S38~S45 日本プロレス黄金期(その3最終回) | HONDAのブログ

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前回は S44年まで書きました

S44年 7月時点での TV放送は



月曜 19時~ キックボクシング(TBS)

水曜 19時~ 国際プロレス  (TBS)

木曜 21時~ 日本プロレス (NET)

金曜 20時~ 日本プロレス  (日 TV)

と ウィークデーのほぼ毎日 格闘放送を やってるという
黄金時代でした。



そして 嵐の前の静けさの年

S45年が はじまります。、 どうなるかと思われた 国際

プロレスも Bロビンソン人気で 息をふきかえし 唯一 

日本プロレスと接点のない アメリカのAWA(アメリカン・レスリング

・連盟)の V・ガニエと提携し 名の知れた アメリカン

レスラーも国際プロレスのマットに登場することとなった、

余談であるが 欧州経由で来日していたモンスター・ロシモフ

(後の アンドレ・ザ・ジャイアント)を見たV・ガニエが 

日本でスカウトして アメリカに A・ジャイアントとして 

登場させ その後の 「大巨人」アンドレの アメリカでの

成功につながった。






この S45年というのは 日本プロレスの 泰平の1年で

あった芳の里&遠藤幸吉には 最も安定した プロレス貴族

1年であったように思う。
第12回ワールドリーグは S44は NETの顔たてたと

ことで 今回はG馬場が すんなり優勝してしまった。
そして 年末 「勝ちすぎる馬場」から いったん 

インターCをはずすため「絶対に裏切らない男

(ベルトをもった途端に国際プロレスに走ることのない)」

ジン・キニスキーに 12月 大阪で 馬場は敗れ 王座を

明け渡す。(これには いったん ベルトを棚上げとして 

次のチャンプを 日本TVの馬場にするのか? NETTV

猪木にするのか? を 日本プロレス内部で 計られた)



 

結局 力道山時代からの 日本TVをとることになり 

ベルトはロスの一戦で 馬場の元に 帰ることになる。
しかし 次の年 S46年には 「何かがおこる予兆は」

すでに始まっていたのかもしれない。



そして 運命の S46年が始まる インターCが日本TV

威光により 元の鞘(G馬場)に収まったことにより、 

NET TV は 「どうしても猪木にシングルのベルトを」

と 日本プロレスに要望し 八方美人となっていた 

日本プロレスはNWAが メキシコマットに名乗らせていた 

UN(ユナッテド・ナショナル)選手権を 日本向けに

したててあげ 3月 ロスのマットで A猪木が Jトロスを

撃破して悲願のシングルチャンピオンになるという 

ストーリーを仕上げる。NET TV は かねてから猪木と

恋仲であった 女優の 倍賞美津子を ロスの試合の 

リングサイドに招待し チャンピオンインタビューで 

倍賞を登場させリングの上で 「婚約発表」させる

という ウルトラCで 猪木を盛り立てた。




そして 本当の 日本のエースは 馬場なのか猪木なのか?

