「懐かしの電鉄球団 阪急ブレーブス」 | HONDAのブログ

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ある東京の営業マンと雑談していて大阪の私鉄の NO1は「阪神電車

」という 時代錯誤の認識が今もあるということです。これは 阪神タイ

ガースというブランドがいかに(関東では)大きいかという証拠です。

今や 阪神は 阪急の子会社であり
関西の電鉄の売り上げでいうと
一位 当然日本一の電鉄会社 近鉄 売り上げ1700億
二位 阪神を子会社にした 阪急 売上 1400億
   (内 阪神単独  400億)
三位 京阪 電車 の   売り上げ  800億
四位 南海電鉄  の   売り上げ  700億
阪神が買収されていなくても 余裕の 最下位なのだ。

S50年代に 黄金時代を築いた 阪急ブレーブスを回顧したい
阪急ブレーブスのこと知るには「阪神」という単語は避けて通れない。
逆もまた真なりで、阪神を知ることは阪急を知るということでもある。
日露戦争が終結した1905年(明治38年)、大阪と神戸の間

に阪神電気鉄道が開通した。この頃、大阪~神戸間には既に

国鉄が走っていたので、阪神は国に喧嘩を売ったようなものである。
阪神は鉄道敷設の許可を得るために、認可されやすい路面電車

として申請した。認可されると、実際に軌道線となったのは僅かな

区間で、大部分は専用線を走り、高速運転したのである。
反則スレスレ(というより反則そのものだが)の運営により、阪神は

国鉄の客を奪い取っていった。それから15年後の1920年(大正9年)、

国鉄と阪神の喧嘩に割り込んできたのが阪神急行電鉄、即ち現在の

阪急電鉄だ。大阪~神戸間というドル箱路線を、このまま指をくわえ

て見ているのはもったいない、考えたのは阪急グループの創始者、

鉄道経営の神様とも言える小林一三だった。
阪神と同じく路面線として申請し、実際には専用路線で高速運転を

行ったのである。だから 筆者の近所の 元南海電鉄のじじいは

 「南海は日本最古の純粋な鉄道 阪急なんぞは 路面電車やないか」

とのたまうが どうあがいても 関西では最下位電鉄なのだ。
ちなみに、阪神電鉄も阪急電鉄も、長いあいだ法律上は軌道線

(路面電車)で、阪神電鉄が鉄道となったのは1977年(昭和52年)、

阪急電鉄の神戸線と宝塚線は1978年(昭和53年)のことだった。

小林一三は、阪神に対して恨みをだいていたのである。
原因は中等野球、つまり現在の高校野球だった。
第1回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権

