『祇園社記』の中に前祭32基、後祭28基、合計60基の山鉾が記載されています。


しかし、応仁の乱後に古老から当時の状況を聞き取り、文章が起こされたのです。

よって場所が特定できない山鉾が有ったり、記憶違い(誤記を含む)も起こっていると思われます。
今回、山鉾をプロットするにあたり、ランドマークとして六角堂を入れました。六角堂は平安遷都の前、聖徳太子が創建したと伝わっており現在に至るまで場所は変わっていません。そして西暦1500年以降、江戸時代末まで、巡行の順番を決める『クジ引きの場』として機能してきました。
 
記述の順序に特徴があります。

前祭は長刀鉾から東西に走る四条通りを西に向けて数え、次に一筋北側の錦小路、南側の綾小路と言う風に通りに沿って記載されています。
一方、後祭は南北に走る通りである町尻(現在の新町通)の北から南へ数え、次に東西の通りを東から西へと、通り毎にリストアップされています。
これを踏まえて、場所の特定に困る山鉾の位置を推定しています。

 
記録された山鉾のうち現代まで存続しているのが、前祭で15基、後祭10基です。
---

【前祭の山鉾】
長刀鉾、函谷鉾、月鉾、四条傘鉾、霰天神山、保昌山、孟宗山、山伏山、菊水鉾、鶏鉾、
放下鉾、船鉾、岩戸山、蟷螂山、太子山
---
【後祭の山鉾】

八幡山、南観音山、大船鉾、北観音山、鈴鹿山、鷹山、橋弁慶山、浄妙山、役行者山、鯉山
---
なお浄妙山は六角通りではなく、四条坊門(現在の蛸薬師通)の新町~室町間(姥柳町)となっています。
これが誤記なのか移転したのか、現段階では不明です。
【誤記説の論拠】
後祭の鯉山(れうもんの瀧山)が新町通の三条~六角間になっています。しかも同所には八幡山が有ります。
この様に場所がズレているのは、浄妙山だけではありません。
【移転説の論拠】
応仁の乱で町衆が離散し有力者が移転したとか、骨屋町の在住者が浄妙山の権利(?)を譲り受けたとか、色々な理由が考えられます。
平安時代には三条烏丸~六角室町の一区画(約100m四方)は貴族の屋敷が有った様です。片町(通りの片側だけで町内を形成する)で山鉾の形成と巡行を支えるには、人数的にも経済的にも辛いと推察します。しかも財力が乏しい扇の職人達では、山鉾の維持運営は困難でしょう。

また応仁の乱前は、山鉾の巡行順序が先着順だったと言われ、順番を巡って争い事が有ったと記録されています。

後祭の先頭に橋弁慶山(応仁の乱後は、くじ取らずと明記されている)が書かれず、すて物ほくを始め鉾が4基(いずれも応仁の乱後廃絶)が最初に採り上げられているのが目を引きます。
姥柳町より骨屋町の方が後祭の出発点(三条通りの東洞院)に近いので、巡行の先陣争いに有利な場所です。
なお姥柳町は応仁の乱後には布袋山(前祭に参加)を出しています。
移転説の方がロマン(人間ドラマ)を醸し出します。

-----

【追記】 2019/07/30、画像入れ替え

 

【参考】 2020/06/28、追記
山鉾の位置(応仁の乱後)
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385494573.html
平安時代後期の邸宅配置
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12387429627.html
 

図を重ね、パラパラ漫画の様にして比較します。