「追悼・ザ デストロイヤー」 | HONDAのブログ

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日本と縁の深かった 覆面の魔王ザ・デストロイヤーが 

3月8日に亡くなりました。昭和5年7月生まれ私の母親と

同級生 88歳でした。
ザ・デストロイヤー(The Destroyer、1930年7月11日 - 2019年3月7日)

は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身の

ドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ジョン・ベイヤー

(Richard John Beyer)、通称ディック・ベイヤー(Dick Beyer)。
私が彼を見た最初は S37年7月ころ 力道山がWWA選手権の

防衛戦をFブラッシーと闘う ロサンジェルスのリングサイドに「覆面の

変なやつ」が映っていた・それがデストロイヤーでした。その後 WWA

選手権は Fブラッシーに渡り 翌S38年に デストロイヤーがWWA

チャンピオンに(覆面レスラーとして初の世界C)なって 力道山の挑戦

を受けるという(力道山)(G東郷)(WWAの組織)による 1年がかりの

ロングストーリーの主役であったのが ザ・デストロイヤー。当初は 

正体不明の 白覆面の魔王と呼ばれて...いた。

力道山と素顔のデストロイヤーは 1956年(S31年)ハワイで

初遭遇している その7年後に終生のライバルとなるとは2人は

思っていなかったであろう。

(S31年 ハワイでの力道山とデストロイヤー)
日本マットへの登場の仕方もセンセーションであった S38年5月 

第5回ワールドリ-グの決勝戦 力道山VSKコワルスキーのリング

に 颯爽と登場し両者を激励というスチュエーションであったが 

演出家の力道山はよりデストロイヤーを印象つけるため これから

Kコワルスキーと闘うがすでに 力道山が勝つことが決まっており

 この1戦後帰国するKコワルスキーははっきり言うと「すでに用なし」

なので コワルスキーにボーナスを渡し(アネリカでの格下あった)

デストロイヤーの平手撃ちを受けるというデストロイヤーの念の

いった売り出し方法だった。

超大物に演出したデストロイヤーと力道山の一戦は 視聴率60%

(私も ON Timeで視聴していた記憶ある)

結果は デストロイヤーの足四の字固めで 痛み分けというストーリー

であったものの そこまでにいたる攻防は(セメント試合)であり

力道山の空手チョップで デストロイヤーの前歯が吹っ飛び、

手加減なしの ガチンコの4の字固めで 力道山は自力で控室に

帰れないほどのダメージであったことにより デストロイヤーは

「恐怖の実力者」として日本で認められることになる

(壮絶な4の字固め)
結局 デストロイヤーは日本人レスラーを強く見せるための
「猿まわしの猿」の役割を十分認識し 日本マットでガッポリ稼

いだ第一人者だと思う。S38年の 力道山の最後のライバル

対戦者であり その後の日本プロレスのエースは デストロイヤー

に負けてもらうことにより プロレスファンに納得性を持たせた。

豊登はデストロイヤーに勝たせてもらい社長兼エースとして

日本マットに君臨し あとを受けたG馬場のインター選手権も 

デストロイヤーに勝つことにより箔をつけた。S46年のワールド

リーグで Yトルコと組んで馬場を出し抜いて優勝しようとした 

A猪木に「必殺仕置人」として立ちはだかったのも デストロイヤー

だった。
レスラー不足に悩む 独立したG馬場の 助っ人として全日プロ

レスの用心棒として助けたのもデストロイヤー。

節目 節目に 必ず出てくるデストロイヤーであった。
S48年~S53年まで 家族で日本に住んでいたデストロイヤーで

あったが 学生結婚で結ばれた 夫人が日本の年下男と駆け落ち

するという 寂しい思いもしているのもデストロイヤーたるゆえんか

もしれない。

2017年には 日本政府からレスラーとしては唯一人

旭日双光章を受章されている。

合掌

1971年5月に 大阪府立体育館でデストロイヤーが自分で

販売していた レプリカマスクをつける 16歳の筆者

「お母さん あのマスクどこにいったのでしょう・・」