この頃、自己愛的障害の患者さんが増えていると思っていたところ、
以下のような本を見つけました。
『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』 片田珠美・著
光文社 798円
NPO連想出版 新書マップ編集部 川井 龍介氏の書評によれば、
日本が一億総中流社会といわれたのは、高度経済成長期のことだった。ほとんどの人が自分は社会のなかで中流である、と自認した時代である。この言葉はいまや死語になろうとしているが、昨今の日本を、この言葉になぞらえて表現するなら、大人になれない人間たちが大量出現している社会、というのが本書のタイトルの示す意味だ。
精神科医であり大学で教鞭をとる著者は、臨床経験や精神分析学、また昨今の日本の若者をめぐる諸分析をもとに、いつまでたっても“ガキ”のままの人間がどうしてこれほど登場したのか、そこから脱却するにはどうしたらいいのかを考察する。
引きこもり、モンスターペアレントといった人たちに象徴される人間像を著者は、“ガキ”というのだが、彼らに共通するのは、自己愛が強く、傷つくのを恐れ、成熟を拒否するところだ。
進学、就職に失敗したり、異性にふられたり、あるいは会社で上司にしかられたりと、自分の思ったとおりにならないことがあると、すぐに傷つき、それ以上傷つくのを恐れ自分の殻に閉じこもったり、逆にうまくいかないことを他人のせいにする。
この背後には、乳離れできていない母子関係があるという。自分とわが子を一体化して、コントロールしたいと願ったり、子供の可能性や子供の挫折を自身のものと同一視してしまう母親は、子どもが失敗することを恐れる。そして、親子とも失敗に正面から向かい合えなくなったり、何かを断念することをうまく受け入れられないという。
こうした成熟拒否の若者が増えていることに対して、著者は、 「大人になるというのは、『なんでもできるようになること』ではなく、むしろ「何でもできるわけではないということを受け入れていく」過程だからである。幼児的な万能感をひきずり、自己愛的イメージにしがみついたまま、現実の自分と向き合うことができないのは、まさに子どものまま、ガキのまま、なのである」と診断する。
この成熟拒否がどこからくるかというと、精神分析で用いられる「対象喪失」を受け入れられないからだという。自分にとって大切な対象を失うときに、人は嘆き悲しむと同時に、失われたという事実をしっかり認識していき、そこから抜け出す糸口をみつける。しかしそれができない。では、なぜ受け入れられないかというと、現代の日本社会では、最大の対象喪失である「死」に遭遇する機会が減ったからだと。
直接にせよ間接にせよ、死との遭遇によって、人は様々な心理的反応を経てそれを乗り越える。そこで苦しかったり悲しかったりして、しっかりと喪失感を覚える。仕方のないことを身をもって感じる。そうしたある意味で貴重な経験がないことで、悲しみや不快感を受け入れられなくなる。
奇しくも今、ニュースになっている100歳以上の高齢者の所在が多数不明だという事件は、その一例かもしれないが、世界有数の長寿国の一方で、確かに今の日本の社会は人の死の重みが実感として薄れている。核家族化や地域のコミュニティーがつくる人間関係の衰退がもちろん影響しているだろう。
こうした伝統的な社会や文化の下では、規範やしきたりによって人々は縛られてきた。しかし、いま思えば、こうした規範や貧しさなど外的な制約によって、人生は思い通りいかないことを子供のころから身をもって学んできた時代があった。
それが、豊かになって、著者の言うように、外部からの規範から解放されて自由になり、「自分らしさ」や「自己実現」を追求できるようになった一方、その代償として自己責任がのしかかってきた。失敗すれば向き合うのは自分自身という社会になった。
打たれ弱さや、他人のせいにする傾向、こうしたものは社会の構造的な問題であり、そう簡単に処方箋をほどこせるものではないという著者の意見には同感である。ならばどうすればいいかといえば、失ったものや断念したもの、失敗したもの、そうした対象をしっかり認識することからはじめよと著者は言う。
この点について、本書が、個人だけでなく社会や国家にもあてはまることを、高度経済成長期やバブル期を例にとって説明する点もとても示唆に富む。
激しく同感。
自分の症状や具合の悪さを人のせいにし
優しくしてもらえなかった、自分の思い通りにならなかったと
怒り散らす姿はどう見ても大人の行動とは思えないですね。
「退行」そのもの、
駄々をこねて道端にひっくり返って泣き叫ぶ子供のようです。
さらに、最近ではこうした対人傾向で会社でトラブルを起こし
結果自主退職したり、休職に追い込まれたりし
経済的問題まで抱えてしまい
ニッチモサッチもいかなくなるケースが増えています。
自分は正当にやっているのに、上司が会社が評価してくれない。
そのために自分はウツになったのだと、自分で診断してくる人もいます。
こうした人は結局医療全体をも敵に回してしまいがちです。
しかし、一方で医療への甘い依存もあるという矛盾した感情を持っています。
薬は飲みたくない、かといって良くなるための社会性の獲得や地道な努力はしたくない。
病人でいたい、しかし、病人と思われたくない。
普通ならさじを投げたくなるところですが、
そんな人でも自分の悲しみを受け止め、
そこから成長していこうと言う気持ちになりさえすれば
もっと穏やかに、活き活きと生きていけると個人的には信じています。
まあ、そうでも思っていなければ治療していても苦労が多いばかりで
報われません。
確実にこうした人が増えている社会の中で
精神科の意味や役割も変わってくるのでしょう。
こうした傾向を「病気」と捕らえて治療の対象にすること自体
精神科という医療的対応だけでは不可能です。
本来、自尊心を育ててくれるはずの親のあり方や
そこからの自立、そして自律。
家族のあり方や、社会規範のありかたなど
