木挽町日録 (歌舞伎座の筋書より)

木挽町日録 (歌舞伎座の筋書より)

趣味で集めている第4期歌舞伎座の筋書を中心に紹介

一応、テーマ別に載せてますが
演目や役名の記事、役者のピックアップもありますので
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令和7(2025)年7月、歌舞伎座で染五郎・團子による「蝶の道行」が上演

見慣れた武智鉄二演出、川口秀子振付のものではなく二世藤間勘祖振付と

表記されているが、名人六世藤間勘十郎のこと。

ちょっと珍しいので勘十郎振付の「蝶の道行」の資料を集めてみた。

 

★昭和31(1956)年7月 歌舞伎座

小巻に歌右衛門、助国に幸四郎 役名そのまま

「花台(はなのうてな)蝶道行(ちょうのみちゆき)」の外題

筋書 渥美清太郎の寄稿

作者は並木五瓶で「けいせい倭荘子」といい、助国小まき二人の首がお尋ね者の若殿と姫の身代わりになると言うのは、ずいぶん古い筋ですが、今から200年も前の上方ではやむをえません。次に小まき助国が蝶になって狂いの道行があります。文政元年、大阪で人形化したとき、やはりこの道行がついていて、むろん義太夫で鶴沢勇造の作曲で今に残りました。この義太夫の道行は、心ある舞踊家が目をつけてニ、三度会で復活いたしましたが、東京の大劇場での歌舞伎踊としては今度が初めてであります。

 

演劇界 利倉幸一

チョボを地にした貧しさは舞台にこたえている、こういう古い踊の復活はもっと準備もし、入念な仕事をしなくては、山口蓬春の美術ぐらいでは持ちこたえられるものではないようだ。

 

演劇界中 舞台美術評 尾澤勝三

竹本の浄瑠璃で忘れられたものの復活だと言う。この世の人でない若い男女の姿を野辺にうつつなき蝶の姿に見るというのだから詩文の境地、舞踊にもってこいと思えるが、劇的な展開もなく、心理的な変化も少ない。人間の形はやはり蝶の姿ではないし、昔の浄瑠璃の文句について踊るとなると、古いものを新しくさばいてと意図してみても、実はなかなか厄介である。美術は山口蓬春、背景は昼とも夜とも、この世ともあの世ともわかぬ空の色、舞台との境は草の花の種々でぼかされて、上手よりがやや小高く丘となるがそれも草隠れ、余計なものは何もない。品もあり、ハイカラでもある装置である。男は前茶筅の鬘、お納戸地露芝模様の着付着流し、白地薄物の羽織に金箔押しは蝶らしい。女は高島田薄藤色のぼかし振袖で帯は金と赤の色彩の強いもの。とき色のしごき。柄は小田巻(小巻を割ったシャレと看破)

 

幕間 松本幸四郎

所作事の義太夫地

歌右衛門さんと「蝶の道行」という所作事をやって、私は助国ですが、これは一度も歌舞伎の舞台には出ていない狂言で、昨年「幕間」の舞踊会に出たのが良かったからと関さんのお勧めもあり、今度出すことになったのです。その時のを見ていられる藤間勘十郎さんに振付をお願いしましたところ、なかなか結構な振りをつけて下さいました。その点は有難いのですが、地の方がちょっと困ったことになって弱っています。というのはこれは義太夫地の踊りで、振付は文楽の綱太夫さん弥七さんの録音されたテープによって考案されたのですが、従って文楽座の方々に特別出演してもらうことになればよかったのに、都合でチョボの人達になったので、どうもうまく合いません。同じものを同じ譜でやるのですが、文楽の人とでは間やイキの微妙なところがどうも違うのです。芝居の床語りと違って純粋の義太夫節となりますと、こうも違うものかと今さらに両者の修行の違いなどを感じたり、こんなことなら始めからチョボの人達の義太夫から出発した方が、まだましな結果になったのではないかなどと思ったりしています。とにかく折角いい振りを考えてもらったのに、実に惜しいことです。

 

戸部銀作

舞踊会で一度見てなかなか面白いと思ったが、現在は筋がわかるのが先決だから「蝶の道行」だけを上演して煙に巻くより、意味をわからせるためにも軍次兵衛住処をつけるのが親切だ。振付は勘十郎だが例の綺麗事の気分本位で感心しない。

 

