S43年 プロレスファンになったきっかけの一戦 | HONDAのブログ

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S43年の正月いきおくれていた父親の妹が婚約 本家で婚約

の食事したあと その叔父さんが プロレス見たいとのことで

一緒にみたのが G馬場 20歳代の最後の試合「粉砕者 

クラッシャー・リソウスキー」との 一戦 この後 5年におよぶ

深いプロレスファンの始まりでした。このとき 試合よりも 負けた

 クラッシャーに若き日の徳光アナウンサーのインタビュー、英語を

習い始めて聞いたナマの英語でした。中学の英語の先生も見

ていたようでしたが、最後は「あら 英語ちゃうで」というてました

が??最後をよく聞いていると「ババ イズ クーイー」というの

がよくわかりませんでしたが あれはアメリカ人が東洋人を

バカにするスラングのクーリキ(苦力) 「荷役者」というてる

のかもしれない。「クーリキ(苦力)の馬場は動物園に行け「」

といいたかたのかもと思います。

<ジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキー>

インターナショナル選手権をかけて、昭和42年暮れ、昭和43年

正月と連戦が行われました。表向きは、12月の試合が荒れて

両者納得行かずに43年に再戦ということになっていましすが、

43年に旗揚げ戦を行う国際プロレスつぶしとして、1月血戦に

向けて盛り上げていく展開であったことは今ではミエミエの

ストーリーでした。

https://youtu.be/rhtbaJvVPjM

昭和42年12月6日、東京体育館でたたかい、大変な流血戦の

後、クラッシャー・リソワスキーのメリケンサックパンチでジャイ

アント馬場をメッタ打ち。シャツを破られた沖識名レフェリーは

クラッシャー・リソワスキーの反則負けとしました。

これによってジャイアント馬場は、インターナショナル選手権

17回目の防衛に成功しましたが、試合後もクラッシャー・リソ

ワスキーは「俺がフォールをとっていた」と、マイクを向けた

徳光和夫アナにアピール。

ジャイアント馬場も納得がいかず、結局この試合は翌43年

の1月3日に再戦されることになりました。

そして、翌43年1月3日に再戦が行われたわけですが、

いかにも12月の試合が荒れて1月に再戦となったかのよう

に見えるこの戦い、実は逆で、最初から1月血戦を盛り上げ

るために12月の戦いがあったということです。

というのは、やはり昭和43年1月3日、国際プロレス

(TBSプロレス)は、ルー・テーズとグレート草津による

TWWA世界ヘビー級選手権試合をメインとする旗揚げ

戦を両国日大講堂で行うことになっていました。

新興勢力をつぶすためには、最初が肝心。

ルー・テーズがかすんでしまうようなビッグカードを持って

きたわけです。

それも、ただ漫然と行うのではなく、クラッシャー・リソワス

キーのすごさを見せた上で、両者の間に因縁を作って盛り

上げておけば、当日は盛り上がります。

この日本プロレスと国際プロレス(TBSプロレス)の興行

戦争は、プロレス史上有名な「隅田川血戦」といわれたもの

です。一方、国際プロレス(TBSプロレス)は、ルー・テーズ

のバックドロップを食らったグレート草津が起き上がらず

試合放棄。きちんとした試合を作れなかった。

旗揚げ興行で エースになるはずの G草津が惨敗する

なぞ 今のプロレスでは考えられない。TBSの再三の要望

にも(鉄人)テーズは (素人みたいな)草津に花をもたせら

れなかった というまだ常識のある世界だったということか。

以来、国際プロレスは日本プロレスを凌駕できず、グレート

草津も団体のエースにはなれませんでした。

偶然見た「プロレス」にどっぷり はまってしまうきっかけ

でした。