今年の巡行順序です。

宵山見物や山鉾巡行には、暑さ対策にご留意くださいませ。

特に高齢者や基礎疾患をお持ちの方は充分注意されます様に、お願い致します。

また宵山期間中は大変混雑すると予想されます。
そして山鉾町の周辺は交通規制され、事前登録された車両以外は進入出来ません。
バイクや自転車なども、下車して手押しして頂くことになります。

歩行者天国では、バイクや自転車の持ち込み自体も禁止されるでしょう。

京都市営地下鉄(四条、烏丸御池)や、阪急京都線(烏丸)を、ご利用ください。

 
【参考】
古い「ちまき」の処分
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12496048605.html

山鉾の位置(応仁の乱後)
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385494573.html
山鉾の位置(応仁の乱前)
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385354216.html
平安時代後期の邸宅配置
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12387429627.html

 

貞享2年(1685年)刊行の『京羽二重』に『常明山』『六角通烏丸西へ入ル町』と紹介されています。

ここでの注目ポイントは『浄妙』を『常明(じやうみやう:常に明るい!)』と読みを文字り、当て字で洒落ている点です。

大河ドラマ「べらぼう」で蔦谷重三郎が「粋」を江戸庶民に流行らせたと描かれそうです。

しかし、それより約100年前に京都の庶民は祇園会の神事に渡す山の名を、当て字で表し、それが世間的に了承されていたのは驚くべき事実です。

この『常明山』との名称は、昭和の初めまで使われていました。現在でも舁き手の陣笠、収納の箱書などに、その面影を残しています。

さて何故、当て字を用いたかについての考察です。

そもそも治承の役(西暦1180年)は、負け戦でした。

主将の以仁王は敗走中に、討ち取られました。

侍大将の源頼政は、平等院で果てます。

一番乗りを果たした一来法師は、宇治川橋で戦死です。

筒井浄妙は平家物語では生き延びた様ですが、行方は定かではありません。

かように「悲惨な話」です。

また「悪しう候山」ってのも冗長ですし、まして「あすいしやう」なんて、NGが出そうです。

こんな暗い背景ですが、この事件こそが源氏が平家を滅ぼす端緒となった歴史的経緯があり、平家物語の中で勇ましく語られます。

勝ち運を授けますとの逞しい商魂(苦笑)でもって、お飾りする住民は「私達は元気一杯です!」とブチ上げたのだと思います。

現在でも祇園祭の山鉾連合会に所属する各山鉾町は、各々の山鉾町に主たる運営責任を委ねられており、他の山鉾町から苦情を付けられることは、ありません。

例えば、ある山の理事長が「今年は巡行に参加しない」と言えば、山鉾連合会や他の山鉾町は巡行参加を強制できないのです。

浄妙の語呂を『常明』と言う他の文字で代用して祭りに奉仕する、骨屋町の住民達の意気込みを感じて頂けたらと思います。

【参考】

山鉾の位置(応仁の乱前:2018年6月投稿)

https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385354216.html

浄妙山の成立(Part 2:2025年4月投稿)

https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12892705656.html

 

応仁の乱前の山鉾の位置について姥柳町を紹介しましたが、更に玉蔵町(六角通りの室町~新町間:骨屋町の西隣の町内)も絡んでいました。

「京雀」の『ほねや町』の次ページに『たまくら町』の項目があります。この玉蔵町に源三位頼政の社があり、祇園会の14日(旧暦の還幸祭)に山を飾っていた。

山の名は「あすいしやう」という。本当は「あしうそうろう(悪しう候)」となる筈が、唱え違えたのだそうです。(以上、京雀:1665/寛文5年:の記述)

さて玉蔵町を地図で見ますと裏手の〔Bの広場〕で、姥柳町や鯉山町と隣接しています。

姥柳町は祇園社記十五で『しやうめう坊山』を出すと紹介され、鯉山町は鬮罪人で早くから山(出し物)を固定していました。

しかし玉蔵町の記述(社の存在、山の名称の謂れ)から地図を眺めると、源頼政の社が〔Bの広場〕に有った様な気がします。もし社が玉蔵町の六角通り沿いに有ったり、〔Cの広場〕だったりすると、姥柳町との関連が薄くなるからです。

源頼政は当時、人気が高く、日本全国各地で祀られていました。

話は変わりますが大河ドラマ「べらぼう」で、江戸時代には書籍の重板(完全コピー本:いわゆる海賊版)の罪は重く、内容を更新する類板(改訂版)ですら版元の了解を得るのに苦労したと知りました。

これは出版で先行する上方(京都・大阪)の版元が新規参入者を嫌い、先に出版した者の権利を声高に主張した結果です。

しかし変わり行く情報が更新されにくいと言う弊害を生みました。

祇園社記で姥柳町、京雀で玉蔵町と違いが有っても正しい方に内容が修正されず、世間の人々も違いをあまり気にしなかったのでしょう。

『源頼政の社』と言うのがキーポイントになると、浄妙山が最初に出来たのは姥柳町か玉蔵町であり、骨屋町では応仁の乱後(西暦1500年)から飾られたのでしょう。

【参考】

山鉾の位置(応仁の乱前:2018年6月投稿)

https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385354216.html

浄妙山の成立(Part 3:2025年4月投稿)

https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12892710306.html

 

京都の中心部(山鉾町の界隈)では、応仁の乱以前から『両側町』と言うものが出来ていました。

ダイアグラム, 設計図

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各町内(約100m)が道路の交差点に木戸を設け、夜間に鎖錠して防犯に役立てると言う自治機能です。

木戸の運営や管理を、道路を挟んだ両側の住民達で決めました。

庶民がこぞって『田楽踊り』で狂乱した後の時代の話です。

町の自治は『鬮罪人(くじざいにん)』と言う狂言の演目で表現されています。

その頃(14世紀)、京都の街中では祇園祭に合わせ各町内で山台(やまだい)と言う仮設の固定式舞台を設け、そこで催し物を住民達自身が演じていました。

毎年各町内で相談し各々演目を決めるのですが、鯉山と橋弁慶の演目は既に固定されていたと言うのです。

狂言は太郎冠者(召使)がうまく立ち回り、旦那(頭役:今年の町内会長)を遣り込めると言うドタバタ劇です。

さて鯉山と橋弁慶の2つの町内を、上から眺めてみます。

すると鯉山町と橋弁慶町は、道路の裏手が互いに繋がっている事が分かります。

当時は通りの裏側には土地を分ける塀など無く、広場〔Aの地点〕があり共同の井戸やトイレが有りました。そこでは当然、住民同士の交流も有ったでしょう。

つまり鯉山町と橋弁慶町は、祇園祭の出し物についての情報交換や相談を「通りの裏側で!」行っていたと推察されます。

更に両町は骨屋町とも裏側で接しています。骨屋町には竹加工の技能集団が住んでおり、竹骨に紙を貼って造形することも可能でした。ちょうど『青森のねぶた』の小型版の様な代物です。軽い造作の飾り物で、2~4人で担いでいたとの絵が残っています。

狂言で俎上にのぼった町内は、実は隣接していたと言う話でした。

 

宵山の前の日、22日が宵々山(よいよいやま)です。

更に、その前の日は、宵々々山(よいよいよいやま)と呼んでいます。

 

飾り席の設営も終わりました。

 

 

本年は通年より1日早い、19日に山建てを行いました。

 

飾席の設営は従来通り、21日に行います。

 

従いまして粽の授与も、21日(日曜)の10時からを予定しております。