ホメーロス研究会だより 696 | ほめりだいのブログ

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2023年秋季号 その21

 

1月13日のホメーロス研究会の様子です。今回は『イーリアス』第一歌370~395行目までです。

 

何故泣くのか言ってご覧なさい」と問われたアキレウスは答えます。詩篇冒頭近くから350行目あたりまでの経過を(370行から392行目までの)23行に要約して語ります。その後半部分を引用してみます。

 

 ・・・ ἄμμι δὲ μάντις

εὖ εἰδὼς ἀγόρευε θεοπροπίας Ἑκάτοιο.

αὐτίκ᾽ ἐγὼ πρῶτος κελόμην θεὸν ἱλάσκεσθαι:

Ἀτρεΐωνα δ᾽ ἔπειτα χόλος λάβεν, αἶψα δ᾽ ἀναστὰς

ἠπείλησεν μῦθον ὃ δὴ τετελεσμένος ἐστί:

τὴν μὲν γὰρ σὺν νηῒ θοῇ ἑλίκωπες Ἀχαιοὶ

ἐς Χρύσην πέμπουσιν, ἄγουσι δὲ δῶρα ἄνακτι:

τὴν δὲ νέον κλισίηθεν ἔβαν κήρυκες ἄγοντες

κούρην Βρισῆος τήν μοι δόσαν υἷες Ἀχαιῶν. (1-384~392)

・・・ 私たちによくものを知る予言者は

遠矢を射る神の神意を告げました

すぐさま私は真っ先に神を宥めるよう勧めました

するとアトレウスの子を怒りが捉え、すぐに立ち上がり

言葉を(もって)脅しました、それはすぐに実行されるのです

というのも彼女の方は速き船で輝く目のアカイア人達が

クリューセーの地に送り、神に贈り物を運んでいます

(もう一人の)彼女をたった今使者達が陣屋から連れて行った

ブリーセウスの娘を、それはアカイアの子達が私に呉れた娘だ

 

385行目に Ἑκάτοιο とあります。これはアポローン神の異称ですが、高津註では「ἑκατηβόλου の短縮形であり殆ど愛称ともいうべきものである」とされています。実際少し前でアキレウスは ἱερεὺς ἑκατηβόλου Ἀπόλλωνος(370)とも言っていました。神の名に「愛称」というのはそぐわない気もしますが、研究会では「身近なオリュンポスの神ならではではないか」との意見がありました。

389行目行頭の τὴν μὲν(クリューセーイス)と391行目行頭の τὴν δὲ(ブリーセーイス)が対比されています。

後者の τὴν 392行目の κούρην Βρισῆος と対応していますが、「τὴν は冠詞ととるべきではなく、τὴν κούρην Βρισῆος は同格である。これはホメーロス的語法を理解する上で重要な点である」とピエロンは強調しています。

さて、上記引用のような既述の詩行の要約をどう受け取るべきでしょうか。今回のアキレウスのテティスに対する言葉は、例えば出だしの

 

Χρύσης δ᾽ αὖθ᾽ ἱερεὺς ἑκατηβόλου Ἀπόλλωνος

ἦλθε θοὰς ἐπὶ νῆας Ἀχαιῶν χαλκοχιτώνων

λυσόμενός τε θύγατρα φέρων τ᾽ ἀπερείσι᾽ ἄποινα, 

στέμματ᾽ ἔχων ἐν χερσὶν ἑκηβόλου Ἀπόλλωνος

χρυσέῳ ἀνὰ σκήπτρῳ, καὶ λίσσετο πάντας Ἀχαιούς, (1-370~4)

  ところが遠矢を射るアポローンの神官クリューセースは

  青銅の鎧を纏うアカイア勢の速き船のところに来た

娘を請い受けるべく、数限りない身の代を運んできて

遠矢を射るアポローンの幣を手に携えて

黄金の錫杖の周りに(携えて)、そしてアカイア人皆に懇願した

 

