故、神様は簡単に離縁を考えるべきではないと仰るのか?

 

その神様の意図を汲み取る必要があるのです。

 

信仰心のある既婚者にとって信者でない伴侶の存在は、二心を持つ罪に陥る原因となるものです。

 

二心を持つことによって、神様の価値基準ではなくて世の価値基準(サタンの価値基準)に染まってしまう恐れがあるのです。

 

そのような罪となる原因を、信仰によって如何に乗り越え、如何に解決していくかが問われているのです。

 

たとえ伴侶が信仰に対して拒否反応を示しても、その伴侶は、最も近しい愛すべき隣人です。

 

ここで、信仰心のある既婚者の愛が試されるのです。

 

その愛すべき隣人を救うことが、信仰心のある既婚者の使命なのです。

 

簡単にその隣人を見捨てるのではなく、その隣人が信仰に目覚め、信仰によって救われるように働きかけることが、愛する者の務めなのです。

 

その隣人が霊的に成長し、喜びと希望のある、真に幸福な生き方があることに気付けるよう、身をもって示していくことが信仰者に与えられた課題なのです。

 

時間がかかるかもしれませんが、相手が離縁状を突き付けない限り、伴侶の救いのために自分は愛し続けると覚悟を決めて、より一層、日々の信仰生活に磨きをかけていく必要があるのです。

 

自らが、神様の恵みと祝福に満たされた幸福な生き方を実践することで、周りにも良い影響を与えることができると信じて、ただただ神様に祈り求めるしかないのです。

 

自分の置かれた境遇に振り回されることなく、サタンの奴隷とならならいよう神様に祈り求めて、愛を持って「主が定めた生き方」を着実に歩んでいくことが大切です。

 

パウロも下記ように述べています。

 

(7章17〜24節)・・・

17おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。

これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 

18割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。

割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。 

19割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 

20おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 

21召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。

自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。 

22というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。

同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。 

23あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。

人の奴隷となってはいけません。 

24兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。

・・・・・・・・・・・

 

上記(7章17〜24節)を読むと、なんとパウロは保守的な考えの持ち主なのかと、少しがっかりされる方もおられるのではないでしょうか?

 

特に、奴隷は奴隷の身分にとどまるようにと説いているあたりは、革新的な階級社会否定論者にとっては不満が残るかもしれません。

 

おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 

召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。

自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。 (7章20〜21節)

 

しかし(7章23節)では、「人の奴隷となってはいけません」とも述べています。

 

一体パウロの本心は、どこにあるのでしょう?

 

上記聖句に書かれてあることと逆のことを考えてみると見えてくるかも知れません。

 

仮に、自分の置かれている境遇や社会的身分に嫌気が指し、そこからきっぱりと離れようと決心したとします。

 

しかし、いくら自分がその境遇や身分から抜け出したいと思っても、そう簡単に自分の思い通りに物事が進むわけがありません。

 

それまで関わってきた人たちの理解や、周りの人たちの応援、あるいは社会的風潮の変化なしでは、状況を好転させることは難しいのは容易に想像できます。

 

たとえ強引にその境遇や身分から抜け出せたとしても、その先の見通しが建てられず、次はまた別の問題が浮上してきて結局、元の境遇や身分であった方が良かった、ということにもなりかねません。

 

ここはやはり、独りよがりに動こうとするのではなく、神様に祈り求めて、神様の導きに従おうと決心し、心静かに待つことです。

 

自分一人の力で何とかしようと考えるのではなく、神様の導きに従うのです。

 

大切なことは、今の境遇や身分をどうこうしようとするのではなく、神様は勿論のこと、今現在自分の周囲にいる人たちに対して、まずは愛を持って真摯に向き合うことです。

 

世の価値基準で今の境遇や身分にあれこれと思い悩み、煩わされるのではなく、神様の価値基準に従い、第一に神様を愛し、第二に隣人を愛することのできる人間へと成長することです。

 

世の価値基準は、自分中心主義です。

 

この世のどんなものよりも自分自身を愛し、この世の何よりも自分を大切に思い、それによってサタンの道に行って堕落してしまうのが、自分中心主義の悪いところです。
 
イエス様は自分のことを顧みず、ただ神様の御心を成し、人類を救うことだけを考えていたからこそ、十字架の道に行くことすら拒まれなかったのです。

 

