誕生日について(補遺) | 霽月日乗・ホーマーEのブログ

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個人の備忘録です。

今月の初め頃の記事で誕生日について少し考えました。今回はその続編、といっても、あれから何か新しい発見があったわけではありませんが。

ブログの題材を探すのに、ときどき有名人の生年月日を調べます。今はネットで調べればそんなことは即座に分かりますが、分かりすぎて(つまり、検索結果が多すぎて)かえって手に余ることがある。だから僕はもっとローテクな方法を用いることにしています。

たとえばミュージックマガジン社から毎年頂戴するレコード・ダイアリー、手帳の一種なのですが、これを見ると日付欄に著名なミュージシャンの生没が載っています。先週頂戴した2015年版は生年しか載ってませんでした。方針を変更されたのかな?  今日11月18日はグレアム・パーカー(1950)とあります。ちなみに、よく参照するのは少し前の2007年版。このころはまだ故人の情報も載っていました。それによると今日はキャブ・キャロウェイ(1994)とダグ・サーム(1999)の逝去した日のようです。

今日はこれらの人々のことを書こうというのではありません。前回に続いて誕生日を祝うということについて考えます。

いま現在生きて生活している人の誕生日を祝う、これは普通です。では亡くなった方の誕生日を祝う、あるいはその日に故人を偲ぶということについてはどうか。あまり聞きませんね。少なくとも一般の家庭ではそんな習慣はありません。故人を偲ぶのは命日と決まっている。獺祭忌とか桜桃忌とか、だいたいが忌日です。

例外はクリスマスとか灌仏会ですね。でもこれらは「故人の生誕を祝う」のではなく、もっと別の文脈から考えるべきものでしょう。

これはやはり誕生日という概念が、少なくとも日本では曖昧なものだったからだと思うんですね。僕は自分の四人の祖父母の誕生日は覚えてない、というより最初から知りません。でも息子たちは自分の祖父母、すなわち僕と家内の両親の誕生日は知っている。拙宅の例だけをもって話を普遍化するのははなはだ乱暴ではありますが、つまりは戦後の日本ではそれ以前よりも誕生日というものが重視されるようになった、その証左のひとつと言えるのではないかと。

ただ、世界の隅々にまで目を向ければ、故人の誕生日を祝う習慣を持つ民族はどこかにいそうです。門外漢の哀しさで、こういうときにパッと実例を示せなくて遺憾に思いますが、ご興味のある方は『金枝篇』あたりをパラパラとめくってみてください。

僕個人はどう考えるかというと、魂と呼ばれるものは一種のエネルギーで、そのエネルギーは姿形を変えつつ何らかの状態で残ると思うんですね。エネルギー保存則とかの科学的根拠は全くありません。あくまで空想の産物です。でも、近しい人や動物を喪ってその彼らをときどき偲ぶ気持ちは、科学的だの何だのという理由から生じるものではありませんよね。だからそういう気持ちを思い出す契機としての記念日は、忘れてしまうよりは覚えておいたほうがいい。後に残ってまだ生きている者の務め、とまでは申しませんが、そうした行為が物故者との縁をつなぐことになるのではないでしょうか。特別なことはしなくていい、ただ思い出してあげれば、どこかで存在しているかも知れない彼らの魂は、きっと安らいでくれるはず……。

君子は怪力乱神を語らず、と申しますので、オカルティックな話はそろそろこの辺でおしまいにします。

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