手上のコイン Blog

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4月20~22日阿信インスタの文章訳です。
自分のメモ用(笑)






▍BLUE・序章/1997

忘れ難き1997年、
3月、五月天(Mayday)はようやく初めての本格的なステージを踏むこととなった。

そこから僕らは、
水曜には練習、金曜日には店で演奏、
それに加えて週に2、3日はうろんな日々を過ごした、
それが僕らの青の時代だった。

練習も、大部分の時間は中身のないものだったし、
本番も、ステージの下には2、3人の客しか居なかった。(本当のメインは演奏が終わってからいつも飲んで騒ぐことだったんだ)

当時まだ大学生だった僕は、
学校に行って、課題をやって、曲を書いて、練習して、演奏して。
で、ときどき仲間とちょっと非現実的な夢を語ってた。
それが生活の全てだった。

未来がどうなるのかなんて誰も分からなかったけど、
気にするわけがなかった。
運命はいつだって想像を超えるんだから。

幸運な僕らは、
蕭福德さんと四十三先生の紹介で
当時の角頭レコードでシングル曲の試作品を録って、
店付きのバンドから、
やがてスタジオを持てるようなバンドへと力をつけていった。

自分で作った曲が、
一曲、また一曲とカヴァー曲に取って代わっていった。

軋車、I Love You 無望、志明與春嬌、擁抱、愛情萬歲、明白、これが僕らの最初の曲たちだ。

お客さんが軋車のリズムに乗って
酒瓶を叩く大きな音がやがてスピーカーを凌ぎ、
声を合わせI Love You 無望を歌う声が
バーの階段から入り口へと駆け上る頃、
金曜日のステージは、
少しずつ、少しずつ、空席の無い日が増えていった。

この数人のバカ者達に、 
運命の神様は
新たなアイデアと采配を用意していたんだ……。


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▍BLUE・序章/ 1998 リッチー兄貴篇

もしも君の家に、突然ゴロツキが五人も出現して、
トイレを使い、クーラーにあたり、
冷蔵庫の飲み物を飲んでたら、
気が狂いそうにならないかい?

でもロックレコード(レコード会社)は気が狂ったりしなかった。
その上この家の中には兄貴みたいな人まで現れて、
ゴロツキ共を遊びに連れて行ってくれて、小遣いまで与えてくれた。

1998年の夏、任賢齊(リッチー・レン)兄貴は
「愛像太平洋」というアルバムを出したばかりだった。
彼はこのゴロツキみたいな無名の子分に目を付け
彼の学園ツアーバンドに仕立て上げた。

新竹 花蓮 台中 高雄 台南 台北 彰化⋯
それは青の時代の中でも狂乱と輝きの一幕だ。

仕事の前後、齊兄貴は必ず言った。
「このあたりに特別に美味い……の店を知ってるんだ」
そして僕らが勘弁してくれと止めない限り、
彼は諦めなかった。

ステージの下では彼は僕らと同じ車で移動し、同じテーブルを囲んでご飯を食べ、
ステージ上では、会場の学生達みんなに一回一回僕らを紹介してくれて、
いつも多くの時間を与えて、僕らに自分達の歌を歌わせてくれた。

アルバムの宣伝活動が終わらないうちに、
愛像太平洋は既に売り上げ100万枚を超えていた。
レコード会社は、この時代のエポックメイキングとなる記録を記念して
TICC(台北国際会議センター)でお祝いのコンサートを開催した
その名は「齊蹟(キセキ)」。
※齊と奇跡の奇は同じ発音

僕らは齊兄貴と一緒にその中の一時期の演出を作り、
人生の谷底から再び栄光へと歩き出した。
僕らはステージの上で彼の逆光の後ろ姿を眺めながら、
自分の本当の兄の事のように感動していた。

僕らと彼の物語は、ここで一旦途切れる。
それはそれぞれの仕事が忙しくなったから、なんて理由では全く無かったけど。

2003年
彼は再び現れ、再結集したばかりの僕らを連れ、僕らが未だ知らなかった遥か彼方の都市へと向かった。
西安 武漢 廣州 上海 北京 大連 ⋯⋯。
2011年
彼は僕らの為に、初3D映画の主役で友情出演してくれた。

2019年がきて
今晩、齊兄貴は洛陽で最初の「齊跡」を完成させ、色褪せることのない音楽の足跡を刻んでいる。
並ぶ者のない記録を持つ人だ。

数日前に電話がきた。
齊兄貴はまた言った「おまえら5月に香港行くだろ、俺、特別に美味い……の店知ってるぞ」(XD)

