【馬場のセメント恐怖症】馬場が震えた日~ザ・デストロイヤーに助けを乞う醜態を演じ観客から失笑 (門メモより発掘)
日本プロレス界でセメント嫌い、というよりは恐怖症に陥っていたのが馬場であった。自分がお山の大将に収まっていた
全日時代のマットからはセメントを消し去っていたが、日プロ時代はインターのチャンピオンとは表向きの看板だけで、
実のところ、何度かセメントを仕掛けられ小便をチビる恐怖を味わっている。それがトラウマとなりセメント恐怖症に陥った。
それは傍から見ると、常に表街道を歩むことに対する嫉妬、ジェラシーからくる苛めに等しかったようだ。
ベンチプレスで80㎏しか持ち上げられぬ非力さを脚力を活かした巨体でカバーしていたが、それもピークは直ぐに過ぎ、
その巨体が武器というよりはハンデの重荷となってマットに上がっていたのが実情であった。馬場の末期は自力でマットに立つことも
不能な状態に陥り、アンドレと同じように巨人症の宿命を呪ったが衰えを克服するまでには至らなかった。
フェイクの瞞しの世界でしか生きる術がなかった馬場は野球界をクビになりプロレスが人生最後の砦であった。
「セメントを仕掛けられたらセメントで迎え打つ」という力道山が弟子たちに鉄拳で叩き込んだ教えも体力、気力、実力全てが伴わかった
と言えば実もフタもないことだが、虚仮威しで「プロレスはスポーツ」と思うファンからは馬場は大物トップ外人に勝つ→強い→日本一
という三段論法的ギミックで「馬場最強」を信じ絶大な人気を得ていた。
こうした「馬場プロレス(フェイク)」に対するライバルや先輩たちの猛烈な反撥、嫉妬、ジェラシーの怨嗟がドス黒く燻っていたのは
確かであった。その源流は「見かけだけでセメント勝負も出来ず実力も無いのに化け物(長身)人気だけで高給高待遇を得ている」
という憤怒感情からであった。
1965年(昭和40年)6月3日。札幌中島スポーツセンターで開かれたアジア・タッグ戦で王座組である豊登&馬場チームは
ザ・デストロイヤー&B・R・ライオンの義兄コンビに敗れるという波乱が起きた。
この年の秋には芳の里グループの強力な後押しでNWAに権利金の2万5千ドル(900万円)の裏金を積み、
復活インターナショナルのチャンピオンになることが既に約束されていた順風満帆の馬場に対し、
最後まで反対していたのが力道山亡き後、日プロの社長でもあった豊登であった。
裸足でベアハッグといった地味で見映えのしない単調な豊登のスタイルに比べ、レスリングの基礎も知らない馬場は
アメリカで身に付けた、派手な立ち技見せ技を中心とした活劇的フェイクに飾られたファイトは人気を集めた。
この馬場人気に嫉妬し、豊登がエースの座に危機感を覚えていたのも事実であった。
何より観客は毛唐より大きな体躯で外人を痛めつける馬場の姿に溜飲を下げた。力道山がこれまで示して来た敗戦国の
小兵ニッポン人が戦勝国の大男悪党ガイジンを投げ倒すスタイルにカタルシスを得、拍手喝采を送るというこれまでの
パターンに変化をもたらすものであった。
それを側面から強い影響を与えたのが茶の間に浸透したテレビの普及であったと指摘する声は多い。
視覚的に訴える派手で誇張された馬場のスタイルは実にマンガ的で正にテレビ向けにピッタリであった。
テレビでファンになった観客が会場にも足を運ぶという理想的な市場商法スタイルを実戦していたわけである。
当夜、タイトルマッチの開始時間が迫る中、今日の結末を何も聞かされていないレフェリーの沖識名は、
マッチメーカー(シナリオ作者)でもあった吉村道明を控室横の暗がりに呼び出し、
勝ち負けのシナリオを聞き出そうとしたが、吉村の返答はにべもなかった。
「実力のない馬場をさも強そうに見せるストーリーを考えるのはもう止めた! 頭が痛くなるばかりだ!
