電話1件:13時半、役所へ。8月7日提出した鍼灸同意書の認定がどうなったかについて知りたい。
・自分の話⋯銀行口座に利息(数十円)などの収入あり。規定通り来月10日までに収入申告でよろしいか。それから8月7日に提出した鍼灸治療の申請について、さすがに進捗を知りたい。
・担当さんの話⋯収入申告はそれで良い。鍼灸治療の申請書については、ちょうど今担当部署から手元に戻ってきて電話しようと思っていたところ。鍼灸院の欄の部分に印が足りない。
・自分の話⋯2週間くらい前に提出していて、いまのいまそれを知るとは。まさかまたこれを理由に9月1日からの認定ができないなどと言うのだろうか。
・担当さんの話⋯まだ嘱託医に確認取れていない。とりあえず自宅に郵送するか、鍼灸院に郵送するか。今月25日くらいまでに提出があれば、今月中には結果が分かるはず。
・自分の話⋯鍼灸院のお盆休みもある。自宅への郵送をお願いする。25日に書類を提出しにいく。
・担当さんの話⋯では今日中に自宅に書類を郵送する。
25日くらいまでに、それで月末には分かる、との言質。録音されていても、都合の悪い録音は簡単に破棄処分できると思って、責任の伴わない言動をする文化が染み付いているかどうか、少なくとも月末までには明らかになる。
このような書類の不備に、気付かず担当へまわし、担当部署もまたすぐ気付かないなど、8月7日に提出した書類の不備を、19日に、それもこちらからの連絡で、申し伝えるなど、おおかた、9月は手当収入があるので、認定遅れても平気だろうと思われている。そういうことだろうと思われる。
わたしもまた、鍼灸院から受け取って、7日に提出の際、気が付かなかった。提出時は、担当さんも不在のため窓口にただ預けただけだった。頭にはっきりしない、重たい時には、その程度も分からない、事実私は、どうしようもない、他人の手を借りないと生きられない、はっきりとしていない、しっかり仕事ができない、障がい者なのである。
電話1件:14時過ぎ、役所へ。
・自分の話⋯鍼灸院のお盆休みが昨日で終了していた。やっぱり取りに行き、今日中に用意しようと思ったが、どうか。
・担当さんの話⋯ついさっき、今日発送の便に載せてしまった。今日明日には届くと思われる。
・自分の話⋯承知。
そもそも出歩く体力もないので、仕方がない。
水曜日と木曜日の2日間、子どもさんと家でのんびり過ごす。
今までの数ヶ月の荒れようは何だったのかというくらい、とても落ち着いて過ごせる。一緒に宿題もやって、カードゲームや将棋もして遊んだりした。
そうして、特に何もしていないが、
信仰に入る前からの、子どもと過ごす時間が子どもは可愛いけど苦痛という、信仰入ったあとも、保護で保育園へ預けている時間以外、夕方から夜と週末がいつも気持ち的に難しいのは、苦手ゆえだと思っていたことに加えて、
ここ数ヶ月は本当に酷かったこと、何回も言ってきたことや、子どもの未熟な点を前にして、怒りや悲しみや絶望に泣き叫ぶことも多かった。
(それらは、既に過ぎ去って、つまり過去になり、壁一枚隔てた向こう側の世界になった。わたしたち親子は、そこから、救い出された。わたしは、信仰以降の出来事における罪悪感から、救い出された。)
それは、おそらく大きく次の要因があった。
まず、この世のあらゆる人間のうちでもっともかわいいと思う子どもについて、それでも一緒に過ごす時間が苦痛というのは、まず、自分にとって、
・未経験、まずいろいろな対応の処理方程式が知識的に不明の事が多い仕事であること。
・自分に他者との境界線が無かったので、子どもの感情の世話仕事を、生存に重要な乳児期を過ぎても、物心ついてもやめられないので、生活の負荷があまり軽くならない。
・子どもに対してもNOが言えない、相手の要求をぜんぶ満たそうとする、生育環境由来の筋金入りのパッシブコミュニケーションスタイルが、子どもの当たり前のレベルを引き上げていってしまう
・感情は分かるが、そもそも物心ついてから自分の感情を否定はされども受け止められ、世話されたことはないので、子どもの感情が揺らいだ時に、甘やかしと拒絶の間にあるはずの躾の位置感覚がわからず、どう対応すれば良いのか分からず、いつも判断ができずストレス。
