5月27日更新分・机【石頭FBノート】 | 手上のコイン Blog

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五月天の石頭がFBのノートに書いている日記を、ちょこちょこ翻訳しております。おかしいところがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

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5月27日更新 机


一卓の木製机は、台北の幾つかの家を経ていた。
最初はおじさんの店の仕事机で、使い方は様々だった。
ある男性は机に手をついて、恋人に贈るプレゼントが机の上で包装されるのを見ていた。それは二人の一夜のロマンスへと変わった。
ある女は一口すすったコーヒーを置き、その上に円い痕を残した。そして連れの友人と、オフィスの外で腹のさぐり合いを続けていた。
ある母親が我が子の反抗に落とした涙は、その表面で乾いていったし、
脳卒中にかかった父親の(であろう)ステッキは机の脇に立て掛けられていた。彼の話し声はまるでこの机の袖斗を開け閉めする時に起きる、乾いてざらついた歪んだ音のようだった。
そしてその後、ようやくこの机は僕の家へとやってきた。その上には何冊かの本が乗り、時折いくつかの文字を書いたりする。あたかも机は生まれながらにそうであったかのようだった。

しかしこれは、そもそも書き物机ではない。低めの高さは日常の合間に軽く寄りかかったり、短時間の使用に適している。誰も気にしていないが、実はふつうの書き物机と比べると半分の時間で立ち上がらなくてはならない高さで、往々にして僕はその高さに苦しめられ腰を痛くしていた。
何日か前、それは元の場所から移された。木工の得意な友人が親切にも接ぎ木の改造を申し出てくれたのだ。机が生まれ変わる日はもうすぐで、ただ僕は、それをまたもとの場所に収めてやるべきかどうかを考えている。

机が運び出されたその日、家の中にも僕の心の中にも、いくらかの余裕ができたみたいだった。
ずいぶん気が楽になったというか、ずっと無理をしていたことがようやく改善されたというか。
少しすれば再び不安定な精神的苦痛に苦しむ必要は、もうなくなるということだ。
なるほど、自分が求めていた現実の世界というのは、いわゆる「待庵」のような空間なんだな、と気がついた。そして、断捨離した後の自由な気持ちというのが、こんなに気ままなものなんだということにも気づかされた。

自分の机がなくなって、必要なときは子供の勉強机を使うことにした。いままで彼らが使う時間と被ったことはないし、放課後は、仕事は置いて彼らに寄り添うべきだ。そう気づく前の準備はどれも無駄だった。
家の中にはまだたくさんの「直した方がいい」だろう事が発掘されずに存在している。二畳の畳の境地にはやすやすと到達はできない。
できるのは何か欲しくなった時、それが本当に必要なのかどうか、よくよく判断することだけだ。
そしてあの机だって、何も無理をして使わなくたって、修繕して違う形にすればいい。それ以前に使われていたその記憶は、流れゆく時間の中に残せばいいのだ。






※待庵というのは、千利休が作ったと言われる、二畳の茶室のことです。
…最初なんのこっちゃと思ってしまったダメ日本人(自白)←
そして畳って榻榻米って書くのね。ほー。


石ぱぱ、前も自分の机は低すぎて腰痛くなるから、子供の机借りてるって書いてましたね。