は既にあった

・・・ ὃ γὰρ ἦλθε θοὰς ἐπὶ νῆας Ἀχαιῶν

λυσόμενός τε θύγατρα φέρων τ᾽ ἀπερείσι᾽ ἄποινα,

στέμματ᾽ ἔχων ἐν χερσὶν ἑκηβόλου Ἀπόλλωνος

χρυσέῳ ἀνὰ σκήπτρῳ, καὶ λίσσετο πάντας Ἀχαιούς, (1-12~5)

に対応し、中でもλυσόμενός以下などは全く同文です。

また上で引用した締めくくりの

τὴν δὲ νέον κλισίηθεν ἔβαν κήρυκες ἄγοντες

κούρην Βρισῆος τήν μοι δόσαν υἷες Ἀχαιῶν. (1-391,2)

は、つい先ほど語られた召し上げ場面の内容の圧縮された要約です。

内容の重複でもあるこの要約の必然性には「何故わざわざ」と疑問が生じます。その疑問に対して Kirk は二つの仮説を提示しています。即ち

1.手短に語る必要があったときの簡略版であった

2.完全版に先立つオリジナル形あるいは先駆形であった

いずれも口承詩創造の現場を垣間見るような興味深い想定です。しかしながら、いずれの想定の場合でも完全版と併存している理由としては、今ひとつ説得力に欠け疑問は残ります。

ホメーロスにはここに限らず繰り返しがよく出てきます。近代的感覚では重複であっても、口承・口頭詩においてはこのような繰り返しは必ずしも排除されません。典型的なのは伝令が伝言を伝える場合です。そこでは、人称などを代えてほぼ同一内容が繰り返されます。そのような場合詩人は反復を厭いません。詩人が厭わなかったということは聴衆も厭わなかったのだと思われます。今回のアキレウスの場合も、そのような伝令の場合と同様の口承詩の場特有の素地、すなわち繰り返しを厭わない(と言うよりむしろそれを楽しむ)詩人・聴衆の心性があるのかもしれません。

今回の場合はその共通の素地に加え、テティスが「言ってご覧なさい ἐξαύδα(363)」と問うていたこともあります。前回この場面を「いじめられっ子とその母親の会話さながら」と記しましたが、その想定に立った場合、子が母親にことの経過を話するのは自然なことでもあります。聴衆・読者としても、これを聴き・読む時にはいつのまにか母親テティスの立場に立って自然に受け取っているのではないかと思われます。

さてアキレウスは事の次第を語った後懇願します。

 

ἀλλὰ σὺ εἰ δύνασαί γε περίσχεο παιδὸς ἑῆος:

ἐλθοῦσ᾽ Οὔλυμπον δὲ Δία λίσαι, εἴ ποτε δή τι

ἢ ἔπει ὤνησας κραδίην Διὸς ἠὲ καὶ ἔργῳ. (1-393~5)

しかしあなたは、お出来になることなのですから、あなたの息子を守ってください

オリュンポスに行ってゼウスに懇願してください、もしかつて

言葉か行動でゼウスの心を喜ばせたことがあるのなら

 

393行目の εἰ δύνασαί γε εἰ について、普通は仮定の εἰ ととっています。三邦訳もそうであり、例えば松平訳は「もしあなたにそのお力があるならば」となっています。しかし Schein はこれに異を唱え、εἰ + indicatif ofen signifies ‘if (as is the case)’; here, not ‘if you can’ but ‘since you can’ と述べています。εἰ には仮定条件を提示する場合と確定条件を提示する場合と両方があり、両様の解釈が可能です。この箇所では後者のSchein説も有力です。上記試訳では後者を採りました。その方がアキレウスの懇請がより強く迫ってくる感がしますので。

 

次回ホメーロス研究会は1月20日(土)で、『イーリアス』第一歌396~420行目までを予定しています。