・今はかなり改善したものの、障がい発症に伴う認知、言語機能の低下、重たい思考力の低い頭、腰痛、それ以前は身体のオーバーワークによる心身疲労による対応不可能な事態にキャパオーバーに。
そういうことがあったなあと思う。箇条書きの内容は、きっと、重なり合っていたりする部分も多かったが。
ーーー
しかしそれはさておき、今日本当に書いておきたかったのは、
2023年にイエス様に出会って悔い改め、救われたわたしの、信仰以降の3年程度の人生で、
特に病気?障がいを発症してから、感情のコントロールが難しくなり、些細なことに感情が揺れ動くようになり、子どもさんの前でもどうにもできずに急に泣いたり怒ったり大声を出したりすることがあって、
子どもに対して、激しい強い悔い改めの気持ちを抱いているということだった。
改めて振り返ると、信仰以前も、子どもはうまく世話できずともいつもかわいくて、未解決の過去の壁に立ち塞がれて止まってしまいがちの私に日々役割と、多くの仕事を与えてくれ、それでいて付き纏う誰にも愛されていない、理解されないという孤独感の闇の中で、明るく光のように照らしてくれていた。
わたしの乳房に一生懸命吸い付いてくれる姿。私の抱っこを求めて手を伸ばしてくれる姿。寝ているときんの無防備な姿。無意識に握り返してくれる手。
それは年齢を重ねても同じはずで。しかし喋るようになって、はじめて寝る前の話しかけに返事をもらえたときの感動もいつの間に立ち消えて、そのうちに延々と止まらない子どものおしゃべりの相手にうんざりしはじめ、
つまりそうやってたくさん喋るのに生活面では成長しないアンバランスさにもやきもきして、
今思い出しても、自分の日々のまたあ?!という狭量な反応や、自分の子供じみた不平不満や言動と、並べ思い起こされて、尊さと情けなさがない混ぜになって泣けてくる。激しい後悔の念。
特にイエス様への悔い改めによる罪の気づきから、すべて自分の罪だったんだと、激しい罪悪感に押しつぶされて、這いつくばるような日々の中で、次第に、特に引っ越し前後くらいから、強く言ったり怒るようになってしまった信仰以降の生活で、いつも気持ちをぶつけてしまったり、こんな未熟な親でごめんの気持ち。
子どもはいつも悪気なく、純粋にわたしを信頼するゆえに、ただありのままで生きていただけなのに、
なんでもっと、ずっとやさしく導いたり諭したり、教えたりできなかったんだろう…。
いつまでも変わらないと嘆いたり、こんなにがんばっているのに、と、勝手に落胆したりして、
いつも私が助けられ愛されて、守られていただけなのに、
(保護に入ったあと半年ほどで信仰を与えられたが、仕事していない期間、子どもの存在がわたしに社会的役割を与え守ってくれていたのだ。さもなくばこんな性格の女性など、社会からも見放され野垂れ死にコースだった)
つい最近までつい、まあわがままや欲しがりなど子どもの態度などによって、つい昔あんなに時間もお金も注ぎ込んで頑張ったのよみたいな、そういう事を言ってしまう。実際は100%子どもさんに注いでいたわけじゃないのに。そう言いたくなって言ってしまうことも多い。
なので、せめて恩着せがましくというよりは、それくらい可愛くて愛しているんだよ、という情報につながるように話してはいる。しかし子どもがどう受け止めているかは、成長の段階で明かされるに違いなかった。
昔は保育園のあとも毎日2〜3時間近所の公園をはしごしたり、休日も雨でも何でも1日中出ずっぱりの歩き通し、当然抱っこやベビーカーや荷物も入る中で、毎日クッタクタのヘトヘトになりながらも、それでも籍を抜けて名実ともに一人になってからは、精神的屈辱や不足感から抜け出し、肉体面のキツさは変わらずとも、精神的にかなり解放されたはずが、信仰に入ってからは別の激しい罪悪感がわたしをとらまえて、大変なことになっていた。それで障がいを発症し、這いつくばっていたものの、
本当に信仰によって義を与えてくださる神様によって、
わたしは信仰以降、ひとつも悪くなかった。
もちろん、ひどい扱いを受けたとか、あるいはお世話になったとか、様々だが、
ただ、わたしの状況としては、神様の御計画のために、這いつくばらされていたのである。
