第1回ドラフト(1965年)には制度的なこととは別に、
プロ野球史上、大変な意義と意味があった。
それは、このドラフトでいよいよ、
いわゆる団塊の世代がプロ野球に登場したことである。
1947年4月生まれ~49年末 に生まれた、
戦後のベビーブーマーたちで、その数は700万人を軽く超える。
もちろん、高校中退ですでにプロ入りしている団塊の世代
もいたが(例えば、元阪神ほかの古沢憲司)、それはごく少数。
この第1回ドラフトで指名された高校3年生は、
84人(入団拒否、進学、中退を含む)。
その中には、
堀内恒夫(甲府商-巨人)、鈴木啓示(育英-近鉄)、
木樽正明(銚子商-東京)、水谷実雄(宮崎商-広島)、
福島久(PL学園-広島)、谷沢健一(習志野-阪急拒否)、
小田義人(静岡-阪急)、加藤俊夫(仙台育英-大洋拒否)、
江本孟紀(高知商-西鉄拒否)、藤田平(市和歌山商-阪神)、
森安敏明(関西-東映)、黒田正宏(姫路南-阪急拒否)
らの名がある(球団名は交渉権獲得球団)。
これはやはり、数のなせるワザだろう。これだけの好選手
が集まる年はそうあるものではない。タイトルホルダーが6人。
もちろん、この年指名されなかった47年度組で、のちのドラフト
でプロ入りして大成した選手もかなりいる。
若松勉(北海-電電北海道-ヤクルト)、上田二郎(南部-東海大-阪神)、
佐藤道郎(日大三-日大-南海)、門田博光(天理-クラレ岡山-南海)、
福本豊(大鉄-松下電器-阪急)らだ。
こちらもタイトルホルダーが目白押し。
私は この年代より少しあとだから団塊の後に位置するのだが、
学校時代を思い出すと、小、中、と、とにかくスシ詰め教室の
記憶しかない。1クラス50人ぐらいいて、後ろの列のイスはカベ
にくっつかんばかり。だから教室ではヨコの移動は不可能で
前後のタテの移動しかできない。
最前列の子どもも先生のツバを浴びるぐらいに、
こちらも教壇にくっつかんばかり。こういう中で9年間暮らすと、
やはり、何か変わったことをやらないと、先生に認めてもらえない、
何とか目立ちたい、という発想が身についてしまうものである。
星野仙一、田淵、山本、富田 次代は この 1947年組の 一つ前
そう考えると なんとなく 星野世代 と 堀内世代には 若干の
違いがあることを感じる。(星野仙一 1947年1月生まれ)
第一回ドラフト組の代表選手は下記
<セ・リーグ>
①巨人
堀内恒夫 1948年1月 甲府商業
②阪神
藤田平 1947年10月 市立和歌山商業
古沢 憲司 1948年3月 新居浜東
上田二郎 1947年7月 南部高校
③中日
谷沢 健一 1947年9月習志野高校・早稲田大学
④ヤクルト
松岡弘 1947年7月 倉敷商業
若松勉 1947年4月 北海高校
⑤大洋(横浜)
平松政二 1947年9月 岡山東
⑥広島
水谷 実雄 1947年11月 宮崎商業
<パ・リーグ>
①東映(日ハム)
江本 孟紀 1947年7月 高知商業・法政大学
②近鉄
鈴木 啓示 1947年9月 兵庫育英高校
③阪急
福本豊 1947年11月 大鉄高校
④東京(ロッテ)
木樽正明 1947年6月 銚子商業
⑤南海
佐藤道郎 1947年5月 日大三校ー日大
門田博光 1948年2月 天理高校
⑥西鉄(西武)
片岡新之介 1947年11月 倉敷工業
そうそうたる メンバーである。