浄瑠璃坂の仇討ちウォーキング | 楽しい倫敦 おいしい倫敦 

浄瑠璃坂の仇討ちウォーキング

2022.9.4(木)

4月に書いた通り大江戸 歴史事件 現場の歩き方がなかなか面白く、赤穂浪士絡みの歴史散歩をしたのだが、

 

じゃあ次にどこへと言うと江戸の内であれば全く知らないエリアはほとんど無い、そして事件現場と言っても今や何も残っていないから暑さのせいもあってずっと間が空いた。八百屋お七が市中引き廻しになったコースなんかは小伝馬町の牢屋敷をスタートして田町まで南下して外濠の外を時計回りに一回りなんて超ロングランでも、ただビル街を歩くだけになる。で、唯一、市ヶ谷でも駅の北方だからちょっと場所が新鮮だったこの浄瑠璃坂の仇討ちウォーキングに台風の影響で時折雨がきつかった木曜に出向いた。

 

仇討ちと言えば赤穂浪士の他に富士の巻狩りの曽我兄弟伊賀上野、鍵屋の辻の荒木又右エ門までが三大仇討ちで、やや紛らわしい高田馬場の堀部安兵衛は仇討ちではなく果し合いの助っ人。でも赤穂浪士も厳密には仇討ちとはちょっと違うとその代わりに数えられることもあるのがこの浄瑠璃坂の仇討ちで、実は赤穂浪士も作戦的に大いに参考にしたと考えられている。(これらの仇討ちはどれも芝居や講談で人口に膾炙していたものなのに、赤穂浪士以外は忘れられつつある感。)

 

これは宇都宮藩、譜代の名族である奥平家の重臣である親戚同士の諍いで、抜刀した側が返り討ちに遭っての斬られ損、喧嘩両成敗とはならなかったことから息子の源八とその支援者多数が相手方をつけ狙った。藩内部の勢力争いもあって支援者が増え、一方これはまずいと宇都宮を逃げ出して各地を転々した仇にも支援があって大事に、最後は江戸にまで逃げ込んで砦のような隠れ家に籠ったのが外濠通りから一本道だった浄瑠璃坂を上った牛込鷹匠町、周囲は武家屋敷で西側は谷という場所、これもつき止められての討ち入りが1672年、赤穂浪士の30年前のことだった。

(この古地図は江戸末期のものだから、仇討ちがあった江戸初期はもっと辺鄙であった可能性大。)

外濠から1ブロック町家があってくいと曲がったここからが浄瑠璃坂、教会がある左手前方は水野大炊頭の広大な上屋敷(地図に家紋があるのは上屋敷)だったが、今は細かく分割された住宅地になっている。

緩い坂を上がって突き当りをちょいと左折してすぐ右折したここが隠れ家だった。どういう経緯か、ちょっと前までここにあった大日本印刷の寮が取り壊されて再開発が始まっている。

当時はこれで行き止まりだったようで、その裏手は谷になっていた。


討ち入ったのは42人、敵味方の区別のために装束を揃え、門などをぶち破るための斧や鋸、大槌を用意したってことで、確かに作戦はそっくり。但し、大きく異なるのが事後の扱いで、討ち入りの首謀者3人が大島に流された後に赦免され、彦根の井伊家に召し抱えられた他、多くの者の仕官が叶ったそうだ。赤穂浪士もそれを期待してた可能性はあるが、武張った時代から今や太平楽な元禄時代、そうはいかなかった。

なお討入り自体は成功で何人か倒したが、肝腎の仇は見つからず一同はすごすごと引き揚げる羽目に、そこにどこからか仇が新手の手下を引き連れて逆襲したから何十人もの武士が入り乱れて血みどろの大乱戦、最終的には天下の公道である牛込見附、今の市ヶ谷駅の辺りで仇が打ち取られたというからすごい話。

以上はあれこれ調べてまとめた二百数十Pの記録本を参考にした。

浄瑠璃坂の仇討ちも歌舞伎になったし、映画(嵐寛寿郎に大河内傳次郎)にも小説(あの中里介山も大菩薩峠の前に書いたらしい)にもなっているけれど、どうもヒットしていないのは台本がもう一つだったかな。仮名手本忠臣蔵は一同切腹の悲劇性に加えて話を盛りまくったのが成功の秘訣かと。

因みに浄瑠璃坂という風雅な坂名の由来については諸説あるも確かなことは分かっていない。