まるで時間など経っていないみたいだ、
慌ただしさと笑いの交錯する藍色三部曲序章には、
いつも僕ら5人を見守ってくれる兄貴がいた……。


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▍BLUE・序章/ 1999 fishと李師匠篇

さらに1年の修練を経て、
僕らはロックレコードの李宗盛(ジョナサン・リー)さんの旗下に戻った。

企画と李さんとの話し合いの後に、
レコード会社は僕らの出した曲目とコンセプトにOKを出した。
祝いの花火を打ち上げる暇もなく、
僕らはすぐに辛い録音地獄へと突入した。

半年間、放課後になればすぐに録音スタジオに駆けつけ、
空が白む頃、床に寝っ転がって仮眠をとるか、
或いはまた学校に戻って朝の授業に出た。

当時、僕らと同じ部門にいたのは、
みんなも知ってるラブソングの歌姫、梁靜茹(フィッシュ・リョン)だ。

時折彼女の歌入れの声が聴こえた。
僕らは地獄から這い出てきた不潔漢みたいに、
眩い光の中天使の歌声を聴いた。

気持ちよく。

当時の未熟な録音技術と、
たった8トラックしかない録音機材、
一小節ごと、一曲ごと、
レコーディングの行程は険しい砂利道を
匍匐前進するようなものだった。

李さんは歌手の道に踏み出したばかりの靜茹を
綿密に、厳格に形作っていた。
でも僕ら5人のヤローどもの事は
逆に放任に暴れさせてくれていた。

思いがけないことに、
当時完全に作曲の「アマチュアチーム」だった僕は、
靜茹の曲を書く機会を得た。

当時は誰も想像しなかっただろう。
靜茹と五月天が、その後の長い歳月の間に、
なんと「彩虹」「聽不到」「燕尾蝶」「寧夏」「純真」「親親」「絲路」「可樂戒指」等等の曲で、コラボする事になるなんて。

そして李さんも、師匠としてまた友人として20年、
相変わらず90%は僕らを暴れさせてくれて、
10%は心から励ましてくれる。

彼は僕らが生涯、最高に尊敬する人の一人だ。

蝉の声が逃れ切れないほど大きくなり
レコーディングの防音が上手くいかない時期、
夏がやってきた。

1999年の初夏、
僕らのアルバムはようやく完成した。

僕らは附中のプールのロッカーで
人生初のアルバムのジャケット写真を撮影した。

写真の中のちょっと身の置き場のない表情、
その眼差しは、これが音楽の旅の終点だと思い込んでる。
「このアルバムを出したら、心から満足して勉強と仕事に励む人生に戻るんだ!」

僕らは誰も知らなかった、
あれこそが全ての始まりだったってことを……。


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久しぶりに真面目に訳してみたら、すっかり退化してました‥‥‥。基本さらい直そう(笑)

  




