S46年12月 思い出のプロレス観戦 | HONDAのブログ

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ジャイアント馬場とアントニオ猪木。

力道山の死去後、昭和の日本プロレス

史はこの2の約40年に渡る、対立の歴史です。

その始まりはこの S46年暮の事件からでは

ないでしょうか?

 

1971112

– 京王プラザホテルで猪木が人気女優 倍賞美津子

と“一億円挙式”

事の発端は、その2日後

114

– 後楽園ホールの控え室で上田馬之助が猪木と会話。

その席で上田は「幹部の浪費がこのまま続けば日本

プロの未来はありませんよ。猪木さんと馬場さんで、

この腐りきった日本プロレスを選手のための会社に

改革して下さい!」と懇願

 

115

 – 上田が「内密で話したいことがある」と馬場を

羽田東急ホテルに呼び出し、猪木と共に会社改革を

提案。慎重派の馬場も「レスラーのための会社に」

という改革案に賛成。

 

1118

– 猪木と上田が馬場を京王プラザホテルに

呼び出し、馬場に改革の具体案を開示。

 

1119日 –

『’71ワールド・チャンピオン・シリーズ』

が全17戦の日程で開幕

後楽園ホールでの開幕戦で、試合開始前に、猪木

と上田が改革の概要を選手会に説明。大木金太郎

と戸口正徳以外の17人の選手が改革案に署名。

馬場と猪木は改革決行の日取りを1213日と決る。

ワールドチャンピオンシリーズパンフ)

 71年の暮の日本プロレスのシリーズ名は、

「ワールドチャンピオンシリーズ」。

前半に元WWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノ。

後半にファンクスを特別参加させました。

 

 1971年(昭461125日【広島県立体育館】

(インター選手権)

△G・馬場 対 B・サンマルチノ

 

1126 (金)

– 芳の里(日本プロレス社長)が吉村道明、

グレート小鹿と共に新宿のスナックで飲んでいた。

そのスナックに1本の電話が入ります。かけてきた

のは上田馬之助。上田は「シリーズ終了後に猪木が

会社の定款を変えて社長になることを企んでいる」

状況がつかめない芳の里は上田をスナックに呼び出

し、「これは猪木一人の計画か」「お前も仲間か」

「じゃあ馬場は?」などと問いただします。

上田は「最初は仲間だったが、大変なことになると

思い電話した」「馬場さんも知っている」「馬場さん

も猪木さんと一緒に行くはずだ」などと回答

*この密告の理由は「発案したにも関わらず自身が

役員候補にも入らない猪木主導の改革案に上田が

不満を抱いた」

上田と入れ変わりに、馬場も同じスナックに呼び

出されます。芳の里は馬場にも問いただしますが、

馬場は「俺は知らん」の一点張り。その後、幹部

は猪木の動きを警戒するようになります。

 

1127 (土)

– 臨時役員会を開催。

猪木は当日、代理人として木村氏を同席させます。

木村氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求

すると、幹部連中の顔色が変わりました。猪木はここ

で木村氏を経理監査役に迎え入れる事を提案。

芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村氏に手渡す。

 (このころ売り出されていた S47年のカレンダー)

19711129日(月)【横浜文化体育館】

○D・ファンク・Jr、Dマードック 対 A・猪木、坂口征二●

 横浜文化体育館で幹部のひとりである遠藤幸吉が上田

に接触。遠藤は上田から猪木の行動を事情聴取すると共に、

上田も新宿のスナックの件を遠藤に説明。同時に遠藤は

猪木の行動阻止作戦を開始する。

 

19711130日(火)【京都】 

○ドリー・ファンク・ジュニア 対 小鹿●

 

1971121日(水)【名古屋・愛知県体育館】

(アジア・タッグ)

△A・猪木、吉村道明 対 D・ファンク・Jr、D・マードック△

馬場が京都駅で上田を呼び出し、上田から猪木の

動向を聴取。名古屋への移動中の東海道新幹線の車内

でも、隣の席に座らせて状況聴取を行います

その席で上田は「猪木が新会社の社長になり、自分も

印鑑証明を用意するよう言われた」と馬場に説明し、

馬場は「話が違う。完全なクーデターだ」と認識。

馬場は名古屋駅で下車せず、芳の里に猪木の動向を

報告するためそのまま帰京し、報告後、当日試合が

ある愛知県体育館へ直行しなにくわぬ顔で試合をした。

 

1971122日(木)【浜松】

○G・馬場、坂口征二、G・小鹿 対 D・ファンク・Jr、

D・スタインボーン、リップ・タイラー●

上田は浜松市体育館大会と翌日の山形県体育館大会を

欠場し、同時に日本プロレスの顧問弁護士と共に、猪木

の行動に関する告発状を作成。

 

1971123日(金)【山形】 

○G・馬場、坂口 対 D・ファンク・Jr、D・マードック●

馬場は山形大会で「猪木抜きの」選手会を開き、

猪木派の計画を上田とともに暴露、連判状の無効を提案。

自らは責任を取り選手会長並びに取締役を辞任した。

 

