私たちの<悪夢>と<ファンタジー> | 東方の神が起き上がる瞬間

東方の神が起き上がる瞬間

東方神起をオタクに地味に考察しています。最新情報を追ったり紹介はしていないけど、ひとつのことを長くかみしめ、長く味わうwがテーマ。・・・なんてね。

7月20日日曜日。フジテレビネクストで初めてTREEコン映像が流れた日、5人時代からのファンの方が主催する、江ノ島オフ会に行ってきました~。

予報ではずっと大荒れの天気となっていたけど、基本晴れ女の私、当然大丈夫でした。


 

江の島オフ会は自分でも企画することもあるけど、初めて東方神起のファンの方と、彼らのロケ地の足跡をたどる会として行ったのは、この方のオフ会が初めてでした。


 

そうして、そのオフ会がきっかけになって、5人時代から応援していた自分の、いつの間にか苦しい記憶になっていたユチョンやジェジュンやジュンスのことが、変わらず大切なものとして思えるようになったこともあって、特別な場所に思えるようになりました。


東方神起ゆかりの地めぐり@江ノ島2013&江ノ島歴史散歩

(去年の日産スタジアム後の江ノ島オフ会。ヒスジャパ収録のつべの紹介も中にリンクで貼ってあります。未見の方は是非^^)


さて、5人時代からのファンの方が運営されているブログでは、当然昔から彼らを知っている人がいらっしゃるので、当時を知らない人も含めて、リアルに「あの頃の話」ができるんだけど、なぜ好きになったのは「東方神起」だったか、という話がすごく面白かったです。


 〇どうして「君」を好きになったんだろう。


私が「東方神起」を好きになったきっかけは、車中のラジオから流れてきた「明日は来るから」で、当時ゴスペラーズみたいな、ハーモニーとリズムがあるような曲が好きだったこともあって、「この曲いいな。誰が歌ってるんだろう?」と気になって、調べたことがきっかけ。



画像で見たら、思いがけずジャニーズのグループかと思うような男の子達のグループで、韓国出身だというので、ビックリ。

 

当時は冬ソナブームの後で、韓国ドラマの人気は高かったけど、それは「日本のドラマにない純情さ」みたいなものが売りで、要するに、「ある種の古さ」がウケているって感じだったから、ましてや歌唱力やダンスだけじゃなくて、最先端のセンスを競うような音楽の世界では、マイナー感はぬぐいきれなかった。



正直言って、「明日は来るから」をラジオを通して耳で聞いたのが最初でなかったら、印象はまた違っていたかなあ、と思うもんね。



デビューシングル「Stay with me」なんかのPVを見ても
、「うーん・・・なんか・・・、ダサい。」という印象を当時、私としては持っていて、人に勧めて初見で良さが伝わるって感じじゃないなあって思っていた。



て名前もまた「とーほーしんき」を「東方神起」って書くことにもビックリ。すっげーセンスの名前wと思ってました。すまんね、ユノ。



それに、個人につけられたHEROとかMAXとかいうあだ名?のセンスにものけぞってたよ、すまんね皆。


 

 

 

 

 

 

 

 

 









たとえば、EXOの子達のビジュアルや洋服のセンスって、普通に今渋谷あたりを歩いていても群を抜いているものがあると思うし、PVのセンスも洗練されていると思う。



売れるには売れるだけの理由があるとはいえ、歌やダンスだけがうまくても、人気が出るとは限らないのが、芸能の残酷な所。



だけど、どこか野暮ったさを拭い切れなかった東方神起のデビュー当時と比べても、EXOの子達は粒が揃っているし売れる理由がハッキリとわかる。



この人達のPVを見て、「好きじゃない」と思うのは、単純に「好み」の問題だよね。東方神起にただよっていた「古さ」はもうない。・・・・今の東方神起にも、ない。



韓国歌謡がKPOPという言葉とブランド力を獲得していく過程で、SMのプロデュース力は、欧米のセンスを韓国風に消化していくことに成功していき、好みの差はあるにせよ、ファッションリーダーになりうるセンスを持つアーティストが出てくる時代になった。



デビュー当時の東方神起には考えられない事だと思う。



体に合っていないスーツも、どこか硬直しているフォーメーションも、一生懸命さが前面に出ていて好感は持てるにしてもダサさからは免れず、それでいて歌や個々の動きはハッとするような魅力がある・・・そんなチグハグさが、昔の東方神起にはあったんじゃないかなって思います。