MVのメッセージを翻訳しました。


怪獸‥
戰士卸下盔甲 吉他手放下吉他
肩頭上因為摩擦而留下的痕跡
麻麻的指尖 留在心中的悸動
是怎麼也忘不掉的

戦士は甲冑を脱ぎ ギタリストはギターを下ろした
肩先に擦れて出来た跡
痺れた指先 おさまらない動悸
それは何があっても忘れることはない


阿信‥
這是一生中最奔波的一趟長征
這是一生中最任性的一次旅行

これは一生のうちで最も奔走した長い旅
これは一生のうちで最も我儘な旅


瑪莎‥
因為你們 所以我們才能這樣
恣意妄為地在這個公司裡
做我們自己
那個你們最熟悉的自己

君たちがいたから僕らは出来たんだ
この会社でやりたい放題に
自分達らしくいられた
あの、君たちがよく知る僕らで


冠佑‥
六百多個日子的人生無限公司巡演
曾經唱過、笑過、哭過的同事們

600日を超える人生無限会社ツアー
歌って、笑って、泣いた同僚達


石頭‥
吉他的背帶離開了撥弄琴弦的肩頭
放下
放下了記不住任何一個房間號碼的糊塗
放下了在海峽和大洋上飛翔的證據

ギターのストラップは弦を弾いていた肩先から離れ
手放すんだ
ボンヤリとして覚えられないホテルのルームナンバーたちを
海峡と大海原の上を飛んだ証を


阿信‥
這是我們人生中最精華的一段
最飛揚的青春 最難忘的歌曲
最好的你

これは僕らの人生の中で最も輝いた時間
最もはしゃいだ青春 最も忘れがたい歌
最高の君


怪獸‥
希望你們我在這旅程裡獲得的
是可以陪著你很久的
關於人生的魔法‥

「愛、勇氣、希望」

願わくば君たちも僕もこの旅で得られたものと共に永くありますように
人生の魔法…

「愛と、勇気と、希望」と


瑪莎‥
公司解散 真的打卡下班了
謝謝大家

会社は解散して 本当にタイムカードを打刻して退社するんだ
ありがとうみんな


石頭‥
以為都放下卻放不下
放不下無數的熱情在空中揮舞著
放不下你的笑容和傷感
放不下那些無法複製重來的喜悅

ぜんぶ手放したと思ったけどそうじゃない
空中で振られてる無数の情熱も
君の笑顔と悲しみも
再び再現する事のできないあの幾つもの喜びも手放せない


瑪莎‥
糟糕的是 我們一起失業了
還好的是 是跟你們一起

悪い事は 僕らは一緒に失業するってこと
幸いな事は 君たちも一緒だってこと


阿信‥
燈亮起時 你就在光暈裡
幕落下時 你還在我心裡
謝謝你 讓我出現在你的自傳裡

ライトが点いて 君は光の中にいた
幕が降りて 君はまだ僕の心の中に
ありがとう 僕を君の物語に登場させてくれて


冠佑‥
你和你的人生正要無限展開
下次見

君と君の人生は無限に拡がっていく
また会おう


石頭‥
所以我會和你一起等待
等待下次的一期一會

だから僕も君と一緒に待ってる
次の一期一会を


怪獸‥
而在那魔法消失前 我們會再見面的
我們會再次出現在光束的盡頭
尋覓你
我們會再見的。

その魔法が消える前に 僕らはまた会えるよ
僕らはスポットライトの下にもどってくる
君を探しに
僕らはまた会える


阿信‥
我會想你們的
我會很想你們的
我們都會很想很想你的

僕は君たちに会いたいんだ
僕はとても君たちに会いたい
僕らはみんなとてもとても君に会いたいんだ





五月天の石頭がFBのノートに書いている日記を、ちょこちょこ翻訳しております。おかしいところがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

原文へのリンクはこちら↓


ビー玉

 僕のポケットの中には一袋のビー玉がある。これは過去の記憶を集めたもので、大きさも色もまちまちだ。
 口の中に放り込んで味わうと、味も様々で、一つとして同じものはない。みな酸っぱかったり甘かったり、まるでイチゴを煮詰めたジャムみたいだ。
 太陽に透かしてみるとほんのりと赤く染まって、まるで、それぞれの瞬間が残されたその理由を、恥じらいながら告げているみたいだ。
 唯一それを味わうことができる僕でも、何度も口中で転がしてみてようやく、大体の様子をぼんやりと判別できる。
 時に、前に遭遇した味を再び求めてみるけれど、ベッドの下に転がってしまったビー玉みたいに、どんなに探しても見つからない。

 ビー玉は袋の中でぶつかり合っていて、澄んだ音はとても心地よい。記憶はぶつかって、もう片方と繋がる。ただ残念なことに、自分でも、その繋がった一綴りのビー玉によってしか、その過去が他人の物語を暗唱し記憶したものではなく、存在したのだと確信することが出来ない。

 思い出というのは本来個人的で、あまり人には語れないものだ。言葉にされたそれには、恐らく油が加えられたり、酸味が足されているか、あるいは断片的な文章の切れ端のように空白の部分が残っていて、聴いた者が補足しなければならない。
 いくらかは語れるものもあるだろうが、秘密中の秘密もある。それは性に関する記憶だ。光がビー玉に当たり、ほんのりと紅く染まる瞬間だ。

 神様は、代々伝え繁栄させるために雌雄を分けられた。だから人類は男と女になり、性別を持ち、情愛を交わす。道家はこれを陰陽と呼び、二つで一つのものとした。人はそれでもこの両者を足したり引いたりすることに固執した。
 西洋画に書かれたエデンの園は、人の衝動と欲望を木の葉で遮る。もし老子がこの木の葉を持ち上げてみたら、彼は宇宙の真理を覗くことが出来るんじゃないだろうか?

 どうにも判然としないのは、こういったプライベートなビー玉が、いつから作り始められていたのか、ということだ。
 それは幼稚園の女性保育士のせいか、道端でカップルの唇がぶつかりあったのを目にした時か、ホラー映画の一糸纏わぬシャワーシーンか、教室の前の席の腰まで届くお下げ髪のせいか、保健体育の十四章か、下着の中にしてしまった粗相をあわてて洗い流した時か、それとも袖斗の奥深くの名前のないビデオテープのせいだろうか?

