カイロに住み始めた頃、なかなか慣れなかったのが
人の視線だった。
どこに行っても見られている。
道を歩いていても、スークで買い物をしていても、
バスに乗っても、レストランで食事しても。
子どもも大人も、じぃ~っと『穴が開くほど』見てくる。
なるべく気にしないようにして、知らん顔していると
もっと堂々と見てくる。
だから、逆にこっちからもじぃーっと見返すことにした。
これは、一部の大人や子どもには結構効いたみたいで、
大抵暫くすると目をそらしてくれた。

ただ、大人の場合はそれをきっかけに話し掛けてくる人もいて
『どこから来たの』『何してるの』から始まり
『どこに住んでるの』『家族は?』など
プライベートなことまでどんどん質問してくる。
バスや電車など乗り物の中が多かったような気がする。
手持ち無沙汰だからかもしれない。

始めのうちは、いちいち律儀に答えていたけれど、
だんだん面倒くさく感じるようになった。
それに、国籍を言うとすぐさま『日本?スゴ~イ!』
『ホンダ、ソニー、ヤマハ!!』と一見無邪気な反応をするが、
それが、仕方ないことだとは思いつつも、鬱陶しくなった。
滞在が長くなってくると、『関係ないでしょ』とそっけなく答えるようになった。

それは、私が偶にフィリピン人に間違えられたりしたこととも関係していて、
フィリピン人だと思うと片言のタガログ語で話し掛けてくるのだけれど、
その時彼らの頭の中で、私は『フィリピン人のメイド』
というレッテルを貼られている訳だ。
『中国人』と答えれば、彼らの中にある『中国人』のレッテルを貼ってくる。
『日本人』と答えれば、『先進国』『金持ち』というイメージで接してくる。
そんな風に、彼らの中で勝手に『○○人』というイメージを押し付けられ、
それに応じた態度を取られることが、鬱陶しくなってしまったのだった。
つまり、『メイド』と思えば、上手に出てこられたり、
『金持ち』と思えば下手に出たり、、。

こうして、私はエジプトで初めて、
日本のパスポートを持っていることの意味を知ったのだった。
私がカイロに行った頃、エジプトでは『おしん』が放映されていた。
大分人気があったらしい。
道を歩いていると、見ず知らずの人が
すれ違いざまに『おしん』と囁いていく。
バスに乗っていればまた『おしん』と声をかけられる。
初めの頃こそ面白がっていたが、
あまり続くと鬱陶しくなってくるものだ。
(因みに、イランやイラクでも放映されたそうです)


でも、ルクソールに行った時に偶然知り合ったエジプト人夫婦が、
『今度女の子が生まれたら、おしんと名付ける』と言った時
『おしん』がどれほどエジプト人に感銘を与えたのか
その一端を垣間見た気がした。

でも、やがてシリーズが終わり、おしん熱も去ったのだろう。
いつの間にか『おしん』と言われることもなくなった。

ところで、本当に『おしん』と名付けられた少女達がいるのだろうか??
もしいたら、何だかちょっと、かわいそうな気がする。
留学することにした時、何人かに『どうしてカイロなの?』と聞かれた。
父親も聞いていた。

理由の一つは、大学で習ったアラビア語。
上手くなりたかった。使えるようになりたかった。
もう一つは、全く違ったものへの憧れ。
文化も、人間も、歴史も、全く違う世界。

全く、今思えば、先のことなど考えずにいた自分が情けないけど。
大学の教授には、どうせ行くならフランスかドイツに行けって言われていたのに、
勉強を続けるなら、そっちの方が良いって。
でも、結局カイロに行ってしまった。

ひょんなことから今は、ドイツでイスラム学を勉強している。
日本で勉強していたことは、中東学だったから、
イスラム学とはちょっと違う。
カイロにいた頃は、イスラーム社会にどっぷり浸っていたけれど、
分析したことなんてなかった。

でも、行って、カイロで3年半生活できて良かったと思う。
やっぱり、肌で感じないと分からないことってある。
もし、先にヨーロッパに来ていたら、イスラームとも別の付き合い方になっただろう。
初めにカイロで、イスラームの洗礼を受けていて、
戸惑いながらもムスリム達と付き合っておいて、良かった。
と、今更ながらしみじみ思う。
大学の寮には1学期間だけ住んで、友だちと一緒に
大学の近くのフラットに引っ越した。
キッチンはあるし、バスタブ付きのお風呂場もあるし、
自分の部屋もできるし、おまけに寮と比べるとやっぱり安い!

カイロ生活の長い男の子に、空きフラットの見つけ方を教えてもらった。
大抵のビルの入り口付近に座っている、
バワーブ(管理人?)のおじさんに聞けばいいのだ。
彼らは階段や踊り場、玄関の掃除から、
郵便物の一時預かりなどもしてくれて、
どこのフラットが空いているとか一番把握しているのだった。
おまけに彼らは横のつながりもあったりして、
『そう言えば、2本向うの通りの○○のビルで、
一つ空きがあるって言ってたな』なんていう情報も教えてくれる。
因みに、私が住んでいたビルの管理人さんは、
他にもう一箇所掛け持ちしていたみたいだった。

その情報網のお陰で、大学の直ぐ近くにフラットが見つかり、
以後、そこから動くことはなかった、、。

ビル玄関の横にジュース屋があってね、
そこでいつもサトウキビの甘~いジュースを25ピアストルで飲んだなぁ。
自分の出身市以外で、一番長く住んだ初めての町はカイロだった。
着いた初日、空港からタクシーで
カイロのザマーレックという地区に行った。
そこに大学の寮があったのだった。

右も左も分からない私だったが、
『確か、旅行書によればザマーレックは
高級住宅街だったはず、、、なんだけどなぁ、、』
と思ったことを、今でも覚えている。
(ということは、当時の私にとっての『高級住宅街』と
その時見たその地区は、大分違っていたのですね)

大学はお金持ちのお坊ちゃん、お嬢ちゃんが行くので有名な
AUC(American University of Cairo)である。
しかし、、AUCの寮は高い割にはいまいちだった。
と言うより、一般人の私は二人部屋にしか住めなかったのだが、
今考えれば、プライバシーゼロのすごい生活だった。
部屋はそこそこ広いんだけれども、
左右対称にしてベッドとクローゼット、机が置いてある程度。
電話は各部屋にひとつだけ。
トイレとシャワーは各階で共同。
部屋では料理も出来ないし。食堂の食事は不味い。

近くに韓国料理屋があって、よく辛~いスープを飲みに行っていたっけ。