橋幸夫 S18年生まれ 75歳
昨年 熟年離婚で世間を騒がせました。
まだまだ 声が出ていて 75歳とは思
えません。S35年 「潮来笠」でデビュー
して大ヒット、元々 作曲家 遠藤実の
レッスン生で コロンビアレコードの
オーデションが通る前提で 遠藤実は
「舟木和夫」という芸名でデビューさせる
つもりがコロンビアのオーデションが受から
ずビクターレコードでデビューすることにな
り師匠も 遠藤ー>吉田正となり 潮来笠に
つながる。3年後の S38年 御三家の一人
舟木一夫が 遠藤の作曲「高校三年生」
で デビューするのは何かの因縁かもしれない。
ボクシングに熱中していた少年であり S18年4
月生まれの 元世界チャンピオン F・原田とは
同学年であり S37年に 原田が世界Cになった
とき 自分もボクシングを続けていたら
日本チャンピオンぐらいはなれたのではないかと
思ったという。S39年あたりから 橋・舟木・
西郷を「御三家」と呼ぶようになったあたりは
橋自身は 他の2人とはキャリアが違う S37
年にはすでに「レコード大賞」を受賞しており
同列ではないと感じていたようだ。
S38年の暮れにビクターからデビューした
三田明で「御三家」にしたらいいだろうとも
思っていたようである。しかし、世の中は
橋・舟木・西郷の「御三家」を欲したという
ことか御三家の絶頂は S40年夏の
「リズム歌謡」であろう
昭和40年6月発売
橋幸夫・あの娘と僕
「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」
作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
スイム スイム スイム
スイムで 踊ろう
あの娘も この娘も ピチ娘
一 拗(す)ねて渚に来たものの
炎のような波頭
追ってきてくれ きてほしい
感じがでないよ一人では
青いこの海 君のもの
*スイム スイム スイム
スイムで踊ろう
渚は恋のパラダイス
二 なんで拗ねたか考えりゃ
この僕ちょっと恥しい
好きだからこそ妬けもして
嫌いぶってはみたものの
可愛い笑くぼが眼に浮かぶ
*くりかえし
三 僕の気持ちも知らないで
渚は恋の花ざかり
ヨット・ハーバー僕達の
淋しそうだぜヨットさえ
君はあんまりモテすぎる
*くりかえし
S39年夏の「恋をするなら」を受けたこの
曲によって、橋の夏の「リズム歌謡」は恒
例化する。歌詞も「恋をするなら」の
「焰のように燃えようよ」に合わせて
「炎のような波頭」を歌います。橋幸夫・
あの娘と僕・ビデオ「スイム」のリズムを
広めようというのが宣伝戦略。前奏のコー
ラスから「スイム」をくりかえし、
「スイムで踊ろう」と呼びかけます。
ビクターはこの年 S40年、春まだ浅い
3月13日から新リズム「スイム」の宣伝
を行っていたこの曲は東レの新作水着「ピチ」
の発表とタイアップしての作品だったそうで
す。実際、レコードジャケット裏には「ピチ」
の宣伝が。「ピチ娘」は水着「ピチ」を着た娘、
という意味だった。橋はこの年の紅白歌合戦で
初の白組のトリをつとめ、この歌を歌いました。
https://www.youtube.com/watch?v=VPiuikENkMI
白組メンバー総出で踊る映像がNHKビデオに
残っています。(印象的なのは 寅さんになる
前の 渥美清が橋の後ろで踊っています)
エレキと歌謡曲の折衷・合体、歌謡曲が
歌謡曲性を保持したままエレキを取り込むの
に成功した、その意味で、この「あの娘と僕」
こそは、歌謡曲の勝利を象徴する曲だといえる
でしょう。エレキを使った浜辺の盆踊り唄みた
いなものです。
三波春夫が「東京五輪音頭」でオリンピックの
国際性を盆踊り感覚の中に包摂してみせたよう
に、橋幸夫の「あの娘と僕」は「洋モノ=エレキ」
を完全に「和モノ」感覚に包摂してみせました。
我々は外から来るものに抵抗しない。
日本流に造り変える。中国の漢字を受け入れ、
(カタカナやひらがなに)造り変えた。
インド人が 日本のカレーは最高といい
中国人が「中華ソバ(ラーメン)」に舌づつ
みをうつ。吉田正は、佐伯孝夫は、そして
橋幸夫は、エレキブームを見事に歌謡曲に
包み込みました。
その後S41年に「霧氷」で2回目のレコード大賞
受賞 御三家長男としては S44年の
「京都・神戸・銀座」が最期のヒット曲では
なかったか 3人の中では一番安定した歌手
人生かと思いきや 50年後は熟年離婚と
なりましたが、まだまだ頑張っていただきたい。