  僕は手のひらの中でこのビー玉を広げてみて、このような俯瞰の視点でこれから向き合わなくてはならない問題の解決方法を見つけられないものかと考えた。でも僕が見つけたのは孤独な少年の戸惑いと未知への恐怖だった。
 僕の見た問題点は信頼、そして寄り添うことだ。成長過程の少年にとって、自分を喜んで受け入れ、腹を割って話せるような父親の存在が、たぶんそれにいちばんふさわしいのだろう。少年時代の僕にはそういう対象がいなかった。だから僕は今でも学び続けている。
 いつも歩き方を学び始めた幼子のように転んでしまう僕を助け起こしてくれるのは、十数年前に一緒に人生を歩んでくれると応えてくれた女性だ。

礼記(儒教書)はいう、飲食男女は、人の大欲の存する所である(食欲と性欲は人の基本的な欲望である)と。現代のこの爆発的な情報量の社会の中で、このような欲望は確かにまだあらゆる場所に氾濫している。父親として出来ることは、これらを万里の長城で遮ることではなく、彼らの体験全てに寄り添い、過去のビー玉を誠実に彼らに見せてやることであって、彼らに自分探しをさせ、孤独な記憶を植え付けることではないし、この話題を避けるのは、むやみに少年の好奇心を煽るだけだ。
 道徳経の五千字の中に性の文字からの啓発がないからといって、それについて語っていないという事じゃないだろう。なぜって、これはそもそも自然発生的な事だからだ。うるさく道徳がと言わなくってもいいだろう?

(佛山)




珍しく個人的な話を自分用の記録も兼ねて。

先日、ようやく祖母の四十九日が終わりました。

実は五月天の武道館の前は、ずっと危ないところを行ったりきたりの感じで、正直、武道館にはまぁ、行けないだろうなぁ…と、
手元の友達の分のチケットをホテルに発送する準備とかしておりました。
でも結局葬儀もろもろ決まってみると、何とかなる日程だったので、これもまあ縁のうちと思って武道館に足を運ぶことにしました。
友達にも久々に会えましたし、良かった。

もう百を過ぎていたのもあって、寂しさはあるものの、手伝いとはいえ忙しさもあいまって泣くようなことは無かったのに、
会場で轉眼を聴いた瞬間に色々思い出してそこだけボロボロ泣いてました。
この曲、これから聴くたびに記憶の鍵になるんだろうな…。
五月天には、なぜかそんな曲が多いです。

そういえば昔は(いや今もそうだけどそれ以上に)本が捨てられなくて困りました。
自分の脳みその中にある知識も言葉も、一部がその中にしまってあって、捨ててしまうと自分の一部を失ってしまうみたいな気がしていたんです。
としたら、彼らのCDも同じような理由で絶対に捨てられないものになりそうです。自分の思い出の箱の鍵がたくさん挟まっているからな…。


五月天の石頭がFBのノートに書いている日記を、ちょこちょこ翻訳しております。おかしいところがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

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異邦人

 石家荘への直通便は週に数本しかない。そのせいでかえって、一日静かな旅の休日を得ることができたし、街のことをよく知ることもできた。
ただ、この街の名前のほうが彼女の物語よりも覚えやすいみたいだ。
資料として数値化できることなど、苛烈な太陽に照らされた地表の、熱波の薄く広がった層が、あるんだかないんだかわからないのと同じことだ。
何年か前の自分の記憶も蝉の羽根のように薄っぺらいものでしかなく、面識の薄い昔の友達と出くわして、ちょっとそわそわしてしまうような面目無さを覚え始めていた。

 まず、街の地理を知ろうと思う時はいつも、手にした地図の上を鳶のように旋回してみる。
目にした河は幾千万の人を育んだだろう、山は幾千の家を護ってきただろう、それから城を見つけるのだ。
たとえ農民を護ってきたであろう城壁が崩れ落ちていようとも、現代の街道の中にもまだ歴史の輝きは見てとれる。
それは力をこめて紙に記した文字が、その下の紙にも写って、深く窪んだ跡が触ってわかるみたいに。
でも石家荘の上空から見えたのはチェス盤の都市計画と何本かの命脈のような鉄道、水紋でさえ全部人間が方眼紙に書いて、それを深く彫り込んだような用水路だけだ。
まさかこの街の崩壊した城壁は落ち葉のように何千年も前にとっくに土に沈んでしまったというのだろうか?

 この街に着いてようやく現地に住む人から聞き知ったのだけれど、なるほど、この街の発展は七十年にも満たないのだそうだ。鉄道は実際当時の生命線で、この宿場の拡大が想像を超えた繁栄となったのは省都の幸運だった。
当時の気骨や意気込みが本来の河北省の省都のものだったかどうかは、保定(河北の旧省都)の古老にその頃の内情と彼らの苦悩を聞いてみないとわからないのかもしれない。

 もしかしたら、大部分の人はみな石家荘では異邦人なのかもしれない。この街からはいつも謙虚さや親切さを感じ取れる。
領地もなく、覇者もおらず、ただ良い暮らしを求め、ここに住み着いた人たちがいた。その暮らし良さだけが、その土地の人々の未来となった。
旅行客である僕が持ってゆくことが出来るのは過去だけだ。

 けれどこの街の過去は滹沱河の対岸にある正定県から借りてこなければならない。春秋戦国時代の存在は、このような街を実証するためには必ず無くてはならないものだ。
現代化の経済規模の養分を失った正定は、かえって遺跡の再建をすることで穏やかさを手に入れることができた。彼女の傍らを未来が行き過ぎようとしているのを、静かに見つめていられるのだ。
当時の冷兵器は、すでに彼女の上に無数の傷跡を残しているのだろう、だから彼女は二度と戦いも争いも望まない。

正定から石家荘へ取って返すと、街は平面からまた立体へと変わる。正定県の良いところは高いビルが無いところで、石家荘の優れている部分は遺跡がないところだ。お互い、自分の生活に無理をしていない。片方は過去に、片方は未来にある。
でも遙かな未来には、石家荘はどんな過去を手に入れることが出来ているんだろう?


