ホメーロス研究会だより 713 | ほめりだいのブログ

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2024年度春季号 その4

 

5月11日の「ホメーロス研究会」の様子です。今回は『イーリアス』第二歌72行目から98行目までです。

 

ゼウスからの偽りの夢を信じたアガメムノーンは、今こそトロイアを陥れることが出来ると思い総攻撃をしかけることに心を決めます。しかし一計を案じ、アカイアの軍勢を前に戦闘へ駆り立てるのではなく逆に帰還を提案しようとします。その心をアガメムノーンは長老達だけに事前につぎのように明かしています。

 

ἀλλ᾽ ἄγετ᾽ αἴ κέν πως θωρήξομεν υἷας Ἀχαιῶν:

πρῶτα δ᾽ ἐγὼν ἔπεσιν πειρήσομαι, ἣ θέμις ἐστί,

καὶ φεύγειν σὺν νηυσὶ πολυκλήϊσι κελεύσω:

ὑμεῖς δ᾽ ἄλλοθεν ἄλλος ἐρητύειν ἐπέεσσιν. (2-72~5)

さあ何とかしてアカイアの息子達を武装させよう

先ず私が言葉で試そう、それが決まりなのだ(から)

櫂多き船で逃げるよう命じよう

そなた達はてんでに言葉で引き留めてくれ 

 

至高の神ゼウスの嘘が総大将アガメムノーンの嘘に繋がっています。

73行目に「先ず私が言葉で試そう πειρήσομαι」とあります。これは自軍の兵士達の志気を試すという意味と思われますが、そのことにどれだけの必要性があるのでしょうか。総大将なのだから、そんな回りくどいことはせずに号令をかければいいのではないか、との疑問が湧きます。

この問題については松平千秋がその「イーリアス第二歌の構成」と題する論考の中で取り上げています。その箇所の大意は以下の通りです。

「アガメムノーンは兵士達に厭戦気分が漂っているのを感じている。何らかの術策(試し)を用いて志気を昂揚せしめねばならない。その術策として、先手を打って自ら皆の気分に同調するそぶりを見せ、長老達に諫めさせ・引き留めさせ、その気分を封じようとしたのである」

一理あります。相手(この場合は一般兵士)の心理を衝いた一種の説得術であり、現代でも組織の長が部下達の意気を鼓舞するために用いそうな手です。ただ、総司令官がこんな重要局面でそんな芝居をするかとの疑問は残ります。Willcock It is a perilous(危険な) plan と評しています。

しかし、研究会では「ここにはホメーロス社会における権力構造の一端が垣間見える」との意見もありました。すなわち「絶対的独裁者がいて命令一下皆が動くのではなく、総大将といえども一般兵士達の賛同や沈黙、喚声やブーイングを慮るのだ」と。そのような中での術策と考えればあり得るようにも思えます。その術策の一つとして嘘が(たとえperilousであろうと)使われているのは、ホメーロス世界で嘘がそれだけ広範かつ重要な位置を占めていたことの証左かも知れません。

また、同行で「それが決まりなのだ ἣ θέμις ἐστί」と付言していますが、そのような決まりについての言及は詩篇の他のどこにもないようです。ただ、その意図するところがここの試しに似ているエピソードとしては、第四歌のアガメムノーンが各部隊を督励して回っている場面でディオメーデースにかけた言葉が挙げられます。そこでアガメムノーンはディオメーデースに対し「(そなたの父は)戦において自らに劣る息子を産んだものよ」(4-399、400)と言います。詩篇における活躍から見てディオメーデースが指折りの戦士であることは自他共に認めるところですから、この発言が意図的な挑発であることは明らかです。アガメムノーンは、督励の一手段として敢えて若手筆頭格のディオメーデースを標的に挑発し、それをもって全軍の志気昂揚をはかったものと思われます。これも、スポーツチームの監督が使いそうな指導法の一つです。

アガメムノーンの発言を受けて、今度はネストールが発言します。

 