煽りに煽った 第13回 ワールドリーグ戦が 4月に

開催される次代のエース 元柔道Cの 坂口征二も 2年間

の米国武者修行から帰国し 空前の盛り上がりを見せた。
(これについては A・ブッチャーの独り言という形で 

1年前にブログに書きました)
11回 が NET ・・・猪木
12回 が 日TV ・・・馬場
ということは 13回の今回は 順番でいえば NET

(A猪木)と 猪木自身は思っていたはず、しかし 

ここでも S45暮れのインターCと同様に 日TVの威光

により 混戦の末 G・馬場が優勝を飾ることで幕をとじた。
ここから A猪木の 迷走が始まる 「これではいつまで

たっても馬場の引き立て役」芳の里 や 遠藤 は 何もして

ないのに高給をとり プロレス貴族でふんぞりかえっている。

このままでは「命を懸け 体をはっている レスラーはまるで

奴隷みたいなもの」そして 同じ日本プロレス内であるにも 

かかわらず「インターCの馬場さんと UN Cの この 

A猪木 は本当にどちらが強いのか? ファンのために決着を

つけたい」と 掟破りの 馬場への挑戦宣言をぶちあげる。
これに対し G馬場は 沈黙を守り  日本プロレスコミッシ

ョンは「時期尚早」というわけのわからん 結論で 

決着をつけようとした。
芳の里 遠藤 らの 貴族幹部は 「何もかも うまくいって

るこの時に(なんで)あのアゴが よけいな毒をはくんだ

まさにアンモニア猪木だ」と 言って頭をかかえたということ

である。そして ギクシャクしながらも S46年秋 A猪木

は 倍賞美津子と(まことに不思議だが)日TVの プロレス

放送のスポンサーである 三菱電機 大久保会長の媒酌にて 

結婚式を挙行する。これにあせったのは 日TV関連は 

自分の縄張りと自認していた G馬場この心のすきをつき 

A猪木は「レスラーによる会社改革を G馬場に持掛け 

レスラーの総意の元 日本プロレスの 役員会で 芳の里 

遠藤以下の 不信任案を出す計画を着々と 実行していた」

しかし セメントのプロレスは強いが 根が小心者の 

上田馬の助が、事の重大さに 耐えきれず 日プロ幹部に 

洗いざらいゲロしてしまったことにより11月末の 役員会で

 A猪木の 除名 とG馬場の 謹慎決議(馬場は事が露見して

からは 幹部側に寝返っていた)となった。 歴史は繰り返すで

形は違うが 5年前のt;猪木の兄貴分豊登と 同様 A猪木は 

S46年の師走 「会社乗っ取り」の 名目ですべてをはく奪

され 会社を追われてしまった。三番手の 金一(大木金太郎)

は 馬場も同罪だから追放を叫んだものの猪木を追い出し馬場

まで 切った場合、 金一がエースの日本プロレスに客は来ない

だろう?という思惑で馬場は 罪を免れ なんとか日本プロレス

にとどまった。日プロは 猪木が抜けた穴を さっそく 

坂口征二にスイッチし この12月のシリーズでアジアタッグC

に すえるものの UNチャンピオンについては 

来年に据え置き、インターッタッグCは ファンク兄弟に

一旦預ける形で S46年は くれていった。



(ファンク兄弟)



崩壊にひた走る日本プロレスの S47年が始まる。同罪だと 

断求された G馬場は 日本TVと接近(日本TVはNETが

放送を開始したときから 日本プロレスには一物もっていた)

し 「レスラーによる理想のプロレス団体」をG馬場と共に 

興すことを 画策するようになる。 野に放たれた A猪木は

見切り発車的に「新・日本プロレス」を 興すことになり 

国際プロレスを含め 4団体乱立の時代に突入していく

ことになる。馬場は日本プロレスからの離脱を宣言しました

夏の興行まで御礼奉行と称して日プロのリングに

上がってました。
残るはタイトル。S47年9月2日、日本プロレスを訪れた

馬場は、お別れの挨拶をしたあと芳の里社長、同席した

ミスター・モト(外人招聘係で日系米国人レスラー)、

門茂男(日本プロレス・コミッション事務局長)に

「自分も今まで日本プロレスの役員。日本プロレスが提携して

来たNWAと仲良くやるつもりだし、日本プロレスと興行戦争

をする気は毛頭無い」と言って

インターナショナルのシングルタイトルを戴きたいと申し出る。
芳の里は、 「君はレスラーになって何年になる。

タイトル・ベルトは個人の物では無く組織の物であることくらい

は知ってるだろう。どうしてもタイトルを持って行きたいと

言うなら、何年も同じ釜の飯を食べた仲だ。ベルト持ち出しの

チャンスをやろう。
うちの大木金太郎(金一)と『ガチンコ』で闘って、
君が勝ったら、ベルトもタイトルもあんたにあげる。
死ぬ気で 狂ったように 撃ち込まれる 金一の 必殺の

朝鮮パチキを 君は何発耐えられるだろうね? さあ、どうする」
芳の里社長の猛攻に馬場は タイトル返上せざるをえなかった。
こうして 馬場の去った日本プロレスは 金一(大木金太郎)を

インターCにすえて 興業を続けたものの S48年4月 

興業不審で 崩壊していく。






日本の本当の意味での プロレスはこの S47年で終戦したと

筆者は思っている  S91年(シャープ兄弟が来日して 

62年)現在 プロレスと称する 興行はコアな客相手に 

CS放送で 生き続けているが あのS40年第前半の

絢爛豪華な プロレスをもう2度とみることはできないであろう。



**** その3 (終わり) **************