(石家荘)

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たった今家族とのビデオチャットが終わった。三人の声と映像はデジタル化され、光速で南洋にある都市のホテルの部屋で再現される。話は日常生活の身のまわりへの関心の域を出ることはない、それと子供たちの宿題の念を押すこと。他人が飯の種に出来るような話題には、ほとんどならない。まして文字に書きとめるほどもでもない。
けれど、こういう時間だけが、遠くへ出かけている父親が少しだけ彼らに近づくことのできる瞬間だ。指を弾くほどに短く、終わりは花の終わりのように侘びしい。

携帯電話の画面に目の前の幸せが出現することなど、過去には想像も出来なかった未来だ。
僕の記憶では、はじめにパソコンが出てきた頃は、全ての機器がみんな大型のオーブンみたいだった。画面は黒地に白文字だけ、それにずっと点滅し続ける一個のアンダーライン。立ち上げる時は手の平大の磁気シートを入れる必要があった。磨耗してしまうので、そう何度も使用出来ず、何度か再起動をしてようやく正常に動く。その頃はネットという言葉も発明されていなかった。お互い会いたくても、アナログに頼るしかない。
その頃、遠くへ出かける父親や母親達がどれほど辛かったことか、本当に想像が難しい。
現代のテクノロジーのこういった進歩があるおかげで、彼らは僕の目の前に現れることができる。でもそれだって結局はすぐに消えてしまう存在だ。お互いの側に同時に存在することは出来ない。もしかしたら未来ではそれが本当に叶うかもしれないが、長く留まる事は出来ないだろう、彼や彼女が遠く離れているその原因が、また再び彼らを連れて行ってしまうから。

そういう不自由こそが、一緒にいられる時間を更に大切なものにするのだ。たとえ何も起こらず、日常の日々が淡々と過ぎゆくとしても、その全てに魅了される。もし何かに喩えなければならないとすれば、それは恋人と一緒に過ごすこと、のようなものかもしれない。ただ、いくらか責任と心配が加わるけどね。

でも寄り添える時間は大海の中に溶けた角砂糖みたいなものだ。家族三人のうち同年代の母親だけはその中の甘さを感じることが出来るけれど、父親役がいつも不在であることに対する子供たちの反応を、僕は心配し始めていた。テクノロジーに出来る事は、結局のところ万能じゃない。人類とそして僕に本当に必要なのは、時間だ。

僕の心配は子供たちの行動からきている。何ヶ月もの間、食卓で彼らが談笑する主な相手はテーブルの端の母親であって、僕は象徴のような存在になっている。朝食の後の、行ってきますの呼びかけも女性のそれにだけだ。その事実に気づいた時、ぎゅっと胸が締め付けられずにはいられなかった。その全ては何かの代償なのだ、と自分を納得させることなど出来なかったからだ。何でもうまくやりたいと思う自分の性格は、今は苦痛の原因になってしまった。

おととい、息子が美術の宿題を描いた。タイトルは「わたしの家」四つ切りの画用紙を半分に折り、そのあと再び先生の指示に従い折りあげた形は、まるで仕掛け絵本みたいにドアを開けることができて、屋根がある。彼は部屋の周りにいくつかの木を植え、芝生にも花が咲いていた。ドアを開くとそこはダイニングだ。屋根から下がる明かりには虫が引き寄せられている。食卓の椅子の上の比較的小さいのが彼で、お兄ちゃんは彼の左側、お母さんは向かい側だ。

そうか、彼の家には三人しかいないのか。

「お父さんは?」と尋ねると、彼は「出張に行ってる」と答えた。おそらく彼は慰めというものを既に心得ているのだろう。
よくよくテーブルの上のおかずを見ると、笑った顔がある。なるほど、長いことビデオチャットだけで食卓に寄り添ってきたので、彼の絵の中でもその通りなのだ。

話はここで終わりだ。彼らがごはんを食べる時間がきた。このあと出来る事は、僕の愛する三人と、彼の絵にあるように寄り添うことだけだ。








仨は三個の意味です。そういう微妙な違いは出しようが無かったのでそのまんま三にしてしまいましたが。

…しかし切ない。(´・ω・`)

