2024年度春季号 その2
4月27日のホメーロス研究会の様子です。今回は『イーリアス』第二歌26行目から45行目までです。
今回は特別ゲストとして、ルーアン大学の Philippe Brunet さんをお招きしました。Brunetさんはホメーロスを始めとするギリシア古典の朗唱や演劇を実践されている方です。
この日は通常の研究会の前 Brunet さんに、第二歌の一部(1~45行目)朗唱と、併せて朗唱に当たっての考え方のレクチャーをしていただきました。
朗唱は表現力に富んでいると同時に明快であり、耳に心地よくかつ示唆に富んだものでした。
レクチャーの中では、synizesis や digamma 等につき具体的事例に則した実際の読み方を示していただきました。
ご自身の朗誦の姿勢について、時として登場人物になりきったり、語り手の言葉でもその場面に応じた感情表現をすることがある等のお話がありました。また、ホメーロスの文学史上の位置づけに関し、悲劇的要素も喜劇的要素も併せ持ち、全てのジャンルの源泉として格別の存在であるとの受けとめも示されました。
さて第二歌の続きです。
「忌まわしい夢 οὖλον ὄνειρον」(2-6)はゼウスの命を受けアガメムノーンの夢枕に立ち、アカイア勢を武装させるべし、とのゼウスの命を伝えます。
θωρῆξαί σε κέλευσε κάρη κομόωντας Ἀχαιοὺς
πανσυδίῃ: νῦν γάρ κεν ἕλοις πόλιν εὐρυάγυιαν
Τρώων: οὐ γὰρ ἔτ᾽ ἀμφὶς Ὀλύμπια δώματ᾽ ἔχοντες
ἀθάνατοι φράζονται: ἐπέγναμψεν γὰρ ἅπαντας
Ἥρη λισσομένη, Τρώεσσι δὲ κήδε᾽ ἐφῆπται (2-28~32)
そなたに(ゼウスは)命じられた、髪長きアカイア勢を武装させよと
すぐさまに、というのもそなたは今こそ道広きトロイアの町を攻略するであろうから
というのももはやオリュンポスに住まいする神々は
意見を異にしていないからだ、というのも皆を説き伏せたからだ
ヘーレーが懇願して、トロイア人には禍が取り付いたことよ
この一節(28~32)はゼウスの指示の言葉(11~15)ほぼそのままです。しかしこうして命令される本人を前に改めて言われるのを聴くせいでしょうか、「29行目のπανσυδίῃ νῦνのところ辺り、ゼウスの詐欺師ぶりが際立つ。詐欺師は急かせるが常套だから」との感想が研究会でありました。πανσυδίῃ < παν+σεύω ですのでまさしく急かしています。前回の箇所では既にゼウスの嘘つきとしての側面に触れましたが、更に詐欺師的側面さえあることに気づきます。
ただ研究会では「ゼウスの嘘はしかしテティスとの約束を果たすためだ」との指摘もありました。ゼウスの嘘は詐欺師的手口ではありますが、たしかに目的が私利私欲ではない点、悪徳詐欺師と同一視は出来ません。オリュンポスの神々の働く悪巧みはそれほど憎めないのはその故なのかもしれません。
夢の最後のお告げはこう締めくくられています。
・・・ ἀλλὰ σὺ σῇσιν ἔχε φρεσί, μηδέ σε λήθη
αἱρείτω εὖτ᾽ ἄν σε μελίφρων ὕπνος ἀνήῃ. (2-33,4)
・・・ さあ、そなたは心に確り覚えておいて、けっして忘却がそなたを
捉えることがないようにせよ、心に甘き眠りがそなたを放つときに
「忘却 λήθη」が主語となり σε が目的語となっています。λήθη は『イーリアス』における hapax(唯一例)ですが、「忘却が捉えないようにせよ」とは印象的なホメーロス的表現です。
λήθη 以外でこのような心的状態が主語となり人が目的語とされる例は、ホメーロスに多くあります。例えば
χόλος δέ μιν ἄγριος ᾕρει (4-23)
激しい怒りが彼を捉えた
