S38~S45 日本プロレス黄金期(その2) | HONDAのブログ

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前回は S42年まで書きましたが、 このS42年には 「プロレス夜明け前」として 

次々といろんなことがおこりました、 豊登が興した「東京プロレス」の終焉 と 

「プロレスで一儲け」という TBS TVが虎視眈眈と プロレス中継参入を画策していました

東京プロレスともう一つの 弱小「国際プロレス」を合体させ、A・猪木 と ヒロ・マツダの 

2枚看板で S43年 1月~ TBSプロレスを 放送するという計画を着々と進めていました、

e="MS ゴシック">しかし 行くあてのない 豊登は TBSに合流したものの 東京プロレス崩壊時の いきさつ

もあり A・猪木は 古巣の「日本プロレス」に復帰し ヒロ・マツダも TBSが外人レスラーの供給を 

守銭奴のG・東郷にまかせたことにより マツダも アメリカマットにかえっていった。

TBSとしては 見切り発車だとしても 発車した電車は止められず、海のものとも山のものともわからない

アメリカでフリー活動していた 草津=>グレート草津  杉山=>サンダー杉山 として 

羊頭狗肉の エースとしてTBSプロレスを発足させることとなる。


 


S43年 1月3日 水曜 午後 7時~ TBSプロレス初放送「G草津VS ルー・テーズ」

(日大講堂)を生放送これに対抗して 日本プロレスが 午後5時30~日本プロレス特番

「G馬場VS Cレソウスキー」(蔵前国技館)の興行戦争に発展 今の時代であれば 

キャリア3年たらずとはいえ TBSのバックアップのある G草津は 形はどうあれ勝って

チャンピオンになるところであるが、当時のプロレスのアングルはTV局には100%わかっていなかった。

TBSの関係者がテーズに対し、エースに目論んでいた草津に「花を持たせる」ことをそれとなく要求するものの

歴戦をくぐり抜け何度となくNWA世界ヘビー級王座にも就いたテーズにとって、キャリア3年にも満たず

大きな実績もない草津に負けることなど認めがたいことであり、大いに憤慨。G東郷もTBS側の無礼ぶりを

認めたが、「TBSに顔が立たないから表面上は了承したふりをしていてほしい。でも実際に従う必要はない」

とテーズに語り、テーズも了承する。

試合が始まると、草津の受け身が未熟であることを見抜いたテーズは、必殺のバックドロップを見舞う。

現在残された写真では、急角度の危険なものではなかったが、食らった草津はあえなく失神。

草津自身は失神はしておらず、セコンドにいたグレート東郷の指示で寝ていただけだと語っている。

草津はそのまま試合放棄で敗戦となり、TBSの目論みは潰れることとなった。「エース」がテレビ放映の初戦

でこのような無残な負け方をするなど前代未聞であり、その後のTBSの苦難の道を暗示した一戦といわれる

日本プロレス関係者もこの試合を酷評し、芳の里社長は「キャリア不足の草津がテーズに挑戦するなど、

力道山が尊敬していたテーズを冒涜している」として、急遽本番組開始当日に蔵前国技館で興行をぶつけて

興行戦争を仕掛け、かつ日本テレビで17:30から特番で放送した他、当日の蔵前大会の直後にアメリカ遠征に

出発するため、東京国際空港に行く途中で立ち寄ったベースボール・マガジン社でこの試合を本番組で観戦

していた上田馬之助(当日はキング・イヤウケアと対戦)も、「草津の試合ぶりはプロとして恥ずかしく、

しかも動きが幼稚」などとコメントした。

草津に見切りをつけた TBSは 日本プロレスで居場所がなくなっていた 金一(大木金太郎)に接触し 

TBSプロレスの エースにしようと画策する。金一の心はゆれにゆれたが 結局TBSに行くことはなかった。

もともと TBSのブッカー(外人配給係)の G・東郷は S38年12月の力道山死去に際して 

日本プロレスが 手切れ金として 大金を支払うかわりに 「日本のプロレスには今後一切かかわらない」