様々な側面からその人の成長を促す方向性が必要なのでしょう。
以下のような本を見つけました。
『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』 片田珠美・著
光文社 798円
NPO連想出版 新書マップ編集部 川井 龍介氏の書評によれば、
日本が一億総中流社会といわれたのは、高度経済成長期のことだった。ほとんどの人が自分は社会のなかで中流である、と自認した時代である。この言葉はいまや死語になろうとしているが、昨今の日本を、この言葉になぞらえて表現するなら、大人になれない人間たちが大量出現している社会、というのが本書のタイトルの示す意味だ。
精神科医であり大学で教鞭をとる著者は、臨床経験や精神分析学、また昨今の日本の若者をめぐる諸分析をもとに、いつまでたっても“ガキ”のままの人間がどうしてこれほど登場したのか、そこから脱却するにはどうしたらいいのかを考察する。
引きこもり、モンスターペアレントといった人たちに象徴される人間像を著者は、“ガキ”というのだが、彼らに共通するのは、自己愛が強く、傷つくのを恐れ、成熟を拒否するところだ。
進学、就職に失敗したり、異性にふられたり、あるいは会社で上司にしかられたりと、自分の思ったとおりにならないことがあると、すぐに傷つき、それ以上傷つくのを恐れ自分の殻に閉じこもったり、逆にうまくいかないことを他人のせいにする。
この背後には、乳離れできていない母子関係があるという。自分とわが子を一体化して、コントロールしたいと願ったり、子供の可能性や子供の挫折を自身のものと同一視してしまう母親は、子どもが失敗することを恐れる。そして、親子とも失敗に正面から向かい合えなくなったり、何かを断念することをうまく受け入れられないという。
こうした成熟拒否の若者が増えていることに対して、著者は、 「大人になるというのは、『なんでもできるようになること』ではなく、むしろ「何でもできるわけではないということを受け入れていく」過程だからである。幼児的な万能感をひきずり、自己愛的イメージにしがみついたまま、現実の自分と向き合うことができないのは、まさに子どものまま、ガキのまま、なのである」と診断する。
この成熟拒否がどこからくるかというと、精神分析で用いられる「対象喪失」を受け入れられないからだという。自分にとって大切な対象を失うときに、人は嘆き悲しむと同時に、失われたという事実をしっかり認識していき、そこから抜け出す糸口をみつける。しかしそれができない。では、なぜ受け入れられないかというと、現代の日本社会では、最大の対象喪失である「死」に遭遇する機会が減ったからだと。
直接にせよ間接にせよ、死との遭遇によって、人は様々な心理的反応を経てそれを乗り越える。そこで苦しかったり悲しかったりして、しっかりと喪失感を覚える。仕方のないことを身をもって感じる。そうしたある意味で貴重な経験がないことで、悲しみや不快感を受け入れられなくなる。
奇しくも今、ニュースになっている100歳以上の高齢者の所在が多数不明だという事件は、その一例かもしれないが、世界有数の長寿国の一方で、確かに今の日本の社会は人の死の重みが実感として薄れている。核家族化や地域のコミュニティーがつくる人間関係の衰退がもちろん影響しているだろう。
こうした伝統的な社会や文化の下では、規範やしきたりによって人々は縛られてきた。しかし、いま思えば、こうした規範や貧しさなど外的な制約によって、人生は思い通りいかないことを子供のころから身をもって学んできた時代があった。
それが、豊かになって、著者の言うように、外部からの規範から解放されて自由になり、「自分らしさ」や「自己実現」を追求できるようになった一方、その代償として自己責任がのしかかってきた。失敗すれば向き合うのは自分自身という社会になった。
打たれ弱さや、他人のせいにする傾向、こうしたものは社会の構造的な問題であり、そう簡単に処方箋をほどこせるものではないという著者の意見には同感である。ならばどうすればいいかといえば、失ったものや断念したもの、失敗したもの、そうした対象をしっかり認識することからはじめよと著者は言う。
この点について、本書が、個人だけでなく社会や国家にもあてはまることを、高度経済成長期やバブル期を例にとって説明する点もとても示唆に富む。
激しく同感。
自分の症状や具合の悪さを人のせいにし
優しくしてもらえなかった、自分の思い通りにならなかったと
怒り散らす姿はどう見ても大人の行動とは思えないですね。
「退行」そのもの、
駄々をこねて道端にひっくり返って泣き叫ぶ子供のようです。
さらに、最近ではこうした対人傾向で会社でトラブルを起こし
結果自主退職したり、休職に追い込まれたりし
経済的問題まで抱えてしまい
ニッチモサッチもいかなくなるケースが増えています。
自分は正当にやっているのに、上司が会社が評価してくれない。
そのために自分はウツになったのだと、自分で診断してくる人もいます。
こうした人は結局医療全体をも敵に回してしまいがちです。
しかし、一方で医療への甘い依存もあるという矛盾した感情を持っています。
薬は飲みたくない、かといって良くなるための社会性の獲得や地道な努力はしたくない。
病人でいたい、しかし、病人と思われたくない。
普通ならさじを投げたくなるところですが、
そんな人でも自分の悲しみを受け止め、
そこから成長していこうと言う気持ちになりさえすれば
もっと穏やかに、活き活きと生きていけると個人的には信じています。
まあ、そうでも思っていなければ治療していても苦労が多いばかりで
報われません。
確実にこうした人が増えている社会の中で
精神科の意味や役割も変わってくるのでしょう。
こうした傾向を「病気」と捕らえて治療の対象にすること自体
精神科という医療的対応だけでは不可能です。
本来、自尊心を育ててくれるはずの親のあり方や
そこからの自立、そして自律。
家族のあり方や、社会規範のありかたなど
様々な側面からその人の成長を促す方向性が必要なのでしょう。