資料を読む限りでは、衣装の引抜きなどはまだ無かった様子。

舞踊会などで知られてはいても誰も歌舞伎の興行で観たことがない演目という事で演者も評論家も遠慮がない。この時代の文楽座と歌舞伎の竹本(チョボ)の格差というのは武智演出の際の劇評でも度々言及されている。

 

★昭和35(1960)年3月 明治座 再開場二周年記念

小巻に歌右衛門、助国は中村藤太郎

明治座筋書に載ったスチール写真 苧環(小田巻)の柄がよく分かる。

 

舞台写真は演劇界や幕間のもの

 

雑誌幕間では表紙になっている

 

筋書 立石隆一

歌右衛門好みの舞踊。「蝶の道行」は義太夫で文楽の残っているものだから、歌舞伎に役者はあまり手がけていない。おそらく8年前だったか歌右衛門と幸四郎が藤間勘十郎の振付演出で上演したのが、役者のものとしては最初になるのではないかと思う。筋は助国という若い侍と小まきという郷土の娘、この相愛の二人が身替に殺されたが、その魂は抜け出して花園を飛び交う女蝶男蝶となって仲睦まじく道行するというもので、初めから蝶々になって出るのと、もう一つは最初が若侍と娘で、あとになって蝶々に引き抜く演出法と、二種類のものが現在行われている。今日上演のものは、その前者の演出法をとったもので、初演の時には女蝶男蝶が手をつないで、セリであがる演出だったが、こんどは女蝶花道へ舞い進んで、スッポンから男蝶を呼び出す、という新しい演出で見せる。蝶といえばすぐ春を想像するが、これは秋の蝶だから、最後は落ち入ることになる、という作者のしゃれた狙いが含まれている。だからノチの狂い、責めになってからの追い込みの曲は見事なもので、文楽特有のとても早い、凄みさえ覚える名曲で、これに踊りがどのようにうまく乗るか、というところが面白い見どころでもあり聞きどころといえる。

 

演劇界 立石隆一(筋書と同人なので重複が多い)

「蝶道行」は秋草の咲き揃う花園に大きな三日月という装置。振付は〽︎なわしろにせきとめられし恋仲も…の処など、大胆で古風な面白いフリを見せ、小巻の持つ扇と助国の持つ刀を交換して、一人づつで踊る〽︎坂はてるてる…の前後のフリも、踊りでは〝ここぞ〟とばかり見せる演技術の箇所だけに力の入ったフリで見応えがする。そのあとで唄はなく四人の三味線だけで文楽特有の早間の曲になり、狂い、責めになる肝心のところだが、これが当日の地方は期待したほどのものではなく、太棹の音色からくる凄味さえ覚えるような盛り上がり感じられなかった。秋の蝶が消え入るように両人が、花に宿る蝶の風情のフリで幕にしたのは賛成である。演技力のうえで藤太郎が舞踊家の芸から役者の芸になってきて、歌右衛門との呼吸もよく合っていた点は進歩である。

 

幕間 加賀山直三

数年前、歌右衛門が幸四郎と出した人形景事の古舞踊復活作の再演である。古舞踊とはいいながら、演出全般は新舞踊的だ。秋の蝶の淋しさと凄涼感が歌右衛門に適まっているのは先年の通り。線の細い「鷺娘」とでもいうべきか。鷺娘系の歌右衛門といえばそれで片付こう。小品として見れば一応の感銘はある。藤太郎の助国が勿論弱いけれど、押し出しが存外よく、さして見劣りのしない外観をもっているのはえらい。併し気のせいかこの一幕全体が歌舞伎舞台よりは舞踊会じみた感じに見えたのは微苦笑的だった。

 

明治座での歌右衛門の相手役は中村藤太郎 現東蔵の兄で初代藤間紫の弟

東蔵同様、歌右衛門預かりで役者をしていたが後に舞踊家に。

 

★昭和41年4月 大阪新歌舞伎座

37年6月の武智鉄二演出による通し狂言を経て、藤間勘十郎振付での

上演は減っていく中での上演。

小巻に雀右衛門、助国は三代目猿之助

 

演劇界 大鋸時生

在りし日のなれそめを語り合う前段に主題に似合う清楚な花があるが、後段の責めになると力量不足の形となった。山台が渡米文楽の留守軍なのが影響したのかもしれない。なお花道からセリ上がった瞬間の猿之助の横顔に故猿翁の面影がダブったのに興味を持った。

 

武智演出では文楽座の特別出演を請うていて、この時も文楽座が出張っているものの

劇評では辛い点が付いている。

構成や演出、衣装の変化など詳細はわからず。

 

