「日馬富士の暴行事件」 | HONDAのブログ

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現役横綱がおこした土俵外での暴行事件は いったいどうなるのでしょうか?モンゴル人同士のいさかいでは

済みそうになくなってきましたが、かつて プロ野球でも衆人観衆の中での暴行事件が刑事事件まで発展したことがありました。
横浜スタジアム 1982年8月31日に横浜スタジアムで行われたプロ野球セントラル・リーグの横浜大洋ホエールズ対阪神タイガースの試合で発生した阪神側による審判員に対する暴行事件である。

刑事事件に発展し、日本のプロ野球に根強い暴力への「甘さ」とスポーツでは珍しい「審判軽視」の風潮の表面化もあり]、日本社会の広い範囲から注目を集めた事件である。...
7回表(得点は1 - 1)、この回の阪神の先頭打者である藤田平は三塁前に飛球を打ち上げたが、捕球態勢に入った大洋の三塁手石橋貢の後方のフェアゾーンに打球が落ちた。バウンドした打球は本塁 - 三塁間のファウルラインを越えてファウルゾーンに転がり出た。この打球を、鷲谷亘三塁塁審はファウルボールと判定した。

この判定に対して阪神側は、まず河野旭輝三塁ベースコーチが、「打球がフェアゾーンで石橋のグラブに触れてからファウルゾーンに出たからフェアの打球だ」と主張して抗議を始めた。鷲谷塁審は打球が石橋のグラブに触れていないとしてファウルボールと判定しているので、本事件はルールの適用ではなく、純然たる事実認定をめぐる抗議だった。阪神側は、さらに島野育夫一塁ベースコーチ、ベンチを飛び出した柴田猛コーチ、さらには選手のほぼ全員が加わり、三塁側ファウルゾーンフェンス付近で鷲谷塁審を取り囲んだ。この時真っ先に止めに入った選手は真弓明信のみであった
島野、柴田両コーチは、取り囲まれた鷲谷塁審を抑えつけ、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに止めに入った岡田功球審ら他の審判員に対しても、同様に殴る蹴るの暴行を加え、岡田球審はグラウンドにうずくまった。島野、柴田両コーチには直ちに退場が宣告されたが、二人はその後もしばらく暴行を続けた。

この試合の責任審判でもあった岡田球審は、「暴力団のようなチームと試合できるか!!」とプロテクター(当時はインサイドプロテクターではなく、手に持っていたアウトサイドプロテクター)をたたきつけて怒り、審判団を引き揚げさせた。

阪神側は安藤統男監督が陳謝し、中断時間10分程で、岡田球審が「大変痛めつけられましたが、柴田、島野両コーチを退場させて試合を再開します」と異例の表現で場内アナウンスし、試合を再開することとなった。なお、審判団は没収試合も考えていたが、上記の陳謝があったことと夏休み最後の日で多かった観客への配慮から続行を決めたという。

この試合は、テレビで放送されていた。
神奈川県警察加賀町警察署は、試合終了後に岡田球審、鷲谷塁審、手沢庄司二塁塁審の3人から事情を聴取し、傷害事件として捜査を始めた。この過程で、審判員の怪我は、岡田球審が全治2週間、鷲谷塁審が全治1週間という診断が下された。

同警察署は9月2日に島野、柴田両コーチに任意出頭を求めて取り調べを行った。プロ野球のコーチ、選手が試合に関連して警察の取り調べを受けることは極めて異例であったという。

横浜地方検察庁は9月29日に島野、柴田両コーチを略式起訴し、横浜簡易裁判所は2人に罰金5万円の略式命令を出した
9月1日、セ・リーグの鈴木龍二会長は、世論の硬化と日本野球機構の下田武三コミッショナーの勧告もあって島野、柴田両コーチに「無期限出場停止」なる処分を下した。鈴木会長は、阪神側が島野、柴田両コーチを球団職員としてその身分を保証することを容認するなど早期の復帰を前提とした姿勢を鮮明にした。

その後、島野コーチと柴田コーチが事件について反省の意を示したことや[7]、上記の鈴木会長の意向もあり、1983年3月24日、2人に対する処分が解除され、阪神はあらためて2人とコーチ契約を行った。

もし これが 平成の今なら 両コーチは間違いなく永久追放であったろうと推察される。
さてさて 日馬富士はどうなるのでしょうか??