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5月27日更新 机


一卓の木製机は、台北の幾つかの家を経ていた。
最初はおじさんの店の仕事机で、使い方は様々だった。
ある男性は机に手をついて、恋人に贈るプレゼントが机の上で包装されるのを見ていた。それは二人の一夜のロマンスへと変わった。
ある女は一口すすったコーヒーを置き、その上に円い痕を残した。そして連れの友人と、オフィスの外で腹のさぐり合いを続けていた。
ある母親が我が子の反抗に落とした涙は、その表面で乾いていったし、
脳卒中にかかった父親の(であろう)ステッキは机の脇に立て掛けられていた。彼の話し声はまるでこの机の袖斗を開け閉めする時に起きる、乾いてざらついた歪んだ音のようだった。
そしてその後、ようやくこの机は僕の家へとやってきた。その上には何冊かの本が乗り、時折いくつかの文字を書いたりする。あたかも机は生まれながらにそうであったかのようだった。

しかしこれは、そもそも書き物机ではない。低めの高さは日常の合間に軽く寄りかかったり、短時間の使用に適している。誰も気にしていないが、実はふつうの書き物机と比べると半分の時間で立ち上がらなくてはならない高さで、往々にして僕はその高さに苦しめられ腰を痛くしていた。
何日か前、それは元の場所から移された。木工の得意な友人が親切にも接ぎ木の改造を申し出てくれたのだ。机が生まれ変わる日はもうすぐで、ただ僕は、それをまたもとの場所に収めてやるべきかどうかを考えている。

机が運び出されたその日、家の中にも僕の心の中にも、いくらかの余裕ができたみたいだった。
ずいぶん気が楽になったというか、ずっと無理をしていたことがようやく改善されたというか。
少しすれば再び不安定な精神的苦痛に苦しむ必要は、もうなくなるということだ。
なるほど、自分が求めていた現実の世界というのは、いわゆる「待庵」のような空間なんだな、と気がついた。そして、断捨離した後の自由な気持ちというのが、こんなに気ままなものなんだということにも気づかされた。

自分の机がなくなって、必要なときは子供の勉強机を使うことにした。いままで彼らが使う時間と被ったことはないし、放課後は、仕事は置いて彼らに寄り添うべきだ。そう気づく前の準備はどれも無駄だった。
家の中にはまだたくさんの「直した方がいい」だろう事が発掘されずに存在している。二畳の畳の境地にはやすやすと到達はできない。
できるのは何か欲しくなった時、それが本当に必要なのかどうか、よくよく判断することだけだ。
そしてあの机だって、何も無理をして使わなくたって、修繕して違う形にすればいい。それ以前に使われていたその記憶は、流れゆく時間の中に残せばいいのだ。






※待庵というのは、千利休が作ったと言われる、二畳の茶室のことです。
…最初なんのこっちゃと思ってしまったダメ日本人(自白)←
そして畳って榻榻米って書くのね。ほー。


石ぱぱ、前も自分の机は低すぎて腰痛くなるから、子供の机借りてるって書いてましたね。




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月光の下の波しぶき

ずっと一晩中寝返りを打っていた。
何か心配事があったわけではない、うっかり食べ物にあたったか、もしくは何か胃腸のウィルスに感染したのか、一晩中具合が悪く、吐いては下す。内蔵全部を空っぽにしようとしているみたいにそれは夜明けまで続いた。
締め切ったカーテンの隙間から、はからずも日の光が漏れ入ってくる。いつもなら僕はカーテンを開け、この朝の序奏を愉しむのだが、前夜の不快感は序奏を騒音へと変えていて、ただ枕に頭をうずめその全てを閉め出したかった。

ホテルの部屋に帰ってからは、ベッドとトイレを往復するだけだった。危険な時はこの二つが危うく役割を交換してしまいそうになり、恐くて眠ることもできない。ただ腹の中がのたうつ音を数え、これは月光の下の波しぶきで、BGMにドビュッシーのピアノの音が流れているのだと想像する。そうしてようやく、絶え間無い不快感を和らげることができた。

それは僕に、何年も前の、長男がサルモネラ菌に感染して二週間病院にいた時の記憶を呼び起こした。
十幾日の間、食べることもできずおむつもとれていなかった彼は、ただ大声で泣き叫び、ベビーベッドの中で怒って跳ねたり、ぐずったりして腹が減ったと主張した。泣くと彼の顔は涙と鼻水でいっぱいになり、自分はといえば彼に何をしてやることも出来ず、このとき初めて親になることの難しさを痛感したのだった。