ワシよりも馬場とツーカーの仲である芳の里に相談すればいいではないか!」
その横で豊登はニヤリと笑い、「馬場はもうじきインターのチャンピオンになるほどの実力者。
闘う前に打ち合わせなどしなくても、プロレス新聞がタレ流す通りの力を出せばデストロイヤーとて目じゃないはずだ!」
と冷たく言い放った。
この後の詳細は 有料ブログからの引用なので 詳しく書くことはできないが
1本目は豊登がデストロイヤーにハイスパートのラッシュ攻撃。その猛攻を止めることは出来ずデストロイヤーは逆エビ固めを腰も砕けよ!とばかりに力一杯締め上げられ、堪らずギブアップし1本を先取した。
2本目が始まり、再び馬場がピンチを迎えた。「どうしてトヨノボリはババのヘルプに入ってこないのか?」とデストロイヤーは沖に2度に渡り観客に分からぬように、
小声で尋ねたが、何故か返答は返ってこなかった。
デストロイヤーは既に意識も定かでない馬場を「オキ、ババをフォールするぞ!」
と観客にも聞こえる大声を出し馬場にスパート。マットで半失神状態の馬場をタッチしたライオンが足固めで2本目を取ってイーブンのタイに持ち込む。
宣告通り何も出来ずにあっさりと敗れてしまった馬場に向かい、
観客は罵声、怒号のブーイングのヤジが集中した。
いよいよ決勝の3本目のゴング前に、沖識名がコーナーでアップアップ姿で意識朦朧の馬場に語りかけた。
「決勝の3本目は(ビリー・レッド・)ライオンをカッコよくオマエが決めろ! そうしないと観客が納得しないぞ!」
3本目が始まり、沖からの言葉を信じリングでカッコ良い勝者に成れると孤軍奮闘する馬場であったが 外人組にメッタうちにやられてしまった。
当然、豊登がヘルプに入ってくるものと思っていたライオンは狼狽した 豊登が助けにこない。と無表情のままコーナーに屯する豊登を見て、「これではババが負けてしまう!」と咄嗟に判断したデストロイヤーは「オーバー・タイム!」と叫ぶ
試合時間はまだタップリと残っているのに、デストロイヤーの突然の行動の意味が本部席
には理解できなかった。
格下のライオンに馬場が決勝の3本目を取られ、日本組がタイトルを奪われる
などとはプロレスのシナリオであってはならぬ想定外の出来事であった。
レフリーの沖は豊登に近寄り低い声で聞いた。
「タイトルを捨てる気か?! 捨てるならアンタが馬場とスイッチして負けろ! でないと馬場が2本取られ、プロレスそのものがインチキだと思われぞ! それでいいのか!」
最後の一言が利いたのか?、
マットに飛び込んだ豊登は、ファンも内心期待していたであろう?
デストロイヤーの4の字固めを喰らいギブアップ。タイトルは移動してしまった。
売り出し中の馬場が「張り子の虎」でしかないことを観客に悟られたくないという沖の親心も空しく、演出の失敗(豊登の非協力があって仕方がなかった)もあり、全く良いカッコが見せられなかった馬場は 観客の嘲笑のうちにひきあげた。
豊登と組むタッグ戦では弱くてウスノロのデクの坊に過ぎないのに、
シングルのインター争奪戦ではデストロイヤーにも勝ち、
互角以上に強いところを見せる馬場のファイトに何故だ?
沖識名は後に述懐する。
「豊登はインターのチャンピオンになることが決まっていた馬場に満座の中で赤っ恥をかかせ、こんな弱くてセメントも出来ないダメな奴
インターの復活話が浮上した時にすぐに
WWAをチャンピオンを返上しインター1本に絞れば良かったんだがな。やはり世界タイトルの魅力に欲が出たんだろうが、
その背景にはWWA王者のオレ(豊登)の方が(インターチャンピオンより)強いし相応しいというアピールもあったのだと思う。
考えてみれば組織として日プロが担いだ実力のない馬場は、リングでいつボロが出るか分からぬ弱いチャンピオン1号になってしまったわけだ!
力道山が身体を張り鉄拳を飛ばして弟子たちに教え込んだセメント魂が結果的に馬場がトップになることで疎んじられるようになっていってしまった。
力道山あっての馬場であった。野球で使いものに成らなかったポンコツの化け物人気を経営者として利用したセンスは素晴らしかったが、
それはガチンコの力道山がいればこその添え物人気だったはず。
最後まで馬場には批判的であった豊登もギャンブル中毒という脇の甘さを芳の里、遠藤幸吉一派の狡知に嵌り、「追放」が正式にマスコミに発表されたのは翌年(昭和41年)の1月5日であった。
1965年(昭和40年)11月24日、ディック・ザ・ブルーザーを破り予定通りインターのチャンピオンに収まり、選手会長にも選任された馬場
豊登が消えた第8回Wリーグ戦では約束通り馬場が初優勝)は飛ぶ鳥を落とす勢いの黄金時代を迎え、
豊登を追い出し念願の社長の座に就いた芳の里は以降、
組織のチャンプとして馬場をあごで使い馬場と蜜月時代を築き、また良き麻雀仲間として我が世の春を謳歌していくのであった――。
S46年12月 A猪木が 組織改革を叫んで 追放されたのはあながち ハリボテの
馬場と無関係ではないだろう。。。。