(神様は、わたしに対して人々がどう出るかを、みておられた)
でも、
それらの間に子どもとの間で起きたことだけ、
いまでも激しく後悔し、泣き、でも
この親のどうしようもない罪を、何度も謝罪を受け入れて、何度も敵になって攻撃してしまうわたしの、本当の揺るぎない味方、家族として受け入れ、わたしを何度もゆるして愛して無償の愛に立って信じてくれた子どもへの感謝と
頭の上がらない気持ち。
いまはもう病状も良くなって、感情が信仰以前のように、いやその時よりも盤石に安定していることが増えた。なので、
一週間、休んでいる間に、
当然仕事のことを考える。
それで子どもが寝たあとに、ひとり時間に、ダブルワークでも何でもしてやる、能力を発揮しまくって絶対に自立してやる、最底辺の貧乏扱いも貧乏暮らしも、いつもわたしの扱われ方が問題で、かわいそうな人ならともかく、怠け者のテイカー、関わらないほうが良い人、何もできない人、役立たず、社会のお荷物、ごみ、あるいは女は出しゃばらず子育てだけしていろ、とか、わたしが苦手を回避する手段と公的許可があるのに、子どもも含めて誰も得にならないが、ただただ感情的に向こうの嫌や怠惰心によって苦手を押し付けられ攻撃される、そういうのはもう懲り懲りだ、と思っていた時に、
(それでも幼稚園でも教会でも子どもが行きたくない!と言うなら行かなくて良い!で休ませてきた。自分の経験があるので、心を守りたかった。不登園の時期もあった。小学校はさすがに義務でもあるので、できるだけ励ますようにしている、学童も。本人も乗り越えつつある。)
ふと隣の部屋で寝ている子どもの気配に、いろいろのことを思い出したのだ。
この子どもがいなかったらわたしはとうに物理的にも精神的にも死んでいたし、そもそも子どもが教会の建物を指さして行きたい!と言ったので行ったのでイエス様に出会って救われたのだった。
これからも子どもの存在が、今ただ心身が無事で生きていること、それがわたしの支えで、親子二人の時間に吹きすさんだ嵐を経て、子どもの無事がわたしを人間に留まらせてくれている。これからは仕事人間になる予定なので、接する機会も減り、ますます自信を持って子どもにもこまめに主張しNOを言いながらコミュニケーションできるので、今までのような突然の感情の爆発などのことは起こらない、いや、二度とは起こさない、そのためにも仕事に忙しくして、経済的にも、感情的にもいつも根本的な問題解決的な、父親的な関わりになっていきたい。今さら感情の寄り添いができるようになるわけもなく、むしろそれができないからこその適職もあるのだ。もはや他人の感情にまったく左右されない、ただ目的のために冷静に状況を活用したり切り抜けられる思考力の伴った、自分がここにいる。あと信仰者は性別関係なくみんな、雄々しくあれ!(第一コリント16章13節)と言われているので。
これで、今までのことで、子どもが発達障がいや、精神病にでもなっていたら、わたしは文字通り発狂して人間でなくなって、しまっただろう。
子どもも信仰告白の伴わない、小児洗礼だが、
聖霊を与えられていた。
ただ、子どもの心身を守ってくださった
イエス様に感謝。
アーメン
人は前に進まない。そう思った。
人と人は、特性も、能力も、性格も、得意不得意も、すべて異なる。
わたしは用事があり、子どもさん学童へ。お盆期間中なので人が少なくて過ごしやすかろう。わたしと同じで敏感なところがあるので、人が多くてうるさいのが苦手のよう。それでも体調良ければ気にせず楽しい!で平気そうなこともあるけれど。
午前中役所へ。午後は在宅で定期設備点検の立ち会い。合間に家事と作り置きを済ませる。
土曜に学んだ休憩の仕方で、水を飲むとか、あったので早速、外出中に取り入れてみた。暑いので、自転車を漕ぎながら、定期的に立ち止まって一口飲む。
公開の講座を受けてきたが、そこでも定期的に一口。
そうするとお手洗いに行く。それも休憩になる。そういう知恵を、誰にも教えてもらえずに、ありがたいことに就労移行支援所で教えてもらえるので、いただいた教えを大事に大切に取り入れていく。
