昭和プロレスの謎、第13回(1971年)ワールドリーグ決勝戦 | HONDAのブログ

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昭和プロレスのパイオニア、日本プロレスの春の本場所といえば

ワールドリーグ戦です。

その第13 回(S46年 春)は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木

すさまじい争いが話題になりました。

 

 

 

力道山死後の日本プロレスは、豊登道春、ジャイアント馬場がエースを

引き継ぎ、東京プロレスからの出戻り・アントニオ猪木が合流してから

1965年以 降)ジャイアント馬場・アントニオ猪木・大木金太郎・

吉村道明の四天王プラス坂口征二、さらには脇役にミツヒライ、星野

勘太郎、山本小鉄、グレート小 鹿、上田馬之介を揃えて黄金時代を

迎えていました。

 

 

 

日本テレビだけでなくNET(現テレビ朝日)までがゴールデンタイムで

テレビ中継を行うという、今では考えられませんが、テレビ界でも看板

コンテンツでし たしかし、どんな世界でもナンバーワンはひとり。

アントニオ猪木のジャイアント馬場に対する対抗意識はすさまじく、

またフロントの一部にも「猪木派」がいた ため、内部は微妙な対立や

陰謀もあったようです。

その最盛期が 1971年の第13回ワールドリーグ戦です。

日本プロレスのエースが獲得できる同リーグの優勝は、NETの放送が

開始された1969年(第11回)はアントニオ猪木に花を持たせましたが、

1970年 第12回ワールドリーグ戦はジャイアント馬場が奪還。第13

ワールドリーグ戦開催直前には、アントニオ猪木もシングルタイトル

を獲得(ユナイテッドナショナル選手権)し、いよいよ「BIが雌雄を

決する」 と派手に報じられました。

日本プロレスコミッション事務局長だった門茂男著『門茂男のザ・

プロレス365という本には、第13回ワールドリーグ戦についてブッチ

ャーが門茂男氏の 問いに答えているインタビューがあります。

表現の中には、「ブッチャーがこんなこというか?」と思えるような

門テイストが多分に含まれていますが、門茂男氏の見聞や推理を、

アブドーラ・ザ・ブッチャーの発言にプラスアルファしたのかもしれ

ません。

門茂男氏はジャイアント馬場もアントニオ猪木も嫌いでしたが、とく

に全日本プロレス設立以降のジャイアント馬場とはビジネス上のトラ

ブルがあり、レス ラーとしてもプロモ ーとしてもジャイアント馬場

をこきおろすことしかしなくなりました。

その門茂男氏の本ですら、このインタビューは少なくとも第13回ワー

ルドリーグの時点では「人気の馬場」であることを示しており、

ジャイアント馬場がエースであったことがリアリティをもって伝わ

ってきます。いずれにしても、虚実ないまぜのインサイド・ストー

リーとして、当時を知るプロレスファンには興味深く読めるインタ

ビューです。

 

 

 

門>「プロレス界の“鉄の綻”を無視して、本音を語ってくれるとは嬉

しい話 だ。その気持ちが変わらないうちに昭和四十六年の五月、大阪

で行なわれた日本プロレス  の第十三回のワールド・リーグ戦のとき

のことを是非聞かせてくれ」

 

A>「アントニオが優勝したくてトルコと組んでいろいろと画策したとき

のことだろう。俺は、あのときのことは一生忘れることがない。

どこからでも聞けよ」

(アブドーラは、こう言うや巨体をゆすって坐り直した)

 