大会=夏の甲子園)が行われたのは1915年(大正4年)
全国大会の会場となったのが、阪急の前身である箕面有馬電気軌

道の沿線にあった豊中グラウンドである。次に白羽の矢が立ったの

が阪神沿線の鳴尾競馬場だったのである。小林一三は阪神に中等

野球を持って行かれて、相当悔しかったに違いない。
中等野球を阪神に取られた悔しさからか、1922年(大正11年)に

宝塚球場を既に完成させていた。

宝塚球場の存在は、阪神にも危機感を持たせた。このまま手をこまね

いていると、宝塚球場を持つ阪急に再び中等野球を取られかねない。
そこで阪神が採った決断は、本格的な球場を造る、ということだった。

それも、宝塚球場など足元にも及ばず、アメリカのメジャー・リーグに

も負けない東洋一の大球場を。こうして乾坤一擲、阪神電鉄が社運

を賭けて建設したのが甲子園球場だった。今の時代では、甲子園

球場ほどの大球場を一鉄道会社が建設するのは不可能だろう。

それほどまでに、阪神は阪急に対して恐怖感があったのだ。
もし阪急という存在がなかったら、甲子園球場は存在していなかっ

たかも知れない。宝塚球場から5年後の1934年(昭和9年)、

大日本東京野球倶楽部(巨人)が誕生した。
東京の読売チームに対し、大阪のプロ野球チームが必要と思って

いた正力松太郎は、東洋一の大球場である甲子園球場を持つ

阪神電鉄はうってつけだと考えたのだ。大阪野球倶楽部、つまり

大阪タイガース(現:阪神タイガース)である。アメリカのワシントン

にいた小林一三は、阪神がプロ野球チームを設立したと聞いて、

直ちにプロ野球チームの発足を本社に命じる。そして1936年

(昭和11年)に設立されたのが大阪阪急野球協会、即ち阪急軍だ。
(やっと 阪急軍の発足まできました)
しかし、新聞社である読売、そしてライバル鉄道会社の阪神に遅れを取ったのである。
それが、後の阪急の運命に影響を与えたのかも知れない。

1936年(昭和11年)、設立当初の日本プロ野球に参加した球団は、
東京巨人軍(現:読売ジャイアンツ)
大東京軍(現:横浜DeNAベイスターズに吸収合併)
東京セネタース(消滅)
名古屋軍(現:中日ドラゴンズ)
名古屋金鯱軍(消滅)
大阪タイガース(現:阪神タイガース)
阪急軍(現:オリックス・バファローズ)
の7チームだった。

現在の日本プロ野球(NPB)では、巨人×阪神が黄金カードと

呼ばれる。だが、日本プロ野球の創立時は、そうではなかった

ようだ。大阪タイガース×阪急軍、要するに阪神×阪急だった。
小林一三の口癖は「タイガースには絶対に負けるな!」だった

のである。阪神にとっての最大のライバルは東京巨人軍ではな

く、同じ関西の鉄道会社を母体に持つ阪急軍だった。
1937年(昭和12年)には、阪神の甲子園球場に匹敵する本格

的な本拠地球場である阪急西宮球場を、同じ西宮市内に完成さ

せたのだ。このあたり、阪神に対する過剰なまでのライバル意識

が見て取れる。

だが阪神とのライバル関係も、1936年(昭和11年)

秋から本格的に始まったプロ野球リーグ戦で、次第に崩れていく。
東京 X 大阪という図式にかわったのである。
1950年(昭和25年)、日本プロ野球は2リーグに分裂する。
2リーグ分裂の際、大阪タイガースのパ・リーグ所属はほぼ決まって

いた。しかし、セントラル・リーグの中心だった読売ジャイアンツの

引き止めに遭い、大阪タイガースはセ・リーグに寝返った。
こうして、阪急はライバル会社の阪神に裏切られたのである。
1957年(昭和32年)、阪急ブレーブスの父だった小林一三が死去。
1963年(昭和38年)、監督に西本幸雄を迎えてからは徐々に

チーム力をアップし、遂に1967年(昭和42年)に阪急ブレーブスは

悲願の初優勝を果たす。投手陣には、歴代2位となる通算350勝の

ガソリンタンク・米田哲也、左腕の剛球投手・梶本隆夫、新鋭のサブ

マリン・足立光宏、打者では若き大砲・長池徳士、さらに「日本の野球

を変えた」と言われるほどの野球博士・外国人助っ人のダリル・スペン

サーらが大活躍した。余勢を駆った阪急ブレーブスは3年連続のリー

グ優勝、1年おいて1971年(昭和46年)および1972年にもリーグ

連覇を果たし、今までの鬱憤を晴らすような黄金時代を築こうとして

いた。しかし、パ・リーグでは優勝できても、日本シリーズでは当時

9連覇中だった読売ジャイアンツにはどうしても勝てなかったのである。
昭和50年代にとうとう阪急ブレーブスの時代がやってくる。
1974年(昭和49年)に西本監督の後を受けた上田利治が監督に