だけど、そういうチグハグさをふまえてなお、何か目が離せない感じ、特別な感じが「東方神起」にはあって、言葉に変換しきれない+αがキラキラしていたんだよね。

かっこいいから好き。歌がうまいから好き。・・・というだけじゃない、何か。


それはけっしてイイことばかりじゃなくて(笑)、
「なんかダサいんだけど好き」「なんかちょっとイケてないんだけど好き」と思わせるパワー。


そう思わせる東方神起のダサさとかっこよさっていうのは、今でも他にはない魅力だなあって思います。


〇”5”という数字のイメージ



「デビュー当初、地方局とはいえ、毎回トークや体験のコーナーを持たせてもらえて、キャラクターが分かるようなプロモ―ションができていたのは大きかったよね」



この日のオフ会を企画してくださったブログの管理人さんの言葉に大きくうなずく、昔からのファン。



今のSMは、日本のテレビ局に自社のアーティストを売り込むことにもう熱心ではなく、バラエティ要素は韓国の番組をネットで、ライブ活動は日本で、という形のビジネス・スタイルは、一定のKPOPファンにとっては定番になりつつある。



ネット以外では、10代や20代用のファッション誌を中心に、韓国アーティストは定期的に登場し、次世代KPOPファンへの育成も抜かりない(笑)。



CDが売れない時代、雑誌やインターネットを通して
マニアなファンを惹きつける為には、ファッションであったり、キャラクターだったりといった、歌やダンス以外の要素が必要になってくるけれど、それと同時に、好みが細分化していく分、ユニットそのものを愛するというより、個人ファンが多くなっていく傾向にあると思う。




AKB48が象徴するような、大所帯グループが日韓ともども大流行りなのは、テレビという大型メディアよりも、
ライブ活動とインターネットが密接につながり合った結果、より細分化されていくファンの好みを拾うには、大人数の方がメリットがあるという事なんじゃないかな。



個人ファンは、応援する1人が所属するものとしてのユニットを愛するが、ユニットそのものがかもしだす世界観には関心が薄く、応援する1人が「卒業」すれば、ユニットとしてのファンからも「卒業」する。



それは、人数が少ないグループでも起こりうる現象だけど、大所帯ではもっと起こりやすい。10人以上の人数になると、キャラクターの細分化も、ユニット全体の関係性を表すことも難しくなってくるからだ。



私自身が思う、ユニットとしての人数で最適なのは、やっぱり「5」という数字なんじゃないかなって思うんだよね。



人間の手の指は5本で、それぞれ「お父さん指」「お母さん指」「お兄さん」「お姉さん」「子ども」という、最後の「子ども」というキャラがいかにも日本的だけど、要するに
「末っ子」がそろって「家族」が完成する、という形に、5という数はぴったりと合う。


東方神起の5人というのは、「社運をかけられる最高の5人を」という名目で集められたから、技術力みたいなものは高かったんだろうけど、ここまでの成功は、5人の男の子たちの関係が生み出す「疑似家族」的イメージがなかったら、難しかっただろうね。



アイドルとしてのグループの多くはよくて「友達関係」、悪いと「ビジネスとしての関係」しか見えない日本のアイドルグループの中で、年齢による関係の差が歴然としてある東方神起の関係性は、すごく新鮮だった。


そして、アカペラが歌える、という事をウリの一つとしたグループだけに、声にそれぞれ特徴があってバラバラながら、一つのハーモニーとしてまとまることができる、というのは、アイドル的な要素を持ったグループとしては皆無だったからこそ、東方神起は、とても新しく見えた。

古い洋服や髪型のセンス、時代がかって仰々しい名前のセンスにも、関わらず。


古くて新しいもの。新しいが古いもの。そういうギャップが、たぶん、東方神起を支える多くのマニアなファンを生んでいったんじゃないかなあ。


〇私たちの<悪夢>と<ファンタジー>

カッコいいかと思えば、もう笑っちゃう程ダサかったり。

実力あるダンスや歌声があるかと思えば、残念すぎる冗談を得意げに披露し、自分の寒さに気づくことは一生ないであろうメンバーがいたり。(誰とは言わないゼ)。

一生懸命で頑張っているリーダーは尊敬されているけど、同時にKYで一人空気を読まず空振りして、メンバーにからかわれていたり。

一見、地味に見えて、けっしてトークも積極的ではないメンバーが、ステージに立った瞬間、なんだかフェロモンがダダ漏れに漏れまくるキャラだったり。(誰とは言いませんw)