θάμβος δ᾽ ἔχε πάντας Ἀχαιούς (23-815)
驚きが全てのアカイア人をつかんだ
などです。しかしこれらは現代でも言いそうです。次の例はどうでしょうか。
μνημοσύνη τις ἔπειτα πυρὸς δηΐοιο γενέσθω (8-181)
その時燃え上がる火の記憶が起こるように
この詩行は μνημοσύνη が主語となっており、意味の上でも今回の λήθη の文と好一対です。そしていずれも現代語ではほとんどあり得ない表現です。
そのように類似する二表現ですが、λήθη αἱρείτω は μνημοσύνη γενέσθω より一層ユニークに感ぜられます。それは λήθη がある種の欠如・悲存在であるのに動作主になっていることに起因していそうです。それでも動作主となっているのは、そこに λήθη を人格化、更には神格化する感覚が無意識に働いているのかも知れません。
夢の言葉に続く詩行はこうなっています。
ὣς ἄρα φωνήσας ἀπεβήσετο, τὸν δὲ λίπ᾽ αὐτοῦ
τὰ φρονέοντ᾽ ἀνὰ θυμὸν ἅ ῥ᾽ οὐ τελέεσθαι ἔμελλον:
φῆ γὰρ ὅ γ᾽ αἱρήσειν Πριάμου πόλιν ἤματι κείνῳ
νήπιος, οὐδὲ τὰ ᾔδη ἅ ῥα Ζεὺς μήδετο ἔργα:
θήσειν γὰρ ἔτ᾽ ἔμελλεν ἐπ᾽ ἄλγεά τε στοναχάς τε
Τρωσί τε καὶ Δαναοῖσι διὰ κρατερὰς ὑσμίνας. (2-35~40)
このように言って(夢は)去り、彼をそこに残した
実現しようもないことを心に思っている彼を
彼は思ったからだ、プリアモスの町をその日落とすことができると。
愚か者、ゼウスがお考えのことを知らなかったのだ
というのも苦しみと嘆きを更に課すはずであったからだ
トロイア勢とダナオイ勢とに、激しい戦いによって(課すはずであったからだ)
40行目の διὰ について Leaf は、through the whole course of battles, in a temporal sense と by means of の二つの解釈を掲げ、戦いはゼウスがその意図を遂行するための手段であることから後者がよいとしています。
さて38行目行頭に νήπιος の語があります。これは主格ですが、これについて Chantraine は「このような主格は呼びかけに使われ、呼格に近いものとなる」としています。このような呼びかけの主格 νήπιος(νήπιοι, νηπίη)および本来の呼格である νήπιε は『イーリアス』に合わせて三十例程あります。そしてその中で、登場人物の直接話法で語られる発言でない、従ってここでのように地の文での例も十数例あります。
そこで連想されるのがアポストロフェーです。アポストロフェーは地の文における作者の登場人物に対する二人称の呼びかけです。『イーリアス』にも
τὸν δὲ βαρὺ στενάχων προσέφης Πατρόκλεες ἱππεῦ (16-20)
騎士パトロクロスよ、お前は深く嘆息しつつ彼に言ったな
οὐδ᾽ ἄρα σοὶ Μενέλαε διοτρεφὲς ἤθελε θυμὸς (17-702)
ゼウスの護るメネラーオスよ、お前の心は望まなかったな
といった例が19例あります。この19例の中に今回の νήπιος(νήπιοι、νηπίη、νήπιε) の様な例は含まれていません。勿論二人称の固有名詞による呼びかけではない点19例のアポストロフェーとは異なるのですが、詩人による登場人物に対する直接の呼びかけであることに鑑みると、アポストロフェーに準ずるものと位置づけてもいいのではないかと思われます。
次回ホメーロス研究会は5月4日(土)で、『イーリアス』第二歌46行目から71行目までを予定しています。