他力本願と他者依存 | 異文化交差点

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長年、数十カ国を遍歴した経験を生かして、日本人には日本語と英語、米人には英語を使って異文化研修を日本語と英語で提供しています。

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以下の文章は、2009/12/19 09:49に別のブログに投稿したものです。

 

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  日本人にとって異文化意思疎通の問題は多々存在します。その中で最も難しい問題の一つは、外来語の解釈とその活用にあると思われます。

 浄土思想における他力本願の意味を知っている人は多くありません。浄土宗、浄土真宗のお坊さんの多くも、本当にその意味が分かっているの、と良く疑問に思います。私は、学者でもなければ、僧侶でもない、ただの野人であり、煩悩だらけの匹夫です。だからこそ他者の目を意識せず、特定団体の束縛から自由に発言します。

 良くお坊さんは、他力本願は阿彌陀佛(あみだぶつ)の絶対的救い、あるいはその誓願(誓い、約束)である、と説きます。しかし私を含めた多くの匹夫(凡人)は、阿彌陀佛の意味を知りません。佛と書けば何やら神聖な存在を思いますが、しかし佛って何、と問われれば、それに果たして何人のお坊さんが応えられるでしょうか。私は、それでさえ疑問に思います。

 私の父は、1951年8月5日に、大事な一人娘を夏の暑い日に食中毒で亡くしました。私は、8月9日の零時をちょっと過ぎた時刻に生れました。姉の葬式の最中に母親が受けた衝撃で生まれたようです。8月5日の朝元気だった姉がその夕刻に昇天しました。その原因は隣の家で貰って食べた饅頭に中ったからです。隣の家の人達は全員元気でした。しかし姉は酷い食中りで命を落としました。この違いがどこから来たのかと言えば、当時は、我が家近辺に水道がなく、近くの川から汲んで来た水を甕に入れて、その水を煮沸してから食事用に使っていましたが、他所の家の人達は甕の上澄み水をそのまま食事に使っていて、だから、胃腸が丈夫でした。しかし姉の胃腸は過保護により非常に弱かったのです。

 大事な娘を亡くした我が父は、宗教にのめり込みました。様々な宗教団体に参加しています。しかし辿り着いた宗教は、先祖伝来我が家に伝わっていた浄土真宗でした。我が家には、浄土真宗の本があり、私は大学生の頃、それを良く読みました。

 しかしながら全く理解不能でした。第一に、佛(ほとけ)の意味からして分かりません。阿彌陀佛になると更に分かりません。彌陀の本願などという言葉が目に入ると、阿彌陀とは異なるのか、一体、阿彌陀佛の阿彌陀って何? と疑問に思い、そこで思考停止しました。

 浄土宗と浄土眞宗の念佛である「南無阿彌陀佛」の意味もさっぱり分かりませんでした。お坊さんは、それを唱えるだけで御利益がある、などと言っていましたが、意味も分からずに、ぶつぶつと念佛を唱えるのは、どうしたものかと、私は考え、浄土眞宗なる教義に疑問を持ちました。ぶつぶつと唱えるから念佛なのか、などと思うと、もう佛教そのものが理解不能となっていました。

 私は長い間海外に住み、悪戦苦闘して、異文化摩擦を経験し、英語を身に付けて来ました。英語に関しては、生爪を剥がすような痛みを伴って勉強しました。そのお陰で1987年に国際連合公用語試験・英語部門で特A級に、筆記試験と面接試験それぞれ一発で合格しました。その異文化と英語の格闘の過程で、日本文化と日本語との比較分析を私は試みていました。

 様々な本を読みました。中で最も衝撃的だった本は、大野晋先生が書かれた「日本語について」(角川文庫)でした。それから、大野先生が書かれた無数の本を読み漁りました。その本のどれだったか記憶にありませんが、印度の古代文学はサンスクリット語で書かれ、その舞台劇に登場する人達の名前は、抽象語が良く使われていたそうです。例えば、無、有、老、死・・・などです。古代インド人は、抽象概念を創造し、それらを自由に使っていたようです。劇文の中で、「人が年を取り、老人になって行く」という時、「老性に赴く」という抽象的表現をしていたらしいのです。

 そして、また大野晋先生のどれかの本(あまり多過ぎで私は探せません)に、阿彌陀佛の本源的意味が説明されていました。これも古代インド語であるサンスクリット語がその語源です。古代中国人が、サンスクリット語の発音を漢字で表現したものです。それによりますと、阿彌陀の阿は、否定の接頭語、英語で言えば、nonまたはinであり、阿彌陀の彌陀は、「有限」、英語で言えば、finiteであります。すると阿彌陀は、「無限」であり、英語でinfinityとなります。そこにおいて、佛とは、「はからい」を意味します。その説明を読んだ時、私は思いました。「阿彌陀佛は、無限のはからい」である。また南無阿彌陀佛の南無は、そもそも「~に帰依せよ(~に我が身を委ねよ)」という意味があります。だから南無阿彌陀佛という念仏は、「我が身を無限のはからいに委ねます」という意味になります。南無阿彌陀佛という念佛はまさに外来語なのです。

 ここからが異文化意意思疎通論の真骨頂に入ります。なぜ大野晋先生が古代サンスクリット語と日本語の関係を論じたのかと言えば、まさしく、大野先生は、日本人が育んだ言語文化の特徴の一つを看破していたからに他なりません。つまり、彼は、多くの日本人は、言語を加工して高度に概念化したがらないために、抽象言語の理解とその活用が苦手だという事を指摘していました。

 だから、サンスクリット語(梵語)で書かれた佛教聖典が中国人の手により漢語に翻訳され、それを日本人が読んで解釈するに当って、無数の抽象概念に遭遇し、恐らく、多くの日本人の理解は困難だったに違いないと、私はすぐに想像しました。中国人は、インド人同様に抽象概念の理解が早いです。表意性に優れた漢字を活用して、サンスクリット語で書かれた仏教聖典を見事に漢語に翻訳する事に成功しています。

 阿彌陀佛とは、無限のはからいです。しかし多くの日本人は、無限と言う抽象概念の理解を困難とします。他力とは阿彌陀のはからいを意味します。だから、他力本願は無限のはからいとなります。日本人は、無限を、「かぎりない」、無は、「なにもない」と言いたがります。この和語は、抽象性に乏しいです。

 日本人の多くが他力本願を他者依存として活用する背景には、日本人の言語文化の影響が存在していると言って良いでしょう。だから、そういう人を責めるのは酷です。ここに異文化の問題が存在しています。私にとって終りのない研究課題でもあります。