私も含め、世の多くの人々が、このイエス様の境地を中々理解することができないのも、サタンによって自分中心主義に刷り込まれ、サタンの主管園に取り込まれてしまったからに他なりません。
 

なので、私たちはサタンの主管圏から抜け出すために、「自分こそが最も大事で、自分こそが最も愛しい」という自分中心主義を捨てる必要があるのです。


ここに、パウロが「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」(7章21節)と述べた真意が見えてきます。 

 

自分中心主義に陥って、自分の境遇や身分にあれこれと思い悩み、煩わされるのではなく、「主を愛し、隣人を愛しなさい」という掟をただひたすら守ることを優先させなさいとパウロは言いたかったのではないでしょうか?

 

そのような霊的成長を遂げることで、サタンの奴隷ではなくて、「キリストの奴隷」として認められ、神様の庇護の下で本当の自由を獲得することができるというのがパウロの本心だったのではないでしょうか?

 

私が上記のような考えに至ることができたのは、勿論、RAPTさんの「御言葉」の導きがあったからこそです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介させていただきます。

 

○RAPT有料記事532(2021年1月30日)罪は愛することを阻害する。だから罪を犯す者は、聖書で最も重要な掟である「主を愛し、隣人を愛しなさい」という掟を守ることができず、主から祝福されることもなく、主から使われることもない。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

この世の人々は、自分自身のことをこの世の誰よりも可愛いと思い、最も大事に思って生きています。
 
にもかかわらず、この世の多くの人々は自分自身を全く幸せにすることができず、絶えず孤独と怒り、絶望と不安、苦悩と不平不満にまみれて生きています。
 
その一方、主は聖書の中で、主を第一に愛し、隣人を第二に愛し、なおかつ自分を捨ててしまいなさいと仰られました。
 
そして、私たちがその聖書の言葉通りに実践すると、私たちは喜びと希望に満ち溢れ、心から幸福を実感して生きられるようになりました。
 
私たち人間は、自分自身を最も大事にして可愛がることで、実は自分の心から全ての喜びと希望を剥奪し、幸福からほど遠い生活を送ってしまっていたわけです。
 
サタンは私たち人間に対し、常に「お前が最も可愛い」「お前が最も大事だ」と言って、神や隣人を愛するより先に、自分自身を最も大事にして、自分中心に生きることを強いてきました。
 
それによって私たちはサタンと同じように、地獄のようなドロドロとした汚れた生活を送らざるを得なくなってしまっていたのです。
 
この御言葉を聞いている皆さん一人一人が、聖書の言葉通りに先ずは主と隣人を愛して、真の喜びと希望に満ち溢れ、主に大きく使われ、祝福されて生きる者となることを心から願います。
 

 **********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、サタンの主管圏から抜け出すために、「自分こそが最も大事で、自分こそが最も愛しい」という自分中心主義を捨てる必要があることを悟りました。

 

自分中心主義に陥って、自分の境遇や身分にあれこれと思い悩み、煩わされるのではなく、「主を愛し、隣人を愛しなさい」という掟をただひたすら守ることを優先させなさいとパウロは言いたかったのではないでしょうか?

 

そのような霊的成長を遂げることで、サタンの奴隷ではなくて、「キリストの奴隷」として認められ、神様の庇護の下で本当の自由を獲得することができるというのがパウロの本心だったのではないでしょうか?

 

どうかこの私を、自分中心主義から脱却できるように導いてください。

 

「主を愛し、隣人を愛しなさい」という神様の掟を優先させ、霊的にもっと成長させてください。

 

霊的成長を遂げることで、サタンの奴隷ではなくて、「キリストの奴隷」として認められ、神様の庇護の下で本当の自由を獲得することができる者にしてください。

 

この世が、無神論の世界から神様を信じる世界へと変わっていくことを心から願います。
 
神様を信じることが当たり前の世界に変わっていくことを心から願います。

 

私たち一人一人が、聖書の言葉通りに先ずは主と隣人を愛して、真の喜びと希望に満ち溢れ、主に大きく使われ、祝福されて生きる者となることを心から願います。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。

 

RAPTさんの「御言葉」に出会った多くの人たちが、よこしまな心を取り除いて、一筋の心で神様を愛し、無限に真理を吸収して、サタンに完全に勝利し、この世の多くの人々を救う大使徒へと成長していきますことを心から祈ります。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

そして一刻も早く、私たち一人一人の祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.1.20)