4月20~22日阿信インスタの文章訳です。
自分のメモ用(笑)
▍BLUE・序章/1997
忘れ難き1997年、
3月、五月天(Mayday)はようやく初めての本格的なステージを踏むこととなった。
そこから僕らは、
水曜には練習、金曜日には店で演奏、
それに加えて週に2、3日はうろんな日々を過ごした、
それが僕らの青の時代だった。
練習も、大部分の時間は中身のないものだったし、
本番も、ステージの下には2、3人の客しか居なかった。(本当のメインは演奏が終わってからいつも飲んで騒ぐことだったんだ)
当時まだ大学生だった僕は、
学校に行って、課題をやって、曲を書いて、練習して、演奏して。
で、ときどき仲間とちょっと非現実的な夢を語ってた。
それが生活の全てだった。
未来がどうなるのかなんて誰も分からなかったけど、
気にするわけがなかった。
運命はいつだって想像を超えるんだから。
幸運な僕らは、
蕭福德さんと四十三先生の紹介で
当時の角頭レコードでシングル曲の試作品を録って、
店付きのバンドから、
やがてスタジオを持てるようなバンドへと力をつけていった。
自分で作った曲が、
一曲、また一曲とカヴァー曲に取って代わっていった。
軋車、I Love You 無望、志明與春嬌、擁抱、愛情萬歲、明白、これが僕らの最初の曲たちだ。
お客さんが軋車のリズムに乗って
酒瓶を叩く大きな音がやがてスピーカーを凌ぎ、
声を合わせI Love You 無望を歌う声が
バーの階段から入り口へと駆け上る頃、
金曜日のステージは、
少しずつ、少しずつ、空席の無い日が増えていった。
この数人のバカ者達に、
運命の神様は
新たなアイデアと采配を用意していたんだ……。
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▍BLUE・序章/ 1998 リッチー兄貴篇
もしも君の家に、突然ゴロツキが五人も出現して、
トイレを使い、クーラーにあたり、
冷蔵庫の飲み物を飲んでたら、
気が狂いそうにならないかい?
でもロックレコード(レコード会社)は気が狂ったりしなかった。
その上この家の中には兄貴みたいな人まで現れて、
ゴロツキ共を遊びに連れて行ってくれて、小遣いまで与えてくれた。
1998年の夏、任賢齊(リッチー・レン)兄貴は
「愛像太平洋」というアルバムを出したばかりだった。
彼はこのゴロツキみたいな無名の子分に目を付け
彼の学園ツアーバンドに仕立て上げた。
新竹 花蓮 台中 高雄 台南 台北 彰化⋯
それは青の時代の中でも狂乱と輝きの一幕だ。
仕事の前後、齊兄貴は必ず言った。
「このあたりに特別に美味い……の店を知ってるんだ」
そして僕らが勘弁してくれと止めない限り、
彼は諦めなかった。
ステージの下では彼は僕らと同じ車で移動し、同じテーブルを囲んでご飯を食べ、
ステージ上では、会場の学生達みんなに一回一回僕らを紹介してくれて、
いつも多くの時間を与えて、僕らに自分達の歌を歌わせてくれた。
アルバムの宣伝活動が終わらないうちに、
愛像太平洋は既に売り上げ100万枚を超えていた。
レコード会社は、この時代のエポックメイキングとなる記録を記念して
TICC(台北国際会議センター)でお祝いのコンサートを開催した
その名は「齊蹟(キセキ)」。
※齊と奇跡の奇は同じ発音
僕らは齊兄貴と一緒にその中の一時期の演出を作り、
人生の谷底から再び栄光へと歩き出した。
僕らはステージの上で彼の逆光の後ろ姿を眺めながら、
自分の本当の兄の事のように感動していた。
僕らと彼の物語は、ここで一旦途切れる。
それはそれぞれの仕事が忙しくなったから、なんて理由では全く無かったけど。
2003年
彼は再び現れ、再結集したばかりの僕らを連れ、僕らが未だ知らなかった遥か彼方の都市へと向かった。
西安 武漢 廣州 上海 北京 大連 ⋯⋯。
2011年
彼は僕らの為に、初3D映画の主役で友情出演してくれた。
2019年がきて
今晩、齊兄貴は洛陽で最初の「齊跡」を完成させ、色褪せることのない音楽の足跡を刻んでいる。
並ぶ者のない記録を持つ人だ。
数日前に電話がきた。
齊兄貴はまた言った「おまえら5月に香港行くだろ、俺、特別に美味い……の店知ってるぞ」(XD)
まるで時間など経っていないみたいだ、
慌ただしさと笑いの交錯する藍色三部曲序章には、
いつも僕ら5人を見守ってくれる兄貴がいた……。
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▍BLUE・序章/ 1999 fishと李師匠篇
さらに1年の修練を経て、
僕らはロックレコードの李宗盛(ジョナサン・リー)さんの旗下に戻った。
企画と李さんとの話し合いの後に、
レコード会社は僕らの出した曲目とコンセプトにOKを出した。
祝いの花火を打ち上げる暇もなく、
僕らはすぐに辛い録音地獄へと突入した。
半年間、放課後になればすぐに録音スタジオに駆けつけ、
空が白む頃、床に寝っ転がって仮眠をとるか、
或いはまた学校に戻って朝の授業に出た。
当時、僕らと同じ部門にいたのは、
みんなも知ってるラブソングの歌姫、梁靜茹(フィッシュ・リョン)だ。
時折彼女の歌入れの声が聴こえた。
僕らは地獄から這い出てきた不潔漢みたいに、
眩い光の中天使の歌声を聴いた。
気持ちよく。
当時の未熟な録音技術と、
たった8トラックしかない録音機材、
一小節ごと、一曲ごと、
レコーディングの行程は険しい砂利道を
匍匐前進するようなものだった。
李さんは歌手の道に踏み出したばかりの靜茹を
綿密に、厳格に形作っていた。
でも僕ら5人のヤローどもの事は
逆に放任に暴れさせてくれていた。
思いがけないことに、
当時完全に作曲の「アマチュアチーム」だった僕は、
靜茹の曲を書く機会を得た。
当時は誰も想像しなかっただろう。
靜茹と五月天が、その後の長い歳月の間に、
なんと「彩虹」「聽不到」「燕尾蝶」「寧夏」「純真」「親親」「絲路」「可樂戒指」等等の曲で、コラボする事になるなんて。
そして李さんも、師匠としてまた友人として20年、
相変わらず90%は僕らを暴れさせてくれて、
10%は心から励ましてくれる。
彼は僕らが生涯、最高に尊敬する人の一人だ。
蝉の声が逃れ切れないほど大きくなり
レコーディングの防音が上手くいかない時期、
夏がやってきた。
1999年の初夏、
僕らのアルバムはようやく完成した。
僕らは附中のプールのロッカーで
人生初のアルバムのジャケット写真を撮影した。
写真の中のちょっと身の置き場のない表情、
その眼差しは、これが音楽の旅の終点だと思い込んでる。
「このアルバムを出したら、心から満足して勉強と仕事に励む人生に戻るんだ!」
僕らは誰も知らなかった、
あれこそが全ての始まりだったってことを……。
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久しぶりに真面目に訳してみたら、すっかり退化してました‥‥‥。基本さらい直そう(笑)