この初めての経験から、僕らは口に入れるものに更に慎重になった。ただどんなに気をつけたところで不測の事態は起きるもので、それが今日僕の身に起きたのだ。
ずっと気がかりだったのは、奥さんが心配することと次の演出のことだ。僕が弱ってベッドに横になっている時、彼女の眼差しは長男が病院にいたあの時のように無力で助けてくれる者もなく、そして僕が出来ることといえば、コンサートまでには良くなるさと彼女に気休めを言うことだけだった。
一日の絶食が効果を発揮し、初日の演出はうまくいった。だが夕食の打ち上げでつい食い意地を張ってしまった。自分はもう治ったものと思っていたのだが、結局それは一夜の月下美人のように一時的なものだった。

相馬さんの振る舞う料理はこのように純粋だと言ったのは誰だったか。
飾らず、手を加え過ぎず、自然な素材の味を味わうことができる。それは海であり、草原であり、森林の中の小川であり、農家が手塩にかけた春夏秋冬である。
だからつい余分に食べていた。そしてこの余分が、また一晩寝返りを打たせることになったのだ。

昨夜の晩ご飯の後はまだなにも口にしていない、今夜のコンサートもうまくいった。ただ相馬さんのもてなしには確かに抗いがたい、せめて、もう今夜の料理はあんなに魅力的ではありませんように、あるいは自分の平常心がもうそんなに簡単に揺らいだりしませんように。






今回、直訳が逆に難し過ぎて意訳・とりあえずの訳が多いのでそういう感じと思って読んで下さいませ(^_^;)
定力とかそうそう訳せんわい。
定力=禪定する能力、禪定とは禪那と定を合わせた言葉で禪那は修業者が集中して特定の何かを意識から追い出すこと。
まぁ無念無想の境地を保つ力、ですかね。






五月天の石頭がFBのノートに書いている日記を、ちょこちょこ翻訳しております。おかしいところがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

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世界の果て

世界がまだ円くなかった頃、人類の遠方という概念は今日とは全く違っていた。
ひたすら真っ直ぐ一方向に進めば、最後にはまたスタート地点に戻ることが出来るが、その昔世界には果てがあった。
その果てに何があって何が起きているのか、実証できたものは誰もいない、それは神話や伝説、永遠に覚めることのない夢のようなものだった。

たぶん世界一周のイメージが強すぎたのだろう、それにコペルニクスの発見を知るのも早すぎた。成長する過程の中では、世界に果てがあるなんてことは、まるっきり考えたこともなかった。
大きくなってからはSF映画をたくさん観たので、青い惑星の絵面はすでに陳腐なものになっていた。地球は回り回って別の側面を見せる、どこに果てなんてものがあるというのだろう、それに科学者の共通認識であるビックバン理論は、人類から果てを追求する情熱を完全に消し去り、起源の追求へと変えたのだ。

昨日は早起きをした。計画したスケジュールのために、台北時間でいう朝の五時に起床する価値はあった。ただ早すぎたため、路上のカフェですらまだ営業を開始していない。「ABOUT LIFE」という名の小さな店だ。
親しんだ生活の常識など通用しなかった。行き交う通行人がこれほど多くても、まだ開かないのだ。それはつまり、自分に無理を強いるということが生活を失うってことだからじゃないだろうか?
渋谷の駅へと向かう道、スーツを着たサラリーマンは大部分が目指す方角からやって来ていた。まるで渋谷駅は巨大なダムで、毎朝こんな風に水門を開いて水を放出しているかのようだ。そして僕という身の程知らずの弱小の人類は、この人波を乗り越えて水門の扉を閉めてみようと思ったのだ。

もちろん、人波を阻止することなど出来るはずもなかったが、どうにか無事に券売機の前には辿り着いた。いっとき見上げてみたが、まだ行くべき場所は決められなかった。それは、視線が山手線のあたりばかりを探していたせいだ。いちばん遠くても視線は横浜までしか辿りつかない。
彼女が「ここだよ」と告げた時、僕はようやく地図の左端にたどり着き、その地名を見つけた。
胸の裡でつぶやく「これこそが世界の果てだ」。
世界に果てなどないことはわかっている。でも、その場所は本当に路線図の最も端っこにあって、そして僕の知る東京からは想像もしたことのない場所だった。
いちばん高い切符を買ってみると、心の中でその先の道程への迷いを覚えずにはいられなかった。
世界の果てへと向かう冒険家たちには、何かを持って帰ることができるという保証などなかったように。
あるいはそれも、その場所から誰も戻って来なかった原因なのかもしれない。

電車は5駅を過ぎ、僕らは吊革を握っていた両手を離した。釣りのベストを羽織ったおじさんの隣に座り、彼がじっと見つめている遠くを眺める。
車両はだんだんと空いてきた。互いの距離もだんだん離れていき、車両からは緑が見え始める。更に少し遠ざかるととうとう山が見えた。そしてどこまでも続く一本の水平線が現れた時、自分がどうしてここに来なければならなかったのかを、僕はようやく理解した。それに、この大海がどうして誰かにとっての「心のふるさと」であるのかも。

