※前々回の続きです。
神様にリラックスしていただきたいから、お供え物やお酒を持っていく。
お稲荷さんに喜んでもらいたいから、前掛けをプレゼントする。
神社仏閣の補修のお手伝いをしたいから、たとえちょっぴりでも多めにお賽銭を入れる。
神様や眷属が大好き! だから、せっせと通う(信仰心を差し出す)。
忙しい神様や眷属の息抜きになればと思い、境内でたくさんお話をする(信仰心を差し出す)。
などの、神様のために何かを〝一生懸命に〟すると、神様は「してもらった」と思ってくれるようです。
玉置の神様からお話を聞いている時に、いくつかの例となるエピソードを思い出しました。
昔、神様に歌の奉納をしていた、武家のお嬢さんがいました。
幼い頃から神社に行き、一生懸命、歌を歌っていたのです。
神様や眷属は、その歌声に癒やされ、お嬢さんが来るのを楽しみにしていました。
やがてお嬢さんは年頃になり、縁談がまとまって、違う土地に嫁いでいきました。
その時に、眷属がついていって、お嬢さんの一生が終わるその日まで、守り通しています。
(『お稲荷さんのすごいひみつ』という本に詳細を書いています)
お嬢さんが、「一生守って下さい」とお願いをしたのかどうかはわかりませんが、神様のほうは、してもらったということで、大事な眷属を1体減らしてでも、守ってあげたわけです。
権兵衛さんは、江戸時代の貧しいお百姓さんでした。
裕福ではなかった権兵衛さんにとって、ぼたもちはごちそうでした。
そのごちそうが手に入っても、権兵衛さんはすぐには食べませんでした。
神様に持って行くのです。
太宰府から来たという由緒の神様でしたから、「こんな遠いところによくおいで下さいました。どうぞ、お召し上がり下さい」と、おもてなしの気持ちでお供えをしていたのでした。
ぼたもちだけでなく、美味しいものが手に入れば、権兵衛さんはせっせと神社に持って行きます。
権兵衛さんが何かを持って神社に行くと、近所の子どもたちには、それがお菓子やごちそうだとバレバレでした。
「ちょうだい」「ちょうだい」という子どもたちに権兵衛さんはぼたもちを与え、結局、自分の口には入らなくなるのですが、それでも、神様に喜んでいただきたい、と神社に持って行きました。
権兵衛さんは神様に愛され、印象に残る人物として、今でも一番に名前が出てきます。
現在は神様となって、ふもとの祠で人々を守っています。(『神仏のなみだ』という本に詳細を書いています)
権兵衛さんは、ぼたもちをお供えしていた神社で修行をさせてもらって、神様になったのではないかと思います。
もしかしたら、スカウトされたのかもしれません。
私が直接見たことがあるのは、神社で長いこと手を合わせていた男性です。
この男性も、深い信仰心を差し出していました。
願っていたのは奥さんのことでしたが、そこまで一心に祈るということは、心から神様を信じているということですから、それで神様が、死ぬまで守る、と宣言していたのですね。
この時、私は、男性がかわいそうだからかな、と思ったのですが、違うのです。
そこまで信仰してくれるのなら、ワシもしてやる、ということで、一生守ると言ったのでしょう。
私は玉置の神様に、前々回書いたようなことを教えてもらって、私にできることはもっともっと、して差し上げたいと思いました。
もちろん、そこに、見返りを求めて、という意図はありません。
神様が「ここまでしてくれた」と思う、ということは、そのことをとっても喜んでおられる、ということです。
最初に書いたように、私たち人間にできることは、たくさんあります。
皆様も、お酒を持って行ったり、お供え物を奉納したりしていると思いますが……
でも、喜んでもらえるのはそれだけではありません。
頑張って費用を捻出し、遠出をしてまで神様に会いに行くのも、
せっせと何回も足繁く通うのも、
神様に深い信仰心を差し出すということで、信仰心を奉納しています。
神様に会いたい! という思い、
神様、大好き! という思い、
これらも、神様がいることを疑っていないどころか、熱い感情で好意を示しているので、特別な信仰心を奉納しています。
そのピュアな信仰心の奉納は、神様にものすごーーーーーく喜ばれます。
人間が信仰するのを当たり前、と思っていないのですから、私たちが考える以上に、本気で喜んで下さっているということです。
その喜びを伝えるために、そしてそれが私たちにわかるようにと、神様は、歓迎のサインを見せて下さるのです。