帰り道は買い物など。金欠だとスーパーをはしごして特に安いものだけを買っていくやり方になる。ここでも、定期的に立ちどまって、持参した水を、一口。
身体の疲れが、週末から続いているものの、なんとか日常生活のペースは落とさずに、子どもさん帰宅後はちゃんとシャワーで身だしなみの基礎を整え、学童も休みの明日に備えて、子どもの宿題や、無くなりかけの水キムチを作り直すとか、そういうやることを考えていく。前に、進もうとしている。
休憩しながらも。体力のキャパシティと向き合って、外野の雑音や、世の中の普通に無理に合わせずに、
自分のちょうどよいを、探して、整える期間として、向き合うことにした。持続可能な仕事や生活の仕方、それは、いままでの人生では無かったことだから。
懇切丁寧に、建前とかじゃなく、家庭で教えてもらえる環境が無く、家庭の外でも教えてもらえるような人間関係の作り方も知らず、結局教えてもらえず、批判や非難ばかりを浴びて、そのまま我が心身を傷付けられるままに他者の視線に晒し歩いていた。他者にゆだねていた。
今はイエス様にゆだねている。イエス様はわたしを守っていてくださる。神様のことだけ考えれば良く、人間から届いてくるいろいろな雑音や、想像力に欠けているがゆえの感情的そしり、心の声やその関連のエネルギー爆弾、
それらは受け止める必要などなかった。それらは、わたしが受け取らなければ、ほんのちょっと身を神様のほうへずらして避ければ、ただそれで解決する話だったのだ。主はわたしの避け所。わたしの岩。旧約聖書の詩篇にもある。
アーメン。
就労移行支援所へ本格的に通えるまでも、このように学びに充実して過ごせたら良いと思う。政府の補助金事業という、それはとても本当に、助かる場所で、つまりバブル崩壊以降、家庭内平和が随所で崩され、社会で様々な原子爆弾が落とされ、その後遺症に苦しむ人たちの更生施設や療養所かも知れなかった。ある意味でそこで働く人々も、被爆覚悟のそういう現場である。(でもわたしは今の通所のところではいつも快適でそんな感じではないけれど、ただの社会の中での構造的な例えとして。経済あるいは精神的な戦争が起きているとして。) 今までの、なんだ、そんなことくらい家で家族に教えてもらってこなかったのかよ、なんていう、そういう常識とか、普通だなんて、言えない時代がもうある。失われた30年、子どもや、つまり若年者や、社会の中で、リストラの対象になったり、今は非正規雇用だったり、弱い立場で生きてきた人間たちが、もうゆるしたり愛したりする力を失い、神様の御心にかなうような隣人愛に生きられる力を失い、そこから救い出だしてくださるイエス様の救いを必要としている。
イエス様は、心身共に追い詰められて疲弊する、弱い立場の人間を、厳格な父なる神様の御前に弁護し立たせてくださるために来てくださった。神様との和解のために。
マルコによる福音書 12:27 新共同訳
[27] 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
https://bible.com/bible/1819/mrk.12.27.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3
これは、この地上でわたしがいつも直面してきた理不尽、つまり神様によるダブルスタンダードの、核心にある概念である。なぜ同じことをしているのに、人によって、まったく違う結果や評価がおとずれるのか。
心の態度。信仰があるかどうか。
ここでの信仰とは、イエス様も神様も認識していなくても、自分という存在への、今ここにある世界からの愛を信じているかどうか。ただそれだけなのである。善人か悪人かではない。人間どうせみんな神様の御前にはどんぐりの背比べ、潔白の十字架の死と復活のイエス様の前には、真っ白な人間なんておらず、どうせみんな等しく罪人である。
それは神様と和解しているかどうか、そういう観点が主要な原因になっている。もちろん細かな状況により異なり、すべての判断は神様次第、信仰者に与えられる義のための迫害にあたる場合もある。
神様の御前に、この世界の造り主であられる神様、そして他者を信じる気持ち、信仰が死んでいては、父なる神様の恵みに預かって生きることが出来ないのである。神様を呪っているのに、神様の愛と恵みに預かって生きることなど、できやしないのである。