という念書に 違反して堂々日本に乗り込んできた ことに対して 日本プロレスの 陰の仕置き人

「ユセフ・トルコ」が 用心棒 松岡厳鉄を伴いG東郷の宿泊している ホテル・ニューオータニの 

部屋に乗り込み 必殺の「柔拳パンチ」で 半殺しにしてしまった。

翌日の新聞に「レフリーより弱い 世紀の大悪党」という見出しで 報道され 「身の危険を感じた 東郷が

 ルーテーズ以下の外国人レスラー」を引き連れ アメリカに帰国してしまう緊急事態となってしまった。

ことここにいたり TBSは 経営権を 吉原功に返し 「国際プロレス」として 放送を続行する、 

G東郷だのみだった 外人ルートがなくなり 窮余の策で イギリスとの提携

で来日した ビル・ロビンソンが 大当たり 「外人がエース」という 道をみつけて生き延びていくことになる。


 


こうして 波乱のS43年が明け 一応のおちつきを取り戻した プロレス界は

(馬場&猪木)の 日本プロレス (B・ロビンソン)の 国際プロレスとして 人気が盛り上がっていた。

その 9月 プロレスでうまくいかなかった TBSが 今度は 野口プロモーションと組み 沢村忠をエース

に 「キック・ボクシング」中継を 毎週月曜19時~放送を開始する これで

月曜 19時~ キックボクシング(TBS)

水曜 19時~ 国際プロレス  (TBS)

金曜 20時~ 日本プロレス  (日 TV)

と 格闘技放送は 視聴率のとれるコンテンツであった。 老舗 日本プロレスは

インターCに G・馬場  インタータッグCに 馬場&猪木 アジアタッグCに 猪木&吉村

ブーたれてた 金一(大木金太郎)に 復活のアジアヘビー級Cを 持たせ  次代のエース候補

坂口征二は アメリカ武者修行中と 日本プロレスとしては 天下泰平 我が世の春の状態であった。

G馬場 30歳 年末には NWA世界C Gキニスキーをほふって インター王座を防衛し、充実した年末

を 迎えていた 。


 


S44年 1月 NWAの世界Cに 若手の ドリー・ファンク・Jr(当時28歳)が Gキニスキーを

破り 王座奪取をなしとげる。 ドリー や 猪木 坂口は 同世代であり 衰えの目立つ G馬場 からの

若手脱皮が叫ばれたのもこのころである。しかし プロレスは依然として 視聴率30%を超える 人気

コンテンツであり この年から NET(現TV朝日)が 日本プロレスに接近し 猪木をエースにした

TV放映を もちかけていた。 好事魔多し・・・ ここらあたりから 日本TV・・・芳の里

NET TV・・・遠藤幸吉  と 日本プロレス内部での ぎくしゃくが始まる。  この4月に開催

された 第11回 ワールドリーグ戦は プロレスブームの絶頂だったかもしれない。

(大阪大会の 闇のダフ券が 2000¥の席が ¥20000で飛ぶように売れていた)

ここで 優勝すること=日本プレレスのエース という構図からも 馬場は、絶対ゆずれないところであったが

7月~ NET プロレス中継開始が決定したこともあり NETへのご祝儀の意味も含め A・猪木が

混戦の中から 感激の初優勝をするというストーリーになってしまった。


 


そして 7月~ 毎週水曜 21時~  猪木が 主役の NETワールドプロレスが開始される。

G・馬場は 日本TVしか登場しないということは インター選手権 も インタータッグ選手権も NET

は放送できないことになる。 NETの 放送のタイトルマッチは 猪木&吉村 の アジアタッグCしか

なくなる、 これでは NET TVとしては 「なんとか 猪木にシングルタイトルを・・」となるのは

自然の 形であろう  12月に NWAチャンプの ドリー・ファンク・Jr が 来日に  NET側は

なんとか 日本で猪木に勝たせて 翌年の1月 アメリカで ベルトを返す という案も出たようだが、

そうなると G馬場のインターCが 一枚下がりになってしまうこともあり 日本プロレスは 日本TV と

NET TVの 両方にいい顔したがために 自分で自分の首を絞めていくことになった。  そうして S44年は暮れていった ** つづく  ****