S38~S45 日プロレス黄金期(その1) | HONDAのブログ

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今回は プロレスがまだ世の中である程度リスペクト

されていた時代の お話をつずってみたい。


 


プロレスが戦後の 「ヤンキー・ゴー・ホーム」の

世相に便乗して 爆発的人気をえたのは S29年の

力道山&木村 VS シャープ兄弟の 世界タッグ選手権

その後 群雄割拠の プロレス団体を 金・政治力・闇の力

なぞを使い 独占状態にしたのが 戦後の寵児「力道山」

日本チャンプ・ 東洋チャンプ・ インターナショナルチャンプ

と 着実に勲章を増やし S35年あたりには 日本の最も

有名な スポーツ?選手=力道山(S33年に 巨人に入団した

長嶋も 相撲の大鵬も この時点では 力道山にかなわなかった)

しかし S36年あたりから 力道山の力も衰えたこともあり

「なんとなくうさんくさい 試合が増えてきたこともあり」

力道山人気にも かげりが見えてきた。

それを打破すべきく S37年 3月 ロサンゼルスに本拠を

置く WWA(ワールドレスリング連盟)に 5万ドル(当時の日本円

で1800万円(現在の貨幣価値で 1億円)の 賃貸料金

を支払 以下の契約をG東郷の介添えで実行した

(当時の王者 F・ブラッシーを ロスのマットでほふって

①王者になる ②試合のVTRを日本TVで放送する ③4月に

王座奪還に燃えるブラッシーを日本に遠征させ 東京と大阪で

タイトル防衛線を認可する ④5月に 力道山がロスに乗り込み

2・3回防錆戦のあと WWAの指定する選手に王座を明け渡す)

この ブラッシーの日本遠征で TV観戦の 日本の老人が

心臓発作のショック死がおこり 世論が沸騰し さらなる プロレス

ブームがおこった。

そしてこの WWA選手権を 商売道具にして デストロイヤーとの

死闘により プロレス人気を再燃させたのが S38年

このS38年は 東京五輪前年であり 正式五輪競技となった柔道が

一躍脚光をあび この年の 全日本Cが 猪熊 功

12月 力道山は チンピラに刺され あっけなく あの世にいってしまう。


 


明けて S39年 「力道山のいない プロレスなんて・・」と思われていたのが

2番手だった 豊登 を エースにしたて 柔道の遠藤幸吉 アマチア相撲の吉村道明

力道山の弟分 芳の里 4人 で 興行を打てば 予想以上の客入りであり 日本TV

の 後ろ盾もあり 「なんとか やっていける」メドをつけられた 

この年の 前日本柔道Cは 神永昭雄 神永はヘーシンクに敗れ 日本柔道の悲願の

金メダリストにはなれなかった。  東京五輪が終わり

S39年12月 力道山 1周忌に 豊登 が 力道山の宿敵 ザ・デストロイヤーに

辛勝し WWA世界Cになったことで 誰もが 力道山の跡目は 豊登で落ち着いたと見えた。


 


S40年 打倒ヘーシンクをめざす柔道界では 神永の舎弟ともいうべき 坂口征二が

全日本柔道C になり リオでの世界選手権で ヘーシンクをおいつめたが結局 銅

メダエルに終わり メキシコ五輪に雪辱をかけた。

豊登 が 日本プロレスの首領であることに 限界を感じていた 遠藤・吉村・芳の里は

アメリカで 東洋の巨人として 大人気を博していた 馬場正平を 帰国させ 

ジャイアント馬場として 力道山の インターCを復活させ 豊登との 2枚看板にしようと

画策する。 しかし WWA世界Cであり 日本プロレスの社長でもある 豊登は内心おもしろく

なかったものの 賭博依存症だった 豊登の 借金を 日本プロレスの金庫から引き出していた

負い目もあり G馬場の インターCにNOとは言えない立場であった。


 