それでも、自他の罪に罪を重ね合ってがんじがらめになって、もう何も信じられなくなってうずくまるようにもがき苦しむ私たちに、イエス様が、再び、神様を信じる心、信仰を与えてくださるのである。
そして再び、他者を、隣人を、信じる心、隣人愛に、生きられるように、作りかえてくださる。わたしたちは、神様への愛、そして隣人への愛、そのためにイエス様によって信仰を与えられ、救われるのである。
昨日記録の通り、2日前の鍼灸後、昨日1日経ってもくたくたの様子で、今日は牧師さん送迎で一日子どもさん教会へ。感謝。献品もお受け取りいただけて良かった。
電話1件:画像の、以前、現在の自治体から返還のあった、追加給付の問い合わせ及び必要書類の郵送手配申請。引っ越し前の自治体へ、自分で問い合わせが必要だった。ホームページも覗いたが、PDFがすぐに見当たらなかったので、念のため電話。土日祝もつながるフリーダイヤルなのがありがたい。自分の場合は少額だろうけど、そこはキチンと申請し、周知の意味も兼ねてここに記載。

体調としては、子どもさん預けている間は、ゆっくり過ごし、夕方から軽く家事などで動き回れる。少し本調子ではないものの、ちゃんと食べて水も飲めて、子どもさんとも気楽に喋れる。やるべきことができていると、すごく安心する。昼間に焼きたかったちんすこうも夜に焼けた。うれしい。
行動:就労移行支援所へ。前回、次回予約させていただいた。内容は、上手な休憩のとり方みたいな内容。休憩は大事みたいなこととか。聞いていると、リラックスして、疲れを感じた。少し頭もぼーっとして、眠たくなってくる。
体験のあとはいつも通り面談。
・スタッフさんの話⋯もう一箇所見学するなどの話もありましたが、どうですか。
・自分の話⋯訪問看護さんから、動きたい気持ちは分かるけど、今が踏ん張り時という、ストップが入った。活動的になってみて、今まで、主治医の先生からも、いろいろな方々から(保護の担当さん、教会の方etc.) 頑張りすぎないで、というストップのほうの声かけばかり。確かにいま全力ではじめるという時期でないのかも知れない。鍼灸にも行った。なので一週間の休憩の記録ワークを、今の生活ベースでやってみようと思う。ちょっと活動を休んでみようと思った。こちらでいつも親切に大切に見守っていただいているので、ぜひこちらで契約させていただきたい。アサーティブなコミュニケーションにまだ慣れず、練習したいので、次回の日曜日、ちょうど、コミュニケーションに関するプログラムがあるようなので、参加したいが、可能か?
・スタッフさんの話⋯ぜひ。ちょうど希望に合致するいいプログラムだと思うのでどうぞ。引き続き、こちらの事情もあるが契約が10月前後の可能性もあるのはだいじょうぶか。
・自分の話⋯ゆっくりしてみて、他に自分で準備したり、できることをして過ごしてみようと思う。焦るような気持ちはだいぶ、落ち着いている。
・スタッフさんの話⋯承知。引き続きよろしく。
帰宅後からとても眠たい。
この日の夜、寝るために横になると、脚がものすごく重たい。足首が潰れたみたいに痛い。足の指もじんじんしている。脚全体の筋肉も、腰回りも倦怠感。そうか。この1週間、歩き回りすぎていたか、そう思う。身だしなみを整えるためにあれこれ買い揃えたり、手続き関係や、通所や通院、とにかく朝から出かけて昼ごはんも食べずに戻ってくる、そういう日々の連続だった。以前の、仕事をしているときの感覚になって、嬉しい感覚ではあったけど、でも、継続可能なキャパシティの範囲は超えているようだと、通所の次回予約を1週間あとにして、そう思った。とにかくいろいろ一気にこなそうと思って忙しくしていた。希望する仕事はさして歩き回る仕事ではないので、そう考えると、仕事をしているときよりも活動量が多かったのかも知れない。
聖書の言葉を思い出す。
マタイ筆・福音書 26:40-41 ERV訳
[40] そしてイエスが、弟子たちのもとへ戻ると、「Zzz・・・」弟子たちは寝ているではないか。イエスはペテロを見て言った。「おい、お前たちは1時間たりとも共に起きていられないのか! [41] 目を覚まして、誘惑に陥(おちい)らない力を祈り求めるんだ。霊は正しくありたくても、体は弱いのだから」