就任し、その翌年の1975年(昭和50年)に阪急ブレーブスは

6度目のリーグ優勝を果たした。この頃には足立の後を受け持つ

サブマリン・エースの山田久志、世界の盗塁王・福本豊、強打と巧打

を使い分ける加藤秀司という「3馬鹿トリオ」が台頭、さらに新人の

剛球投手である山口高志の大活躍もあって、セ・リーグ初制覇の

広島東洋カープに4勝0敗2分で圧勝、初の日本一に輝いた。
読売ジャイアンツを倒してこそ真の日本一と燃える阪急軍団は、

翌1976年(昭和51年)もリーグ優勝を果たし、日本シリーズで

読売ジャイアンツと倒す。翌1977年(昭和52年)もパ・リーグ3

連覇を果たし、日本シリーズも再び読売ジャイアンツと対戦したが、

この時は4勝1敗で圧倒、まさしく阪急黄金時代を謳歌していた。
だが、阪急時代の日本一は、この年が最後となってしまったのである。
江夏が オールスター戦で 9者連続三振を記録した 試合に
幸運にも筆者は西宮球場で観戦していた。こんなに強い阪急X南海

の優勝争いのゲームより 優勝に関係ない 阪神X巨人が満員に

なり 秋の南風(浜風とは逆)に乗って 試合してる西宮球場に

甲子園の 歓声が聞こえてくるという寂しい客入りであった。

(南海の野村の回想)
その後、関西では近鉄バファローズが、関東では九州から移転した

西武ライオンズが台頭したため、阪急ブレーブスは影が薄い存在

になってしまった。それでも1984年(昭和59年)に阪急ブレーブス

はパ・リーグ制覇を成し遂げた。(それが最後の光であった)
昭和の終焉を告げる1988年(昭和63年)10月19日、その日

は突然やってきた。阪急ブレーブスがオリエント・リースに身売り、

というものである。シーズン終盤、同じパ・リーグに所属する南海ホー

クスの身売りが取り沙汰されていた。
だがそれは、以前から噂されていたことだった。阪急ブレーブスの身

売りは、まさしく寝耳に水だったのである。誰もが予測していないこと

だった。開祖 小林一三は「宝塚歌劇」と「ブレーブス」は売るなという

のが 遺言だったそうだが 野球はあっさり売ってしまった。は磐石な

基盤を持ち、プロ野球でも常にAクラスを保持している阪急ブレーブス

が身売りするなど、誰も想像していなかったのである。

阪急ブレーブスはその強さの割に、人気のない球団だった。
今から思えば、山田久志、福本豊、加藤秀司、山口高志とスターが

揃い、しかも常勝軍団だったのだから、なぜ人気がなかったのか

不思議に思える。原因は、やはり阪神タイガースにあったと言わざる

を得ない。同じ兵庫県西宮市に本拠地を持ちながら、当時はセ・リーグ

とパ・リーグの人気差に阪急ブレーブスは苦しんだ。2リーグ分裂時、

阪神タイガースは読売ジャイアンツと対戦できるセ・リーグを選んだこ

とが、結果的に良かったのだ。一方の阪急ブレーブスは、いくらパ・リー

グで勝っても、テレビなどのメディアからは注目されない。まさしく、

世の理不尽を実感しただろう。
1989年(平成元年)、オリエント・リースに売却された阪急ブレーブス

は、オリックス・ブレーブスとして再出発した。
オリックスといえば、今や大企業に成長した。
赤字で喘いでいた京セラドーム大阪まで買い取ってしまったのである。

この不況の世の中、これだけ躍進した企業も珍しい。
しかし、それがプロ野球チームにちっとも反映されていない。

資金力は豊富なはずなのに、これは明らかに球団経営努力の不足である。
小林一三は草葉の陰で泣いているのではないだろうか。

現在の阪急と阪神の関係についても記しておこう。
2005年(平成17年)に村上ファンドが阪神タイガースの株を買い付け

、タイガースを乗っ取られると思った阪神電鉄は、ライバルだった阪急

電鉄に協力を求め、結果的に阪急阪神ホールディングスというグループ

企業に収まるのである。鉄道でも野球でも、あれだけいがみ合っていた

両社が、結局は手を結んだわけだ。もし小林一三が生きていたら 

真っ先に球団名を 阪急タイガースにしたのではないかと思ってしまう。 
余談だが 阪急のあの田舎くさい茶色の電車の色は 発足当時の

「箕面・有馬 電気軌道」の 箕面の「もみじ」の色だそうだが

 あの色は変えたほうがいいように思う。