可愛い顔して毒舌で、それでいて、ファンにもお説教始めちゃうようなマジメっぷりで、年上のメンバーをたてつつも容赦なくいじり倒し、そのくせ、フォーメーションのチェックやフォローをさりげなくするメンバーがいたり(誰とは言わないんだってば。)


日本的な感覚で言えば一番ビジュアル的には受けのいいはずのメンバーが、中身は繊細な乙女で、今で言う草食男子のハシリだったこととか。(でも体はけっこうソフト・マッチョwぐしし) (←1人抜けているっていうから、追加でいれといた。誰とは言わないけどね。)


色々なギャップや、「おいおい」と思うような要素、ファンがそれを見てつい誰かと語りたくなるようなものが彼らの中にあって、それは、彼ら自身が意図してそうしてきたというよりも、彼らは何よりも、そうやって見る者のファンタジーをかきたててやまないものを、最初から持っていたのかもしれない。



このアメブロで言えば、「妄想ブログ」というカテゴリーの上位を中心にほぼ東方神起ファンブログが埋めているのは、まさに、「東方神起」というグループの本質にふさわしい気がします。



もっとも、そのブログの管理人さん達の多くが、「妄想」という言葉で表されるものの中に、「彼らの素晴らしき人間性」ですら、自分の妄想でありファンタジーである、と言う風に考えているかどうかは、わからないけれど。



でも、たぶん、コアなファンになるというのは、そんな風に、自分の中のファンタジーをかきたてられること、なんだと思う。



ユノがTIMEツアーの最後の挨拶で言ったような、「歌やダンスがうまいことが魅力なら、もっとうまい人がいる」というのは、その通りで、技術というのは感動するけれど、人がそれを、「鑑賞」するのではなく、「愛する」ようになるには、技術だけではなくて、何か、大切なファンタジーが生まれることが大切なんだよね。



たとえば、自分は相手の本質がわかっている、というような思い。
彼らはこのように頑張ってきたんだ、というようなストーリー。




それらは、みな根拠のないデマではないけれど、実はたぶん、彼らの現実と一卵性の双子のように似ていながらも、双子が別人格であるように、まったく違うものでもある。



彼らが苦労してきた、ということは嘘じゃないけれど、苦労してきたその思いを自分が本当の意味で知っていると思うのは間違っている。彼らが語っている言葉は嘘じゃないとしても、全部じゃない。



芸能人に限らないかもしれないけれど、他人のことを自分のことのように思える感覚は、美しい反面、恐ろしい残酷さをも持っている。



自分の中の「ファンタジー」は、簡単に他人を攻撃し許さない「悪夢」に代わる。



裏切られたという思い、自分の中の<物語>が壊され、恐ろしい「真実」が裂け目からモンスターのように現れたという思い。



本当は、全て「彼ら」を「種」に自分自身が造り上げた世界であっても、インターネットの世界にあっては、「妄想」こそ「現実」に見える。


そして、「酔いから覚めた」「夢から覚めた」かのような感覚になって、「騙されていた自分」を語り始める。


まだ自分のファンタジーを持ち続けている人に、その下には恐ろしいモンスターが隠されている、と教える為に。


本当は、それもまた、その人自身が新たに生み出した、別の”ファンタジー”かもしれないのに。


〇TREEで泣いていた女の子を見て


でも、個々人の<ファンタジー>をかきたてることこそ、芸能の魅力や本質なんだろうね。


賞賛がバッシングに代わるような悪夢になることも含めて、すばらしい芸能は、現実の世界だけでは見えないものを感じさせる、”ファンタージェン”だ。

ファンタージェン=夢の国は、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の中で、現実に住む人間が想像力によって生み出した世界だとされる。


人は想像力によって豊かに生きるが、想像力に溺れることによって、現実を生きられるなくなる。


妻を亡くし、現実を見ることができなくなった父と、いじめられっ子の現実から飛び出したバスチアンが、やがてファンタージェンを支配する暴君となり、現実に帰ることができなくなるように。