S41年正月 いよいよ博打の借金に追い詰められた 豊登は 遠藤らの甘言に乗り 「一旦退職」

し 退職金で 博打の借りを清算したものの G馬場で十分商売ができることに自信を得た

遠藤・吉村・芳の里 により 日本プロレスへの復帰の道を閉ざされてしまい さらに「公金横領」

という 汚名まできせられて 日本プロレスから除名処分を受けてしまう。

この時点では 「プロレス」そのものはまだ 一応のステータスがあった時代 3月の BOXING

世界ヘビー級戦(Mアリ VS Jシュバロ)の リングセレモニーで プロレスリングチャンピオン

として G・キニスキーが 両社に激励してる ビデオが残っている。

この年の 全日本柔道Cは 松永満雄(2位が 坂口征二)

すっかり だまされた豊登は 帰国途上の A・猪木を 自軍にひきこみ この年の4月 日本プロレス

打倒を掲げて 「東京プロレス」を旗揚げする。

TVのつかない 東京プロレスは 苦戦をしいられ 11月の 大阪決戦(猪木VSバレンタイン(大阪球場)

馬場VSエリック(大阪府立体育館))でも 日本プロレスが圧勝したことにより 東京プロレスの先は

暗いものであった。


 


S42年 1月東京プロレスの苦境を打破すべく 豊登は S40年の柔道C坂口征二に プロレス転向を

打診 この情報を受けた 日本プロレスは 元プロ柔道の 遠藤 と コミショナー次長の門茂夫 に

内密に S41年柔道C 松永満雄 に プロレス転向を有馬温泉で打診させる。

しかし 打倒ヘーシンクに燃える 松永は この甘言をきっぱり断る。そうこうしてるうちに S43の

メキシコ五輪で 「柔道が競技から外れる」ことが決定し、 心がふらついていた 坂口征二に 芳の里

一派が 甘言をもってプロレス転向を 持ちかけた(東京プロレスの出鼻をくじく意味もあった)

坂口は 日本プロレスの誘いに乗り 2月 日本プロレス入りを発表、 最後の望みも消えた 東京プロレス

は 3月末で 崩壊していった。

勢いに乗る 日本プロレスは 「将来のため」ということで 東京プロレスのエースだった A・猪木を

馬場の 2番手として 救いの手をのべ 猪木も 日本プロレスに復帰する。

(これに 最後まで異議をとなえたのは 金一 大木金太郎 だったといわれる)

その金一の 機嫌をなおすため 韓国ソウルで 金一を Mルーインの WWA世界Cに挑戦させ

一時的に 金一を 世界Cにして 韓国の英雄にしたてたのも 芳の里一派であった。


 


このころの 人気ではなく 「本当のガチンコでの 番付け」は(はいったばかりの坂口は除くとして)

① 豊登

② 吉村道明

③ 金一 (大木金太郎)

④ 上田馬の助

⑤ 松岡厳鉄

⑥ A・猪木

⑦ ユセフ・トルコ

⑧ 山本虎鉄

⑨ 星野貫太郎

⑩ G馬場

というのが コミッショナー次長の 門茂夫の 実力ランキングだったといわれる。


 


11月に 馬場&猪木 が どこからともなく出現した「インター・タッグ」チャンピオン

になり 力道山以来の 「プロレスブーム」がおころうとしていた。

まさに 「プロレス夜明け前」であった。  豊登を追い出し 社長に座った 芳の里は 

毎晩 銀座で豪遊し、 遠藤幸吉は 会社の金で私服を肥やし プロレス貴族となっていた。

1人 吉村道明だけは 現役を続け 馬場・猪木 の 引き立て役に回り 血の海に沈む毎日

(当然 その ファイトマネーは 馬場や猪木の何倍もとっていた)

プロレスに国境はないと 信じており 力道山の一番弟子を自認し ガチンコでも 馬場・猪木

の上をいく 金一は WWAのベルトを外され 鬱積のたまる 日々を送っていた S42年の暮れであった。


 


そして 空前のプロレスブームのおこる S43年に 突入していくのであった。・・・ つづく。