ὦ φίλοι Ἀργείων ἡγήτορες ἠδὲ μέδοντες

εἰ μέν τις τὸν ὄνειρον Ἀχαιῶν ἄλλος ἔνισπε

ψεῦδός κεν φαῖμεν καὶ νοσφιζοίμεθα μᾶλλον:

νῦν δ᾽ ἴδεν ὃς μέγ᾽ ἄριστος Ἀχαιῶν εὔχεται εἶναι:

ἀλλ᾽ ἄγετ᾽ αἴ κέν πως θωρήξομεν υἷας Ἀχαιῶν. (2-79~83)

 おお、仲間のアルゴスの指揮官達、大将達よ

もしアカイアの誰か他の者がこの夢の話をしたのなら

嘘と思いむしろ避けることであろう

しかし今はアカイア陣中一番を誇る人が見たのだ

さあアカイアの子達を武装させようではないか

 

このネストールの発言をどう受け取るべきでしょうか。二つの問題点がありそうです。

一つは発言内容についてですが、「夢見た主がアカイア陣中一番を誇る人 ὃς μέγ᾽ ἄριστος Ἀχαιῶν εὔχεται εἶναι である以上嘘であるはずがない」としていることです。それが(少なくとも常には)正しくないことは明らかです。アリスタルコスが「愚かεὔηθες」と評する所以です。

もう一つは発言のスタイルについて、この五行の発言がネストールに特徴的な委曲を尽くす弁舌と大きく異なり、Leaf の言葉を借りれば「平板 jejune」であることです。ネストールは第一巻で既に登場していましたが、例えばその際は、対峙して一触即発の状態にあったアガメムノーンとアキレウスの間に立って、双方を宥めるべくそれぞれを立てつつ理を説き、言葉を尽くして諭していました(1-254~284)。

これらの問題もあって、アリスタルコスなどはテキスト自体に疑問を呈しています。しかし一方、Kirk はこれらの問題点の存在を認めつつも、それらは pedantic な疑問であるとして退け、「この場で発言しうるのはネストールを措いて他にいないし、彼がいつも冗舌というわけではない」としています。

たしかに二点目のスタイルについての「いつも冗舌というわけではない」という反論はそうかも知れません。しかし一点目の発言内容について、「智者ネストールらしからぬ愚」との疑念はぬぐえません。

夢については『オデュッセイアー』でペーネロペイアがこう語っています。

「お客様、夢というものは捉えがたく訳のわからないものです。全てがその人間に実現するわけではありません。というのも儚い夢には二つの門があるからです。一つは角で作られ、もう一つは象牙です。切られた象牙 ἐλέφαντος を通ってくる夢は空言で実現しない言葉をもたらします。一方、磨かれた角 κεράων を通って出てくる夢はそれを人が見るときそのまま事実となるのです。」 (『オデュッセイアー』19-560~7)

一方では ἐλέφαντος(象牙)と ἐλεφαίρομαι(欺く)とを、他方では κεράων(角)と κραίνω(実現する)とを結びつけた古代ギリシア人得意の民間語源説に拠ったものです。正夢もあるが逆夢もある、との認識です。

ネストールは(もし現行テキストが真正であるならですが)ゼウスの送った嘘の夢を「アカイア陣中一番を誇る人が見たのだから」との理由で信じています。知恵並びなきネストールではあるが、ここでは誤っています。夢に対する認識はペーネロペイアの方が深いようです。

アガメムノーンの長老達を前にした意思表明、ネストールの同意を受け、アカイアの兵士達が呼び集められます。その軍勢が船から、陣屋から繰り出す様が比喩を以て語られます。

 

ἠΰτε ἔθνεα εἶσι μελισσάων ἁδινάων

πέτρης ἐκ γλαφυρῆς αἰεὶ νέον ἐρχομενάων,

βοτρυδὸν δὲ πέτονται ἐπ᾽ ἄνθεσιν εἰαρινοῖσιν:

αἳ μέν τ᾽ ἔνθα ἅλις πεποτήαται, αἳ δέ τε ἔνθα:

ὣς τῶν ἔθνεα πολλὰ νεῶν ἄπο καὶ κλισιάων

ἠϊόνος προπάροιθε βαθείης ἐστιχόωντο

ἰλαδὸν εἰς ἀγορήν: ・・・ (2-8793)

あたかも密集した蜂の群が出てくる

岩の洞穴から、絶えず新たに繰り出してきて

かたまって春の花々のところを飛び回る

あるいはここに一杯飛び交い、あるいはそこに(飛び交う)

その如くに、夥しい群が船から陣屋から

遙かな浜辺の前に繰り出してきた

隊を為して集会の場に ・・・

 

『イーリアス』における最初の比喩です。ホメーロスの両詩篇で出くわす比喩の数は二百を超えます。その大半(8割方)は『イーリアス』にあります。今回の一節が最初の比喩であるということは第一歌に全く比喩がなかったことになります。第一歌の詩篇における特別の位置を示唆しているのかも知れません。

詩篇冒頭からこれまで続いていた対立や怒り、緊張や苦悩などのあとで、この清新な比喩には快い驚きを覚えます。

古代ギリシアは蜂と縁が深く、蜂の生態は詩人にも親しい風景であったと思われます。ホメーロス時代には既に庶民の生業として養蜂も盛んであったとされています。研究会では「庶民は蜂の世話をよくしているが、そんな奴らが集まって自ら蜂の群みたいになっている、という滑稽味もある」との感想もありました。

ところで80行目行頭に βοτρυδὸ νの語があります。この語は βότρυς(葡萄の房)から来た副詞で原義は「葡萄の房の如くに」です。実際松平訳はそのまま「葡萄の房さながらに」としています。しかしピエロンは、この文脈でのこの語の用法に違和感を抱いているようです。ピエロンはこう述べています。

 「ヴェルギリウスは『農耕詩』(Ⅳ 558)で『葡萄の房(の如き蜂の群)が柔らかい枝から垂れ下がる』と歌っている。ヴェルギリウスは表現においてホメーロスより正確である。というのは蜜蜂の群は集まっているのだから。飛んでいる蜂に βοτρυδν λις(90) の同義語以上のものではない」と。

ピエロンは註釈の中でしばしばホメーロスの詩句をヴェルギリウスの詩句と比較しますが、ほとんどの場合ホメーロスの方を優れていると評しています。ここの判定は例外的です。しかしこの判定は当たっていそうです。ただ、ピエロンは「βοτρυδν λις の同義語以上のものではない」としていますが、同時に「βοτρυδν λαδν(93)と意味の上でも語の配置上も照応させている」ことも併せ指摘できると思われます。

軍勢は広場に集まります。

 

・・・ οἳ δ᾽ ἀγέροντο.

τετρήχει δ᾽ ἀγορή, ὑπὸ δὲ στεναχίζετο γαῖα

λαῶν ἱζόντων, ὅμαδος δ᾽ ἦν: ἐννέα δέ σφεας

κήρυκες βοόωντες ἐρήτυον, εἴ ποτ᾽ ἀϋτῆς

σχοίατ᾽, ἀκούσειαν δὲ διοτρεφέων βασιλήων. (2-94~8)

・・・ 彼等は集まった

広場はざわめいた、下で大地は呻き声を上げた

兵士達が腰を下ろした時に、騒擾が起こった。彼等を九人の

伝令達が声を上げておさめようとした、なんとか叫び声を

やめさせ、ゼウスの護る王達の言うことを聞かせるべく

 

95行目は【 τ τ χ δ γ δ τ χ ζ τ γ 】と、大地の軋る音が聞こえてくるかのようです。

97行目の ἐρήτυον について Willcock conative imperfect(動能動詞の未完了過去)であると註し ‘were trying to restrain them’ と訳を付けています。

軍勢の犇めく様が髣髴とします。

 

次回ホメーロス研究会は5月18日(土)で、『イーリアス』第二歌99行目から122行目までを予定しています。