1973年の 日本プロレスの崩壊 | HONDAのブログ

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前回は 生で観戦した 1971年(S46年)第13回ワール

ドリーグ戦 決勝での A・ブッチャーの回顧を書きましたが

この 1971年が 力道山が立ち上げ 黄金期を迎えた日本

プロレスを 一瞬にして 崩壊させた原因の年だとおもいます。

先にも 書きましたが 1969年の 日本プロレスは 我が世

の春まさに 黄金期の絶頂でした。 さかんに プロレス中継に

色目を見せていた NET(現 TV朝日)の お金の誘惑に負

け 力道山以来 固い契の 日TVをだますような形で NET

とのTV放映も決定(馬場は出さないということで日TVを納得

?させた)その 土産に この年(69年)第11回ワールドリ

ーグに NET TVのエースとなる 猪木に花をもたせた 

あたりから 日本プロレスの吉の里&遠藤幸吉の 非常識コンビ

の迷走が始まる。

1970年になると 馬場の体力が子供でもわかるぐらい 落ち

てきた。かと言って 「何かおこしそうな猪木」に エースをま

かすわけにもいかず1970年12月 の 大阪で「勝ちすぎる

馬場に一旦 Gキニスキー」にインター王座を あずけた。この

とき将来を見据えた 経営者であれば坂口征二あたりにリターン

マッチさせて一気に「世代交代」させてもよかった。

馬場は 体力の限界(現にこの年の 8月大阪でのD/F・ジュ

ニア戦で60分引き分けだったが 最後自力で控室に帰れなかっ

た)を悟っていたし目立ちたがりの 猪木も 「坂口」に真剣勝

負で勝てる見込みはないのだから、 おもいきった若返りもあっ

たかもしれない。そうなったら 猪木は独立(NETで)しエー

ス坂口(盛り立て役に馬場)(日TV)として 日本プロレスの

黄金期はつずいていたのではないか。話はもどるが 1970年

は 馬場の王座陥落(この試合も 生で自分は観戦していた)で

幕を閉じた。

そして 運命の 1971年(S46年)結局 馬場がロサンゼ

ルスまででかけてGキニスキーから インター王座を返してもら

い。(日テレが放送 吉の里解説)NETからせっつかれて猪木

にユナテドナショナルという 突然降ってわいたような タイト

ルをこれまた ロスまででかけて譲ってもらい(NET放送 

解説遠藤)倍賞美津子との 婚約をリング上でやってしまうとい

うマンガ放送。そして 馬場か猪木かと あおりにあおった 

第13回ワールドリーグ(結局馬場優勝)このころになってくる

と問題児「アンモニア猪木」を 幹部連中の抑えがきかなくなっ

ており、かってに新聞に「猪木 馬場に挑戦」なんて記事がでで

てしまう。 それに対してもう力がないと認識している 馬場は

「だんまり」を決めこんでしまう。そして 内紛を含んだまま 

猪木と倍賞の結婚披露が秋に挙行される。 調子に乗ってる 

猪木が「何か」が起こす下地は十分だった。そして 12月 

ドリーファンクが3度目の来日したNWAチャンピオンシリー

ズ大阪府立体育館に「ドリーVS猪木」の NWA選手権を

観戦にいったら 突然の張り紙「猪木緊急入院のため本日のカー

ドは 坂口VSドリーに変更 チケット払い戻しに応じます」

ということ 翌日の大阪スポーツは「猪木会社乗っ取りで追放」

の記事 。その混乱で 波乱の1971年はくれていった。

この時も 「日プロ幹部がもっと 先を見ていたら 坂口をエ

ースに出直す」道もあったはず。 猪木をうしなった NET

テレビは 馬場の放映を迫り 日本TVの 了承ないまま 

0kしてしまう。怒った日本TVは 3月末で 力道山時代か

らのプロレス放送を打ち切った(この後番組が 石原裕次郎の 

太陽にほえろ)だが まだまだ視聴率がとれる プロレス放送

を 日本TVが 放っておくはずはなく猪木事件から以降 

色めがねで見られていた馬場に接近し 日本TVと馬場が組ん

で新しい 独立プロレスをということであった。 そんなこと

もつゆ知らない 「吉の里&遠藤」の 日プロダラ幹部 は 

例年どうり 第14回ワールドリーグですんなり馬場を優勝さ

せてしまう。(もし この アングラ情報を知っていたら 

坂口が優勝していたろう)そして TVの下期(10月~)

予算が決定する 7月に 馬場は独立宣言をする。

もうこうなった時点で 日本プロレスは 半分死んだようなも

んだったが、最後の望みは NET TVをつなぎとめること

 当時NET TVは 「坂口を馬場の返上したインターチャ

ンピオンにして セメントに強い 金一よ上田馬之助あたりを 

アジアタッグチャンピオンで脇を固めたら」という 提案を 

なぜか無視して 馬場がおいていった インターチャンピオン

に韓国のパチキの大王 金一(大木金太郎)を つかせてしま

った。これが 1972年の12月。

当然 提案を無視された NET TV は 坂口と当時借金

まぎれの猪木を 密談させ1973年(S48年)新年度3月

~ 坂口が猪木の新日プロに移籍する条件でTV放送を 日本

プロレスー>新日プロにふりかえることを決定。

ここに S28年に力道山が設立した 「日本プロレス」は 

S48年 ちょうど20年で幕をとじた。

今のシャープも同じことだが いかに 黄金期に 次の道を考

えておくか?大相撲出身者が 胴をとっていたことが原因か 

わからないが S41年に 獲得した元柔道日本一 の 

坂口征二の使い方を もちょっと うまく使っていれば と思

わずにはいられない。チャンスは何度もあった

①1970年12月の インター王座奪回に 坂口起用

②1971年12月に 有り金はたいてでも 1ケ月ほど

坂口をNWAチャンプにしてもらい 箔をつけてエースにする

③1972年 ワールドリーグでの 坂口の優勝画策

④1972年12月の インターチャンプへの坂口の登用

ちょっと思うだけでも 4回ほど 日プロが立ち治るチャンス

はあったはず。日本プロレスが 崩壊してから 猪木の新日プ

ロ馬場の全日プロ とプロレスは 総合格闘技が出るまで 

隆盛であったが 大人の領域にちかずいていた 私は もう

TVにかじりついて 見ることもなくなったし当然 大阪府立

体育会館に足をはこぶこともなくなった。つい最近 ナンバ・

パークス改装で近くにいく機会があったので体育会館の前を 

通ったけれど 建て替えられた 大阪府立体育会館に 何の

感傷もわかなかった。