https://bible.com/bible/3802/mat.26.40-41.ERV%E8%A8%B3
正直良く分からない。
周りの人は、休憩が大事という情報を手渡してくるが、イエス様は、人の子には枕するところが無い、という。いつも隣人愛に生きて、何か働いていないと、いけないという概念だ。
鍼灸も自費なので、次は来週。今月あと2回いければいいほう。
良く分からない。明日は子どもを教会に送迎もできなさそうなので、お金はないので、可能な限り献品を用意して、牧師さんに子どもの送迎をお願いしようと思う。
行動1:鍼灸院へ。書いてくださっていた、鍼灸治療の意見書を受け取る。それから施術もしていただく。
行動2:役所へ。保護担当へ、鍼灸の意見書を提出し、近場の歯医者の医療券を親子二人分、もらう。

歯医者はたぶん記録してなかったが、5日水曜日に無料検診を受けていて、以前から遠方のかかりつけ歯医者にも経過観察になっていた、虫歯の治療を勧められる。近所にかかりつけを変えて、移動の手間や交通費、時間やエネルギーの節約をしようと思っていた。こちらスタッフさん先生ともに親切で対応も良く、信頼できると感じ、場所も便利で通うのに全く問題なさそうで、子どもさんも通えるみたいで、最近仕上げ磨きをしていても、歯石があるのかあるいは良く歯茎が出血するので、口内環境が心配の子どもさんも連れて行こうと思う。学校の健診だけではやや不安。別々の予約はいずれもお盆などもあり、月末ごろ。それまで歯磨きと、経験則上、ストレスで虫歯になるので、子どもさんとストレス無く過ごすように気を付けようと思う。
また、別の部署へ、ひとり親への手当の年一の確認の作業に(手紙が来ているのでそれを持っていく) 。
そのあと、子どもさんと図書館へ行く。
また、夏休みの外出は、お金も無いし遠くへも連れていけないので、以前訪問看護さんのときにおすすめしていただいたレジャー、映画に連れて行く。幸い、日常生活の行動の圏内に映画館がある。これで絵日記にかけたり、夏休み明けに話題にできるだろう。涼しくて気分転換になり、面白い時間を過ごし、親子で感想も話し合えて、良い夏休みの思い出になった。子どもに生きるための努力などを呼び起こす良い内容かなと思い、そういう啓発的な意味でも有意義だった。
今日の出来事など。
子どもさんを学童へ預け、身だしなみのための散髪や買い桃などに奔走、そのうちに13時ごろ就労移行支援所へ体験、そして面談、そして帰宅。
明日は学童をお休みして、鍼灸院メンテや役所へ書類仕事、そのあと思いきって映画を見に行くことにした。夏休み唯一の外出だが、悪くはないだろう。
行動1件:鍼灸院へ、鍼灸同意書持っていく。
・自分の話⋯整形外科では、見せてもらったレントゲンは結構曲がって見えたが異常の所見無し、仕方なし、同意書をまた取ることに。9月1日からの申請。でき次第、取りに来たい。今日の夕方可能か?
・先生の話⋯承知。夕方可能。
電話1件:鍼灸院から
・先生の話⋯さっき夕方と言ったが、やっぱり確認事項ができたので来週でも構わないか?
・自分の話⋯なんと、ああできれば手続きに時間かかるかもなので、今週中に提出したいのと、提出時に自費にはなるが一回施術していただきたいなあと思っていたところ。できれば金曜午前。可能か?どうしたらいい。
・先生の話⋯それなら、金曜午前に用意して待っている。
・自分の話⋯感謝。
まあちっともお金は無いけど、いくつかの生活費目、1ヶ月くらい支払いを先延ばしにできるものをさせてもらって、で、鍼灸の自費を捻出することに。保護でなくて健康保険の場合よりも、4倍近く高いが、まあ小学校費用含め、各所には申し訳ないが(小学校の分は以前、一番最後でいいですと言っていただけて本当に感謝、また申し訳ないが9月分の支払いとまとめて9月払う。9月には払えるはず…。)
それで、週1くらいなら払えるんじゃないかなと。
あるいは、今週以降、全く調子が良く行かなくて済む場合はもちろん、遅らせずに各所に支払いをちゃんとする。