わたしは用事があり、子どもさん学童へ。お盆期間中なので人が少なくて過ごしやすかろう。わたしと同じで敏感なところがあるので、人が多くてうるさいのが苦手のよう。それでも体調良ければ気にせず楽しい!で平気そうなこともあるけれど。
午前中役所へ。午後は在宅で定期設備点検の立ち会い。合間に家事と作り置きを済ませる。
土曜に学んだ休憩の仕方で、水を飲むとか、あったので早速、外出中に取り入れてみた。暑いので、自転車を漕ぎながら、定期的に立ち止まって一口飲む。
公開の講座を受けてきたが、そこでも定期的に一口。
そうするとお手洗いに行く。それも休憩になる。そういう知恵を、誰にも教えてもらえずに、ありがたいことに就労移行支援所で教えてもらえるので、いただいた教えを大事に大切に取り入れていく。
帰り道は買い物など。金欠だとスーパーをはしごして特に安いものだけを買っていくやり方になる。ここでも、定期的に立ちどまって、持参した水を、一口。
身体の疲れが、週末から続いているものの、なんとか日常生活のペースは落とさずに、子どもさん帰宅後はちゃんとシャワーで身だしなみの基礎を整え、学童も休みの明日に備えて、子どもの宿題や、無くなりかけの水キムチを作り直すとか、そういうやることを考えていく。前に、進もうとしている。
休憩しながらも。体力のキャパシティと向き合って、外野の雑音や、世の中の普通に無理に合わせずに、
自分のちょうどよいを、探して、整える期間として、向き合うことにした。持続可能な仕事や生活の仕方、それは、いままでの人生では無かったことだから。
懇切丁寧に、建前とかじゃなく、家庭で教えてもらえる環境が無く、家庭の外でも教えてもらえるような人間関係の作り方も知らず、結局教えてもらえず、批判や非難ばかりを浴びて、そのまま我が心身を傷付けられるままに他者の視線に晒し歩いていた。他者にゆだねていた。
今はイエス様にゆだねている。イエス様はわたしを守っていてくださる。神様のことだけ考えれば良く、人間から届いてくるいろいろな雑音や、想像力に欠けているがゆえの感情的そしり、心の声やその関連のエネルギー爆弾、
それらは受け止める必要などなかった。それらは、わたしが受け取らなければ、ほんのちょっと身を神様のほうへずらして避ければ、ただそれで解決する話だったのだ。主はわたしの避け所。わたしの岩。旧約聖書の詩篇にもある。
アーメン。
就労移行支援所へ本格的に通えるまでも、このように学びに充実して過ごせたら良いと思う。政府の補助金事業という、それはとても本当に、助かる場所で、つまりバブル崩壊以降、家庭内平和が随所で崩され、社会で様々な原子爆弾が落とされ、その後遺症に苦しむ人たちの更生施設や療養所かも知れなかった。ある意味でそこで働く人々も、被爆覚悟のそういう現場である。(でもわたしは今の通所のところではいつも快適でそんな感じではないけれど、ただの社会の中での構造的な例えとして。経済あるいは精神的な戦争が起きているとして。) 今までの、なんだ、そんなことくらい家で家族に教えてもらってこなかったのかよ、なんていう、そういう常識とか、普通だなんて、言えない時代がもうある。失われた30年、子どもや、つまり若年者や、社会の中で、リストラの対象になったり、今は非正規雇用だったり、弱い立場で生きてきた人間たちが、もうゆるしたり愛したりする力を失い、神様の御心にかなうような隣人愛に生きられる力を失い、そこから救い出だしてくださるイエス様の救いを必要としている。
イエス様は、心身共に追い詰められて疲弊する、弱い立場の人間を、厳格な父なる神様の御前に弁護し立たせてくださるために来てくださった。神様との和解のために。
マルコによる福音書 12:27 新共同訳
[27] 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
https://bible.com/bible/1819/mrk.12.27.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3
これは、この地上でわたしがいつも直面してきた理不尽、つまり神様によるダブルスタンダードの、核心にある概念である。なぜ同じことをしているのに、人によって、まったく違う結果や評価がおとずれるのか。
心の態度。信仰があるかどうか。
ここでの信仰とは、イエス様も神様も認識していなくても、自分という存在への、今ここにある世界からの愛を信じているかどうか。ただそれだけなのである。善人か悪人かではない。人間どうせみんな神様の御前にはどんぐりの背比べ、潔白の十字架の死と復活のイエス様の前には、真っ白な人間なんておらず、どうせみんな等しく罪人である。
それは神様と和解しているかどうか、そういう観点が主要な原因になっている。もちろん細かな状況により異なり、すべての判断は神様次第、信仰者に与えられる義のための迫害にあたる場合もある。
神様の御前に、この世界の造り主であられる神様、そして他者を信じる気持ち、信仰が死んでいては、父なる神様の恵みに預かって生きることが出来ないのである。神様を呪っているのに、神様の愛と恵みに預かって生きることなど、できやしないのである。
それでも、自他の罪に罪を重ね合ってがんじがらめになって、もう何も信じられなくなってうずくまるようにもがき苦しむ私たちに、イエス様が、再び、神様を信じる心、信仰を与えてくださるのである。
そして再び、他者を、隣人を、信じる心、隣人愛に、生きられるように、作りかえてくださる。わたしたちは、神様への愛、そして隣人への愛、そのためにイエス様によって信仰を与えられ、救われるのである。