門>「大阪のファイナル・マッチの前日に、兵庫県姫路市でキラー・

カール・コックスと猪木が闘って、猪木がコックスにフォールされたの

を覚えているか」

A>「覚えているとも、コックスが勝てば、コックスと俺とザ・デストロ

イヤーの三人が外人勢のなかでは同じ勝率になる。日本勢の代表はアン

トニオがコックスに破れて  脱落して、ジャイアント(馬場)が決定

というシーンだった。コックスがアントニオをフォールしたとき、俺は

外人勢三人とジャイアント・バアバの四人が抽選で準決勝戦をやり、

決勝進出者を決めるものとばかり思っていた。ところがどうだい。誰の

目にも1〇〇パーセント、いや一200パーセント完全に負けていた

アントニオが“俺は負けてはいない。

レフェリーがカウントしてい るとき、俺の足はロープの最下段にかか

っていた”というアピールをレフェリーのトルコにしたら、ろくにその

情景を見ていなかったのにトルコはあっさりこれを認めて、アントニオ

とコックスの再試合をやらせた。阿呆くさくなって戦意を喪失したコッ

クスはアントニオのなすがままになって、自ら負けていった!アントニ

オがコックスに勝ったので、コックスは優勝戦線から脱落、勝ったアン

トニオはバアバと並んだ」

門>「よく覚えてるな。その通りだ」

A>「俺は大阪に行ったら、オキ・シキナから“ユーはジャイアント馬場

と闘うことが決った。準決勝戦の第一試合はデスト(ロイヤー)とアン

トニオ猪木だ。このデストとアントニオ猪木戦のレフェリーはユセフ・

トルコだ。ユーとバアバとのマッチほ、この俺がレフェリソグをする”

こう告げられた。 大阪難波 のホテル南海にジャパン・プロレスの

プレジデントのヨシノサトが、突如、訪ねて来た。

 “ユーやデストロイヤーはグレーテストなレスラーだが、ユーたちが

W・リーグ戦に優勝してしまったら、ジャパン・レスラーの面目はまる

潰れになってしまう” ヨシノサトは下手クソなイングリッシュでこう

言った。 俺はいつも葉巻かなんかを唾えてふんぞり返っているヨシノ

サトが、こうやってわざわざ俺のところまで来て、こうやって機嫌をと

っているのは、 俺にバアバ に負けてくれ、と頼み込みに来たに違いな

い、と直感した」

門>「あのとき、芳の里は買収しにかかったはずだ」

A>「ジャスト・モーメント……マネーの話はちょいと待てよ。あのと

きほ、いくつかのケースが考えられた。準決勝の第二試合で、俺が

バアバに、ただ負ければそれで片がつくというような簡単なことでほ

なかった」

門>「というと」

A>「そうだろうが、今までW・リーグ戦は十二回もずーっと日本人・レス

ーがチャンピオンになっているだろう。 常に日本・プロレス界のナン

バー・ワン・レスラーが就いている過去がある。 それなのに、準決勝戦

の第一試合でナンバー・ツーのアントニオはトルコの力を借りて、決勝に

進出して、ナンバー・ワンのバアバと“セメント・マッチ”で闘い、自分

の方が、バアバより断然強いというところをみんなに見せたがっていた。 

俺はアントニオという男ほ、まだプロレスのなんたるかを知らない、

青二才の小僧ッ子だ、と思ったぜ。 どこの試合会場でもバアバの人気の

方が、アントニオの倍も三倍もあるのを彼自身が判らぬはずもないのに。

アントニオは今でもそうだが、すぐにカッコをつけて“セメント・マッチ

で来い”とか“ピストル(真剣勝負)”で勝負をつけようではないかとい

た言葉をすぐに弄する。 アントニオがバアバに勝ちたければ、アント

ニオとバアバで決着をつければいいんで、何も、この俺やデストロイヤー

まで巻き込む必要はないんだ。そこらあたりが、アントニオがプロフェッ

ショナルな男ではないと、言われるゆえんだ」

門>「おまえのアントニオ論はその辺で結構だ」

A>「話がとんだところにいってしまった。あの日の話に戻ろう。

 準決勝の第一試合でアントニオがトルコの力を借りて勝てば、第二試合

バアバは反則負けで決勝戦には進出しないことになっていた。

これは、時と場所は違っていたが、ヨシノサトとオキ・シキナの両方から

れた話だ。俺はこの二人に言ってやった。ラフ・ファイト専門のこの

俺が、なんでベビー・フェース(善玉)のバアバに反則勝ちをさせてやら

ねばならのだと。ホテルのマイ・ルームに来たヨシノサトは、こんなこ

とも言った。“猪木が負けてデストロイヤーが決勝に出て来たら、第二試

合でユーは馬場をウーンと強く見せながら、完敗してくれ”と。 猿まわ

しの猿じゃああるまいし、アブドーラ・ブツチャーともあろうこの俺が、

なんで三流レスラーあがりのヨシノサトなんかの言う通りにならねはなら

んのだ 。俺は心の底から情けなくなってしまった。 まだ闘ってもいな

いのに、俺はアントニオがデストロイヤーに勝ったときだけ、決勝戦に進

行する権利を与えられたわけだ。 俺はオキ・シキナとヨシノサトに聞い

てやったネ。アントニオと決勝で顔を合わせたら、ノー・スピーキングで

ファイトしていいんだなと。“猪木がデストに勝ってしまったら、あの

野郎に優勝させるのは腹が立つが、あのブラジルからの出稼ぎ野郎の猪木

もジャバン・レスラーの端くれ、あんたに は悪いが、あんたは猪木には

負けて貰うより方法はない” ヨシノサトは、こんな恥知らずなことを

俺にくどくどと喋りまくった。 オキ・シキナは“芳の里の言う通りのこ

とをやっていたら、これから先、ユーが希望すれば、何回、いや、何十回

だって、ジャパンのリングに上げて貰える。

  ファイト・マネーだって、ワン・ウイーク、七百ドル(二五・ニ万円)

