彼と僕との関係は、何と言うか、ちょっと一口では説明できないですね。ご縁があった、と言うしかない。
僕がミュージックマガジンとかレコードコレクターズという彼が主宰していた雑誌に記事を書かせてもらうようになったのは、友人の紹介、というか、じゃあ何か書いてみれば的なノリで、何となく始まったんですよ。当時のレコードコレクターズの編集長が友人の友人だったんですね。1986年でした。今と違って万事ユルかった。
その時付き合ってた彼女(今の家内です)の姉が同社の編集部にいたり、僕が後に勤めることになる書店のビルに同社の事務所があったり、そういうことはすべて偶然の一致です。人と出会うというのは、何か目に見えない力が働くのだと実感しましたね。こういうのが「縁」というんだろうな、と。
ということで、とうようさんとは上司と部下(実際、僕は同社の社員でも何でもなく、外部のライターの1人でしたから、この比喩は当たらないんですが)というより、親戚の叔父さんと甥、って感じの付き合いでした。もちろん音楽の、特に民族音楽のことはいろいろ教えてもらいましたよ。でもそれは、教師が生徒に教える、という感じではなく、同好の士どうしが気軽に情報交換する、といったやり方でした。僕みたいな若造をそのように対等の大人として扱って下さったこと、今さらながらに感謝しています。
風貌や発言から、彼は世間一般の間ではコワモテで通っていましたが、僕にとっては穏やかな年上の友人以外の何ものでもなかった。たとえば、僕が引越し先の物件を探してたとき、ちょうど彼も引越しのタイミングで不動産を整理されてて、千葉の勝浦に所有の別荘的なリゾートマンション、格安で譲るから見にくれば、子供を育てるにはいいところだよ~、とおっしゃる。でも勝浦から神保町まで毎日通うのはちょっと、と申し上げると、あ、そうだったね、君仕事があるんだったね、と(笑)。全然人のこと考えてないんだなあ。もちろんこのオファーはお断りしましたよ。
あ、こんなこともありました。僕の長男が小学校に上がり、共働きなので区の学童保育に申し込んだんですね。そのとき、小学校の近くの児童館に入れず、かなり遠いところに振り分けられました。区役所に掛け合うと、僕の住んでるところは調整区域だから、我慢せよとのこと。これをとうようさんにある日ポロっと話したら、何、調整区域、それは面白い言葉だな、と、目をランランと輝かせて、もっと詳しく話せっていうんです。つくづくこの手のキナ臭い話がお好きな方でした(笑)
僕は今までに何度か職を替えましたが、その都度、相談、というのではありませんが、とうようさんに意見を聞きました。最後の転職のとき、事務所(同じビルです)に挨拶に行くと、おめでとう、これで堂々と自分の思う道に進めるねっ、と、満面の笑みではなむけの言葉を頂きました。そんなことを言ってくれたのは彼だけでしたし、大いに勇気付けられましたね。感謝しています。
音楽のことについて書くとき、僕は今でも「とうようさんだったらどう言うかな?」と必ず自問します。最近はエビ中をはじめアイドルについて云々することが多い僕ですが、彼とエビ中のことなんか一緒に話したかったなあ。
3年前の夏、あの地震のあと、前年に亡くなった別の友人から託された仏教関係の翻訳の仕事で忙殺されていたさなかに、とうようさんが自死されたという知らせを、義理の母からの電話で受けたあのときのことはいまだによく思い出せません。その後に行われた「お別れ会」的な催しには一切参加しませんでした。今日ここに書いたようなことは3年経った今だから書ける。当時、僕は1人家に籠って毎日考えました。彼は膨大なコレクションを寄付という形であらかじめ整理していました。地震の映像を見たり、亡くなった例の友人(この人も本やら何やら、相当の物持ちでした)のお宅に伺って遺品を拝見したりするうち、僕もそろそろ身の回りを綺麗にした方がいいなと痛感しました。これがレコードとCDを整理するきっかけでした。
とうようさん、でもね、僕はやっぱり自殺はいけないと思う。生きてるうちにやりたいことはやりきったとおっしゃるけど、僕みたいに、これからもとうようさんに色々相談に乗ってもらいたかった人もたくさんいるんですよ。だからそういう意味では、まだまだやるべきこと、あったんじゃないかな。今となっては後の祭りですけどね。
3年経って、あらためて、遅まきながらご冥福をお祈りします。