切符の回収口のない駅を出た。残されたそれはたぶん僕の人生でいちばん高い、日本の電車の切符だ。
ここが世界の果てなんだ。
僕はそう思った。
だが僕がそこで何を見つけたのか、それはまた、別のはなしだ。




石ぱぱの降りた駅、書かない方がロマンがあるのかなぁ………うーん(゚_゚)
(文章をヒントにするとわりと簡単にわかるので)


※コメント欄に駅名を追記しました。知りたい方はそちらを見てね。
五月天の石頭がFBのノートに書いている日記を、ちょこちょこ翻訳しております。おかしいところがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

原文へのリンクはこちら↓



祖母

もういつの頃からか忘れたが、目を遣ると殆どの時間、彼女は座っているかたくさんのクッションに囲まれて、リビングのソファの上に寝そべっていて、まるで児童公園のボールプールのように快適そうだ。
寒いとき、彼女の手には編むための毛糸があり、そこにマフラーやチョッキが垂れ下がっていて、みるみるうちに家の中が暖かくなっていったものだった。
絡み合った毛糸には何十年も前の編み棒が刺さっていて今もまだ使える。ただ彼女の手が再び以前のように俊敏に動くことはないだろうし、そのマフラーは、春の寒の戻りがきた時に使われるのをただ待っているのみだ。
 
家にいるとき、彼女は三回しかこの場所を離れない。まるで彼女の指令センターみたいだ。家の中の大小の事も、ぜんぶここが中心だ。重要な備品も彼女の周りにあって、ちょと手を伸ばせば届く。電話と、ずっと同じドラマを流しっぱなしのテレビ。

夕飯時、おかずがテーブルの上に並ぶと、歩行器をついている彼女は体より気持ちの方が先走る。
夕方にはテーブルの上の料理が足りないのではないかと気にかけて、成長期の曾孫の為にお手伝いさんにおかずの種類を増やしてもらう。箸の飛び交う間の談笑に彼女は全く参加することなく、半分のごはんの上には少しも新鮮なおかずはない、彼女の前にあるのはいつも前日の残り物だ。
毎回、塊の、柔らかく、そして煙の立ちのぼる焼いた新鮮な肉を挟んで差し出すと、彼女はいつも首を横に振って、目の前のその皿の、スープに浸った最後のネギを自分で掬ってみせる。

天気のよい朝は、彼女はいつも家にはいない。でも必ず付近の公園で見つけることができる。歩行器に頼りながら、家族に支えられて何周かした後、あずま屋の下に腰かけ、そのあたりの近隣を眺めている。
ある者は話をしながら鮮やかな色彩に塗られた運動器具を使い、またある者は話し相手がなく、それなのにそばにいるお手伝いさんは郷里の言葉でおしゃべりしながら笑っていたりする。そのひとつひとつの音のない無言劇は、彼女の目にはどんな風景に映っているのだろう?

この数日、彼女は家にいなかったが、その公園にもいなかった。彼女の年代がもっとも嫌う場所に入っていたのだ。
一日目、彼女が帰らせろと怒るので、それに従うしかなかった。まるでみんなで寄ってたかって、あの皿の残り物を彼女に差し出させていたみたいだった。
家に帰ってから一日置いた夜中の二時。
腹痛が更に激しくなり再び元へと逆戻りして、ようやく彼女はみんなが彼女にするどんな治療も拒まなくなった。
僕は中医学を研究している先生に、彼女の病状を尋ねた。
『気鬱が脾臓を傷つけ、胃を消耗させてます』と彼は言った。
『そうですね、詳しい病状について一緒に説明していきましょうね』
それ以降の内容はあまりに難しくて、完全に意味がわからなかった。でも、彼が続けて言った『神気は感情や意志、精血は物質で、全ての病はそこから発生します』という話はわかった。彼女の身体は忠実に彼女の人生の悩みや憂いを反映していたのだ。

この街は台北からこんなに近いというのに、今日は遙かに遠く感じられる。心ここにあらずで、窓の外の景色もまるで空虚だ。
彼女の不遇は思いがけず一ページ分のつぶやきとなった。ずっと彼女の目に映るあの終わることのないTVドラマが頭を巡る。
望むべくはただ、僕と愛する全ての者がもう心労を与えることなく、悩まずにいて欲しい。
そして世の中の、いつも心を煩わせているお母さん達が、どうか健康でありますように。

(泉州)



中医学用語なんか私だってわかりませんて……←

ってことで

詳しく意味を把握したい方は、『脾、胃、神気(神)、精血』など、ここで引けるので探してみて下さいませ。(丸投げ)
いや、一応一通り必要な用語には目は通しました。