1968年1月18日世紀の大悪党はレフリーより弱かった「グレート東郷・襲撃事件」 | HONDAのブログ

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1968年1月18日「グレート東郷・襲撃事件」

この事件の伏線は1968年1月3日、TBSプロレスが両国の

日大講堂(Lテーズ対G草津)旗揚げ戦を行う一方で、同日

に日本プロレスは蔵前国技館(馬場対クラッシャー)で

日本テレビ中継のもとで興行を行う「興行戦争」を仕掛

け、両国と蔵前の『隅田川決戦』と称されたが、TBSプ

ロレスはルー・テーズの持つTWWA世界ヘビー級王座に

挑戦したエース候補のグレート草津が惨敗したため、

草津をエースとして売り出す計画が破綻し迷走する形と

なった。外人レスラーのブッカーだった グレート東郷

は日本所属選手が相次いで敗れたことで、新たな挑戦者

に日本プロレスで冷遇されていた大木金太郎(金一)の

引き抜きを画策し、参戦寸前まで至ったことから日本

プロレスとトラブルに発展した。

(S38年 力道山死亡時に 借用書のない借金を 

日本プロレスが支払うかわりに今後日本のプロレス

に 手を出さないという 約束を G東郷が反故った

ことが発端)日本プロレスは国際プロレスに対し、

外国人レスラーの招聘ルートや後楽園ホールを使用

不可にするなどなどで妨害をかけ、国際プロレス団

や全日本プロレス協会同様に解散に持ち込もうとし

ていた。

そんななかで「グレート東郷・襲撃」が発生した

1968年1月18日、深夜頃。東京千代田区の紀尾井町

にあるホテル・ニュー・オータニに宿泊していた東郷

(当時56歳)の部屋に(ユセフ・トルコと松岡厳鉄)

が来て、そこで東郷が暴行されたというものだ。これ

により東郷は暴行により大ケガを負い救急車で搬送さ

れる。現場に居合わせていた(と思われる)TBSプロレ

スの関係者により110番通報もされ、現場にはパトカ

ー数台に制服、私服の警官が数十人駆けつけ騒然とな

った。

普通ならひとりの人間が何者かに暴行されたという歴と

した刑事事件になるところだが、東郷の部屋に来たの

は日本プロレスでレフリーをしていたユセフ・トルコと

プロレスラーの松岡巌鉄だったから、事件は日付が変わ

ってすぐの深夜にトルコが自ら出頭し明確になった。

トルコは事情聴取を受け、「東郷が先に手を出したため」

と正当防衛を主張。だが東郷は一方的にやられたと主張

した。事件は新聞沙汰になり、一般週刊紙でも多々取り

上げられる事態になった。

(見出しは:世紀の大悪党はレフリーより弱かった)

 

(松岡厳鉄)

となるが、結局、双方の言い分がちがったため警察は調書が

取れず・・・結局は顔見知り同士の喧嘩とし、事件としては

これ以上の混乱はなく終わった。襲われた 東郷は「日本は

治安国家と聞いていたが、一流ホテルに宿泊している客に 

ギャングまがいの無法を働くとは夢にも思っていなかった」。

ユセフトルコと松岡厳鉄が一歩でも アメリカに足をいれた

ら命の保証はしないという捨てぜりふをはいて、東郷は 

全外人レスラーを連れて 翌日米国に帰国して1973年12月

に死亡するまで 2度と日本には現れなかった。

ユセフトルコはこのとき 37歳、柔道家木村政彦が「拳闘

の強い外人を探している」と聞き、柔道対ボクシングの興行

である柔拳の選手になる。のちに1954年(23歳)に日本

プロレスでプロレスラーとしてデビュー。1956年に行なわれ

た「ウエイト別日本選手権大会」ではライトヘビー級に出場、

東亜プロレス所属の東日出雄に40分15秒、腕固めで敗れてい

る。この頃からレフェリーも兼任し事件当時はレフリー一本

でプロレスは引退していた。元柔拳の選手だけにパンチには

相当の自信をもってた。