高倉健をスターにした「日本侠客伝」 | HONDAのブログ

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高倉健の初の主演任侠映画 S39年公開の東映任侠映画「日本侠客伝」をTVで見ました。

S30年に 東映に入社し S37年に江利チエミと結婚したものの ヒット作はでず

東映入社9年 年齢も 32歳になっていた 高倉の転機となった作品。

もともとは 中村錦之介主演で企画されていた本作品を 錦之介が任侠映画を

いやがったため お鉢が高倉にまわってきて 高倉主演でヒットした。


 

1963年沢島忠 監督、鶴田浩二 主演による『人生劇場 飛車角 』で、東映東京撮影所

任侠路線 への転換を図った東撮所長・岡田茂 (のち、同社社長)が、翌1964年 2月、

東映京都撮影所 に復帰、東撮の任侠映画と一線を画す、時代劇の侠客ものを

現代劇にアレンジした映画を製作しようと考え] 京撮に於ける任侠路線第一弾鶴田浩二 主演

博徒シリーズ 」に次ぐ第二弾として本作を企画した] 。岡田は『人生劇場 

新飛車角』の脚本を書かせた笠原和夫 を呼び、仁侠映画の本命とも言うべき

企画を考えるよう指示した] 。笠原は二種類の企画を提出し、一つは黒澤明 監督の

七人の侍 』を下敷きにした、ばらばらになっていた七人のやくざが集まって来て、

大きな組に押しつぶされようとしている仁義に厚い小さな組を救う話、

もう一つは親分を殺され、解散同然に追い込まれた組の組員が我慢に我慢を重ね、

ついに決起し強欲なライバルに復習する忠臣蔵 的なストーリーだった。

岡田は迷うことなく忠臣蔵を選び、これが『日本侠客伝』となる。笠原は『七人の侍』の方を

したかったが、] 。『日本侠客伝』の最初のタイトルは『大侠客』であった。

『日本侠客伝』という題名は俊藤が付けたと著書で書いているが、岡田が前年『人生劇場 

飛車角』二本の後、石井輝男 に『昭和侠客伝』を撮らせていて、岡田が題名を先に付け

「昭和侠客伝、ええやろう」と言っていたという。『昭和侠客伝』、『日本侠客伝』、似ている。

京撮所長に再び戻った岡田は不振の時代劇 を横目に、仁侠映画路線への転換を目指し

仁侠映画を興行の重要週間に配していく。1964年7月鶴田浩二主演の『博徒 』に続いて

S39年8月に公開されたのが本作であった。岡田は仁侠路線となっても、

沢島忠中村錦之助 を大黒柱に据えるつもりで『日本侠客伝』も

、錦之助主演で企画を進めていた。ところがこの二人は任侠映画があまり好きではなかった

錦之助は田坂具隆 監督の『鮫』の撮影が長引いていると話し、『日本侠客伝』には出演する

気がないと判断した岡田は『人生劇場 飛車角』で宮川役を好演した高倉健を主役に抜擢した

一部の文献に「高倉の主役抜擢は俊藤」と書かれた物があるがそれは考えにくい。

高倉は岡田の企画したギャングシリーズで売り出し中だったとはいえ、

これといった大ヒット作がなく、いまひとつパッとしなかった。いまでこそ高倉は大スターであるが、

東撮育ちでギャング映画や美空ひばり の相手役の多かった高倉は、日本刀 を持って

切り込む姿が、まるで野球選手バット を振り回しているようでマキノ監督も俊藤浩滋 も頭を抱えた

これを受け岡田と俊藤は「やはり錦之助さんに一枚かんでもらおう。

高倉では任侠の雰囲気が出ない」と笠原に錦之助が脇で出るシーンの書き足しを頼んだ

当然錦之助は出演を拒否したが「岡田さんが東撮から京都に戻ったら、

岡田さんの企画する映画に必ず出演させてほしい」と書いた錦之助の古証文を持ち出し

苦しい説得をした。このため第一作のみ錦之助が出演している。

高倉がまだ主演級でないため、錦之助が主演のように書かれるケースもあるが、

錦之助の撮影は僅か2日間であった。やくざ映画を厭がっていた錦之助だが、

いったん出ると決まってからは、徹底して役柄を研究して撮影に挑んだ

錦之助が実に秀逸な残侠像を見せて、以来、ゲストスターの途中殴り込みが

この種の映画のパターンとなった。死を覚悟で仇の組に乗り込んで切りまくる

錦之助の芝居は見事なやくざの芝居だったが、俊藤らが懸念していた高倉の芝居に

新しい若い観客が予想外の反応を見せた。兵隊帰りの深川 木場とび職人 を演じた高倉の、

様式美よりもリアリスティックで粗削りの侠客の姿に圧倒されたのである。

結果、映画は大ヒットし、それまで人気が燻っていた高倉は一気に東映の大看板になった

高倉は三白眼 が邪魔になって、もうひとつ人気が伸びなかったが、

やくざに扮して初めて"その処"を得たのである。"目千両"というが、

"目つきの悪さ"で一代の財を築いたのは、高倉を措いてほかにない。

錦之助の任侠映画出演は本作一本のみ。"この後岡田が京撮のリストラ と仁侠路線を強化した

ことで、岡田が仁侠路線のエースコンビと期待していた沢島と錦之助は仁侠映画を嫌い、

この後東映を退社した。京撮内には岡田や俊藤に反撥する者も多かった。

俊藤は「錦之助が『日本侠客伝』に主演していれば、彼の映画スターとしての道は

全く違っていたんじゃないかと思えて残念なんです」などと述べている。

「日本侠客伝シリーズ」は「博徒シリーズ 」と共に二大シリーズとして、出発したばかりに

任侠路線を支えることになった。また高倉の台頭により看板スターは時代劇黄金期から

一新され、鶴田浩二・高倉健を頂点に、その脇役から藤純子若山富三郎菅原文太 らが

次々と一本立ちし、再び磐石のスター・ローテーションが形成されることになった。

この作品から S40年4月に 「網走番外地」 10月に 「昭和残侠伝」と 次々にヒットを

飛ばし 70年 安保闘争が収束するまで 役5年 東映というより 日本映画の屋台骨を

したがえた。この東映任侠映画を 「パロデー」化したのが 松竹の「寅さんシリーズ」本家

の 任侠映画は S47年ぐらいで終焉したが 「寅さんシリーズ」は 好調に続いた そう

すると 今度は 「寅さん」を マネして 東映が「トラック野郎」を 作るという ようなことを

やってる間に 日本映画は衰退してしまった。

しかし 高倉の 原点ともいうべき 「日本侠客伝」は 秀逸な一作であることは間違いない。