河瀬直美 炎上 | 異文化交差点

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河瀬直美という映画監督が東大の入学式に講演者として招請されて以下のような発言をしています。それが網際上でかなり炎上していて、まだ火は消えずに残っているようです。どういう訳か、Twitter上で私の目に入りました。以下の発言が炎上のきっかけを作っています。

 

例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?   人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います」(東大website)

 

政治的な見解は抜きにして、炎上のきっかけとなったこの発言を分析してみます。

 

1.例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である

 

これは河瀬さんの主観をずばり言っているのであり、客観的に正しい意見ではない、ということはすぐに分かると思います。彼女は社会科学者ではなく映画監督です。これだけを見ただけで、「なるほどなぜこういう言い方を彼女がしたのか分かる」と私は思いました。

 

河瀬氏は、論理を紡ぐ言葉というものに対してあまり注意を払っていません。

 

この表現のどこが社会科学的に変なのか、それは、ロシアという国を悪者にするのは簡単である、と主張するための裏付け的証拠が言及されていないことにあるのです。「こうこういう状態だから、ロシアという国を悪者にするのは簡単です」とは言わないところに、氏が社会科学者ではない弱点が露呈するのです。

 

このことで私は河瀬直美氏の略歴を調べてみました。すると氏は奈良市立一条高等学校を卒業し、大学には行ってません。ならば社会科学的知見はほぼないに等しいと推測されます。国際政治学者(つまり社会科学者)である慶應義塾大学の細谷雄一教授から、河瀬氏のこの発言が批判されるのは当然でしょう。

 

主張の根底にある前提は、その根拠をしっかりと示さないと、それを覆されたら、全体の意見が否定されてしまう、という社会科学界の常識なるものがあります。河瀬氏はそれに慣れていないことがこれでよくわかります。

 

2.けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか

 

その国の正義とは文脈からロシアの正義だと捉えられます。今ウクライナを侵略しているロシアの正義とはいったい何なのだ、ということを氏は言わない。だとしたらという仮定を言っているつもりでしょうが、この仮定は論理破綻しています。これは河瀬氏の主観を仮定表現し、それを前提に論旨を展開しますよ、と言っていることと同じです。

 

私は、ロシアの正義は一体何なのだ、と疑問に思うのです。よしんばウクライナがロシアをけしかけて、ロシアに軍事侵攻するようにしたのならば、それはロシアがウクライナを軍事的に侵略する正義となるのでしょうか。どんな理由があれ、暴力はいけない、という鉄の不文律があります。河瀬氏は、ロシアの暴力を肯定する論旨展開をしている、ということがこれで分かるはずです。

 

3.そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです

 

自分たちの国がどこかの国を侵略する可能性と言っていますが、これは日本がどこかの国を侵略する可能性、ということを氏が言ってます。ロシアの暴力的ウクライナ侵略が正義だとする氏が、日本がどこかの国を侵略する可能性を否定的に論じていますが、ここに矛盾が存在します。

 

この段階で、氏が、ウクライナ事件をきっかけに日本を貶める意見にすり替えているということが分かります。論旨は破綻しています。その理由は、氏の意見がなんらかの思惑に影響を強く受けているからだろう、と思えるのです。日本は常に暴力的で侵略的である、という思い込みが強過ぎてしまい、彼女の感情が先行しているように見えます。

 

大学にも行っていない氏が、ましてや東大の入学式に呼ばれるとなると、有頂天になるでしょう。私だってもし氏の立場になったら(仮定法過去でありえないことを仮定表現しています)、舞い上がってしまうでしょう。壇上に立つと膝ががくがく震えて、話せるかどうかも疑問です。

 

なんでこんなことを彼女が言ったのか、私には分かりません。この世には、落とし穴がいたるところにあります。他山の石としたいところです。