平安時代後期(西暦1000~1200年頃)の邸宅配置の概略図が「平安京提要」と言う文献に載っていましたので、山鉾町の図にプロットしてみました。

平安京の坊条制は、大路と呼ばれる通りが縦(南北)と横(東西)に走っています。その「井」形に区切られた四角い土地が「□条△坊」と呼ばれます。

大路の間に小路が3つずつ入ります。これで別れる16の四角い土地に番号が付けられます。

左上から下へ順に一町~四町、それから右横に移り五町~八町と上へ順に数えます。ちょうど屏風の折り方(畳み方)に似ています。

例えば六角堂の土地は、地券(土地の権利書)上では「四条三坊十六町」と表します。

骨屋町は四条三坊九町の南側と、四条三坊八町の北側で構成されます。
元々四条三坊九町には「三条南殿」という邸宅があり、六角通りに面した場所に簡易な店舗は開けても、庶民が本格的な商店や居宅を建てるのは難しそうです。
こうして色分けしてみると西洞院六角と烏丸四条の四角い地域には、庶民が多数居住していました。
それらの人々が、祇園会で剣鉾や傘鉾での巡行から、屋台形式の舞台で演じる事を始めました。狂言『鬮罪人/くじざいにん』の中に、演目や配役の相談、稽古の模様などが表現されています。
応仁の乱(西暦1467年)の前には出し物の固定化、舁き山の様式化、曳山や鉾の造営が進んだ様です。

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【参考】 2020/06/28、追記
山鉾の位置(応仁の乱後)
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385494573.html
山鉾の位置(応仁の乱前)
https://ameblo.jp/honeya-cyo/entry-12385354216.html
 

図を重ね、パラパラ漫画の様にして比較します。