ぐらいにはアップしてくれるほず。それに今回のレスリング・ビジネスを

パーフェクトに演じれば ジャバン・プロレスからユーには五百ドル

(十八万円)ぐらいのスペシャル・ボーナスが出るだろう” このような

言葉で、俺をかき口説いた。 俺はこのオキ・シキナに言ってやった。 

反則勝ちであろうが、なんであろうが、ジャパン・プロレスのナンバー・

ワンのバアバに勝ったなら、ファイナル・マッチで、ナンバー・ツーの

アントニオなんかに ムザムザと負けるわけにはいかん、誰が見てもさし

て強くない男に負けるのは大嫌いな性分だ。オレほブッチャーだ、と大見

得を切ってやった」

門「おまえがそのような大見得を切っていたとき、デストロイヤーは芳の里

から、猪木をKOする約束で、千ドル(二十六万円)という金をスペシャル・

ボーナスとして  受け取っていたんだな」

A「それは知っていたさ。俺の倍も三倍ものファイト・マネーを取っていたデ

ストロイヤーが、アントニオみたいな小僧をひねるだけのことで、千ドルプ

ラス。 この俺もまともなファイトなら、あんな鳥ガラみたいなバアバをすぐ

にフォーできるのに、デストロイヤーが勝ち残ったら、俺は、バアバの

餌食になってリングで死んでしまえ、とジャパン・プロレスのギャングたち

は口を揃えて言いやがった。俺からプライドも自主性も全部もぎ取ってしま

う話をしながら、俺には余計なマネーをまるっきり使う気を見せない。自分

が働いた分のマネーをガッチリ取らねば、プロフェッショナルな男とは言え

んだろう。 このフィロソフィ(哲学)ほあのときも現在も俺の頭から離れて

いない」

 

しかし、結果はザ・デストロイヤーとアントニオ猪木は両リングアウトでした。

買収したという話はどうなったのでしょうか。

いろいろな裏工作や葛藤の末、引き分けということに落ち着いたのでしょうか。

 

たぶん、この話にはかなり「プロレス」的フィクションが含まれているのでしょ

う。同じ「四者同点決勝」だった第11(S44)ワールドリーグの時は、先に

ジャイアン馬場とボボ・ブラジルが試合をして引き分け。

次にアントニオ猪木とクリス・マ ルコフが試合をして猪木が勝って優勝しまし

た。このとき、なぜジャイアント馬場がアントニオ猪木より先に出てきたのか。

外人のだって、ボボ・ブラジルの方がクリス・マルコフより上でした。これは、

11ワールドリーグはアントニオ猪木が優勝するリーグだったからでしょう。

一方、13ワールドリーグは、逆にアントニオ猪木が先に出てきてジャイアン

ト馬場試合は後でした。これは、ジャイアント馬場が優勝する筋書きだからだ

ったのでしょう。要するに、4人とも、結果としてしっかりプロレスの仕事をした

に過ぎないのではないでしょうか。ちなみに、ジャイアント馬場が勝った瞬間、

アブドーラ・ザ・ブッチャーのセコンドに付いていたザ・デストロイヤーは、

チェッと残念そうなゼスャーを見せています。しかし、当時からジャイアント

馬場と親しいことはファンはみな知っていたし、その後、全日本プロレスでは

ザ・デストロイヤーとアブドーラ・ザ・ブッチャーが抗争を繰り広げています。

今改めて当時のビデオを見ると、ザ・デストロイヤーの仕事ぶりが古き良き時代

のプロレスを感じさせてくれます。

昭和プロレス。ミステリアスなところもサイコーです。

 

しかし リングサイドの切符を 当時のなけなしの(授業料をちょろまかして) 

3000¥も払って 観戦していた HONDA少年にとっては どうだったでしょう 

今度こそ「猪木と馬場がガチンコ」で戦うとおもっていた のにとても、

サイコーとはとて も言えませんでした。