1971124日(土)【仙台】

(UN選手権)

○A・猪木 対  D・マードック

○D・ファンク・Jr、T・ファンク 対 G・馬場、上田●

 

125日(日)

 – 巡業先の仙台からの帰京後に、緊急選手会を開催。

その席で猪木は自分が行ってきた行動について謝罪した。

 

1971126日(月)【水戸】 

○D・ファンク・Jr、M・パドーシス 対 坂口征二、星野●

大木選手会長代行が臨時選手会を招集し「猪木の選手会

からの除名」を提案。山本小鉄だけが反対票を投じたものの、

圧倒的多数で猪木除名が決議されます。この時、猪木除名を

強硬に訴えたのはミツヒライ、グレート小鹿の両名であった

と言われています。さらに大木はその場で芳の里に「猪木の

出場停止をしなければ選手会員は試合に出場しない」という

旨の決議書を提出。

それに対し芳の里は「プロモーターに迷惑がかかる。

シリーズ終了後に猪木の処分を決定する」と返答。

 

1971127日(火)【札幌】 

(インターナショナルタッグ選手権)

○D・ファンク・Jr、T・ファンク 対 G・馬場、A・猪木●、

札幌中島スポーツセンター大会のため選手は札幌へ移動。

猪木は不穏な空気を察し山本、ユセフ・トルコと共に航空便

や宿泊先を別にするなどの行動を取る。試合は馬場・猪木組

がファンクスに敗れ、インタータッグ防衛に失敗。

この試合以降、猪木はシリーズを欠場。

 128

– 札幌から帰京後に猪木が「尿管結石」を理由に入院し、

残る日程を欠場。(その筋の方々から脅迫され身の危険を感

じての仮病だった)

 

1971129日(木)【大阪】 

(NWA世界ヘビー級)

○ドリー・ファンク・ジュニア 対 坂口征二●

大阪府立体育館にて、坂口征二が猪木に代わり

ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級

王座に挑戦(こちらの映像はテレビ朝日に残っている)

猪木は日プロから「無断欠場」呼ばわりされ、さらに

保持していたアジアタッグもパートナーの吉村道明が

タイトル返上を申し出た事で剥奪されます。

何も知らない筆者は 猪木VSドリーの黄金マッチを観戦

するため 大阪府立体育館に観戦に行きましたが 急遽

代打出場の 坂口征二が熱戦を展開しました。

猪木VSドリーが見れなかったのは 残念でしたが 坂口征二

が 元柔道日本一の実力を存分に発揮した試合でした。

 

19711210日(金)【東京・後楽園ホール】

○G・馬場、大木金太郎、上田 対 D・ファンク・Jr、D・マードック、

リップ・タイラー●

この時点で猪木の除名処分が社内決定しており、

1213日の記者会見に向けて準備が進みます。

筆者はこの日の 大阪スポーツで 「猪木会社乗っ取り」

という 事件を初めて知ることになりました。

 

1211 (土)

– 猪木は山本を練馬区のボウリング場に呼び出し、

その席で山本は猪木との共闘を宣言します。

 

19711212日(日)【東京都体育館】

(アジア・タッグ)

○坂口、吉村道明 対 D・ファンク・Jr、ディック・マードック●

(インター選手権)

○G馬場 対 T・ファンク●

猪木の代打 坂口がアジアタッグ選手権者となる。

猪木を除名追放すれば 次代のスター候補として坂口征二

を売り出すためにも 「強い坂口」を存分に見せた1戦

こういうときの 吉村道明の脇役は天下一品であった。

 

19711213日(月)

猪木は 「日本プロレスの乗っ取りを図った」

ということで除名されます。

代官山にあった日本プロレス興業で猪木除名に

関する記者会見が開かれます。芳の里社長、

大木選手会長、平井義一日本プロレス協会会長は

「猪木を日本プロレスから除名・追放する。理由

は日本プロレスを乗っ取ろうと計画し、会社の

重要書類を無断で持ち出した」「馬場の責任は問わない」

と会見。選手会全員の署名捺印による猪木除名の

決議書が提出されたことを明らかにし、これに伴い

猪木は日本プロレスから除名されました。奇しくも

この日は当初計画では猪木、馬場らが三幹部の追放

を迫る予定日でした。

記者会見後、事務所にはビールが持ち込まれ一転、

猪木追放祝賀会へと変わり、ミツヒライ、グレート小鹿

らの音頭で一同は乾杯。馬場と上田は立場上この場には

参加せず。宴会の真ん中には後に猪木と合流する

坂口、星野の姿もありました。

 

結局 野心家であった アントニオ猪木は 1選手では 

おれなかった こうなるのは時間の問題であったかも

しれない。 今まで 1つの興業で 猪木・馬場・坂口

が見れたものが 翌S47年に 馬場が独立したこと

により、 いままで 1000¥で観られたプロレスが

1000¥X3=3000¥出さないと 3人が見れなくなって

しまった。 おごる平家は久しからず。。ということか、