最後にバスチアンがたどりつく「変わる家」では、想像と現実を生きる上でその人が最も願うもの、本当に叶えたい<願い>に気づかせてくれる。

「ぼく、何もかも失ってしまわなくちゃいけないのかしら?」

「何一つ失われはしないのよ。」おばさまはいった。「みんな、変わるの。」

「だったらぼく、」バスチアンは不安になっていった。
「きっと急がなくちゃいけないんだ。ここにいつまでもぐずぐずしてちゃいけない。」

おばさまはバスチアンの髪をなでた。

「心配しなくていいのよ。時間はかかるだけかかるものなの。あなたの最後の望みが目覚めたら、そのときは、あなたにわかるわーーわたしにも」

 (ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」上田真而子・佐藤真理子訳 岩波書店)

.TREEツアーの京セラ3日目の夜、オフ会に行くために規制退場を抜けて足早に通路を歩いている時、スクリーンにはエンディング映像が流れていました。

1人の女の子が、それを見つめたまま、世界の中にひたりこむようにじっと動かずに座っていて、頬には涙が流れた跡が、まだ光っていた。

それは、ライブに行けばよく目にする光景の一つなんだけど、なぜだかその時、その姿にハッとするものがあって、慌てて視線をはずし、彼女の邪魔にならないように、静かにそっと隣を抜けました。

ライブで泣くなんて意味わからない、という人もいる一方で、泣いちゃう気持ちが分かる人もいる。
だけど、泣いてしまう気持ちがわかる人でも、その時何を考えているのか、感じているのか、きっと、人それぞれで違う。

誰もが自分のファンタジーを大切にする自由があって、「それはオマエが騙されているだけだ」と他人に上から言われなければならない理由も、ましてやバカにされたり、非難されたりする理由もないんだよね。

ところで、最後にバスチアンが気づく、本当の願いは「愛することができるようになりたい」というもの。

「変わる家」の女主人、アイウォーラおばさまは、バスチアンの「真の願い」に気づくと、ファンタージェンに伝わるこんな予言を教えてくれる。

「それはね、いつかずっとずっと先に、人間たちがファンタージェンに愛を持ってきてくれる時がくる、という予言なの。そして、その時には、二つの世界は一つになるだろう、というの。」


現実世界に戻ってきたバスチアンに、古本屋の主人コレアンダー氏もこんなことを言う。

「絶対にファンタージェンにいけない人間もいる。」コレアンダー氏はいった。

「いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージェンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」

(略)
コレアンダー氏はうなずいて、じっと考えながらパイプをふかした。

「そうだな。」
ぼそりといった。

「きみは幸せだよ。ファンタージェンに友だちがいるんだから。みんながみんなそうってことじゃないんだよ。」


20日のオフ会で出会った、5人をそれぞれ応援するブログに集まった人たちの中には、本当にファンタジーが悪夢に代わる瞬間をリアルタイムで体験せざる得なかった人もいて、その時の記憶は、安易には人に話せないくらい重い人もいる。

私自身が、同じホミンペンだと思っている友達から、3人も応援しているあなたを一緒には誘えない、と断られることもあって、そのたびに、悲しくなる。苦しくもなる。

そんなに3人を応援していることは受け入れがたいことであって、悪いことなんだろうか、拒絶されても、「仕方ないね、人それぞれだからね」って黙っていなければいけないんだろうか。

2人しか応援していない人に、ユチョンの萌え話とかしないようにしていてもさ^^;

でも、大切なことは、全ては自分のファンタジーであって、誰かが答えを持っているという訳じゃないって事かなあって。

自分の気持ちでしか、結局のところ決められないし、残念だけど、そういう事を言う人はもう「友達」ではないとあきらめるしかないのかもしれない。

それは寂しいことだけど、仕方ない。そういう人の中にある”東方神起”と、私が見ている”東方神起”は、もう違うのかなって。

江の島にトンペンさんとくるたびに考える。あの頃の彼らは、自分たちの未来をどういう風に考えていたのかなって。

いつまでも一緒にいられるとは思っていなかったにしても、日本での活動が軌道に乗り始めて、少しずつ自信もついていった時だったと思う。

それからあっという間に頂点が近づき、やがて一緒にステージには立てなくなる日がやってくるなんて、思ってもいなかっただろう。

でも、「変わる家」のアイウォーラおばさまが言うように、本当は「何一つ、失われはしない」のかもしれない。目に見える何かが変わってしまうとしても。

それが何か、今はまだ、上手に言葉にすることができないけれど、ユノやチャンミンのついでに←すまんね
ジュンスもジェジュンもユチョンもチェックしながら、

この私の大切なファンタジーがどうやって「はてしない物語」として続いていくのか、見届けたいなあと思った江の島の午後でした。


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