「昭和プロレス」S42 3月 馬場 VS B・サンマルチノ | HONDAのブログ

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G・馬場の インター防衛戦の 録画で一番古い
S41年 11月の 対 F/V・エリックを先に書きましたが。
2番目に古い S42年 3月の
G・馬場 対 B・サンマルチノ の 録画を観戦しました。
当時(S42年)の UASプロレスは 全盛を過ぎていたとは
いえ まだまだ隆盛であり 全米をネットワークする
NWAのチャンピオンが G・キニスキー
ミネソタ・シカゴ地区の AWAチャンピオンが V・ガニア
日本となじみの深い ロサンゼルス地区WWAチャンピオンが B・ブラジル
そして NY地区の プアーイタリアン代表の WWWFチャンピオンが
この イタリアの「人間発電所」 怪力が売りの ブルーノ・サンマルチノでした。
このころの 馬場は 全盛期 年齢も 29歳 (馬場は 30超えると極端に
体力が落ちたように 今では思う) サンマルチノも 同じ歳の 29歳
当時の 米国のプロレス雑誌の ワールドランキングでは NYが本拠で
あっただけに 常に 1位(2位が G・キニスキー)であった。
当時 の 小僧であった自分は 先の年末に あの 鉄の爪 エリックを
観てるだけに、 世界NO1の 怪力王者 サンマルチノというのは
興味深々であった。
当時の記憶としては エリックほどの インパクトはなかった覚えがある。
世界NO1の 怪力チャンプというわりには さほど 強さを感じなかった
記憶であった。今回 ビデオで60分引き分けの試合を 見直してみると
当時 サンマルチノは腰をいためていたこともあり 得意の 担ぎ技
(カナデアン・バックブリーカー等)は 見せず かつ 馬場とは NY時代
いっしょの車で遠征したりして 友達感覚があったのであろう。
お互いに きれいな「プロレス」を やってるな・・という感じ。
S41年に 旗揚げした「豊登・猪木」の 東京プロレスも このS42年
2月には 完全崩壊となり 猪木の去就が注目されてはいたが まだ日本プロレス
復帰前であり G・馬場としては 「一番安心して 一番安心できる相手 と
通常のプロレスで インター選手権防衛」という 馬場のレスラー人生でも
最も 安定した時期ではなかったかと思われる。
試合としては エリックのときのような(何をされるか?)みたいな 恐怖の
表情は 馬場にはなく サンマルチノも ぜがひでも インター選手権奪取
みたいな ところもないまま 当時としてはそれなりの 試合ではなかったかと
推察される。
やはり 馬場自身も S42年8月 の 「対 G・キニスキー」が自分の
中での 最高の試合だったと 後年語っているように この S42年が
G馬場の最盛期ではないかと思われる。
S45年 の 大阪での 「対 D/F・JR」をリングサイドで観ていたが
馬場の 息が上がっているのが 素人の自分にもわかった。
S45年 馬場32歳 ここらが メーンエベンターとしての 限界だった
ようなきが 今ではします。
関根つとむの「プアホー」の ものまねみたいな 馬場しか知らない世代は
一度 この S42年「馬場 VS サンマルチノ」は一度観てほしい
ものです。