★昭和59(1984)年3月 歌舞伎座花形歌舞伎

小槙に玉三郎、助国に片岡孝夫

この舞台写真の姿は、令和7年の上演と近しい

 

筋書 土岐迪子の聞き書きから

玉三郎

お稽古だけしたことはあるけど、舞台では全く初めてです。勘十郎先生が孝夫さんと僕とに考えて下さいましたけれど、大根は先生が初めてお作りになったものをそのまま踊らせていただきます。

孝夫

巡業で秀太郎兄さんと踊りましたが、花柳流でしたからね。これは覚えないとどうしようもない。三月公演はいつもそうだけれど、特に稽古日数が少ないのが悩みの種です。

 

演劇界 志野葉太郎

咲太夫、清治以下の文楽連中の物凄いヴォリュームに圧倒される。この踊りをはじめて見たのは昭和14年文楽の出開帳公演の時で、優れた節付と人形の奔放自在の動きの面白さに感嘆した記憶がある。夢幻的世界の展開はこの時が一番だったように思う。短い中での変換の激しいのが好まれてか戦後歌舞伎その他で盛んに採り上げられるようになったが、義太夫の余りにもスピーディな躍動感が歌舞伎舞踊として味わうには余りにも強すぎて、個人的好みを云っては申し訳ないが余り興味を引かなかったため、細部についての印象は余り残っていない。通しで上演してからは川口秀子振付が一般的となったが、今回はそれ以前に歌右衛門が二回演じた時の勘十郎振付。前者は新舞踊的味が濃く、それはそれで面白かったが、後者は地獄の責苦の部分を除けばそれほど新舞踊的ではない。振りでは引抜いて明るくなってからの万歳、馬子唄の部分も悪くないが、前半の昔を思い出し田圃の生活を謳う部分が抒情味があって面白かった。こういう踊りだけに孝夫、玉三郎には向いており、とにもかくにも美しいので見ていて楽しい。

 

たまたまネットで見た舞台をそのまま書くと

幕開き、義太夫のオキがあって正面セリから小槙の出

花道へ迎えにいくとスッポンから助国が出る。黒地に裾と袖に薄藍の雲

秋草の柄、助国は同じ柄の羽織(薄物ではない)、小槙の帯は朱色。

全体に暗く背景は水辺か夜明け前の秋の風景、竹林が見える。

途中で助国が羽織を取り(初演時のような片掛けにはせず)

引き抜きで水色とトキ色に。背景が飛んで明転。

書割は秋草の吹き寄せに(令和の舞台では見た四季替りはなし)

後段になり狂いで両脱ぎになって紋白蝶に。花道へ行く間に中割が飛んで

上手に丘、下手に松に三日月の装置に変わる。

二人椀久よろしく再度出てくる羽織は、最前のもの。

丘へ上がり落ち入る際は、女蝶が先に仰向けに倒れるが

そこへかぶさる男蝶を迎えながら幕が降りる。

 

★平成9(1997)年7月 大阪松竹座

小槙に孝太郎、助国に染五郎(現幸四郎)

引抜いてから、肌脱ぎをして落ち入りの衣装になるが

令和7年の衣装と比べるとかなりビビッドである

 

演劇界 植田正弘

(抜粋)ただ、足拍子が蝶の羽にも似た透明感を濁らせて、耳障りではあった。

 

令和7年の筋書では、勘十郎の振付を採った理由などはなく

出演者への聞き書きでも演出への言及はなかったが縁があることは分かった。

現藤間宗家の八世勘十郎の意向などもあったように聞く。

昭和43年5月30日

歌舞伎座で開催された〝猿若明石披露舞踊会〟

前田青邨表紙

 

中村勘三郎が名乗る猿若流宗家の、由緒ある舞踊家名跡

猿若明石を六代目として襲名したのは新派女優の

波乃久里子(当時は波野)

その披露演目として新しく作られた作品が「爪王」で

戸川幸夫作、平岩弓枝脚色、杵屋六左衛門作曲、藤間勘十郎振付

 

鷹 猿若明石(久里子)

狐 真帆志ぶき

鷹匠 市川猿之助(三世)

村長 中村錦之助(後の萬屋錦之介)

 

山に吹雪という白鷹を遣う鷹匠あり

老練な赤狐を狩るが、初戦では吹雪が敗れる、が

厳しい訓練の後の再戦で見事狐を倒す

という鷹と狐を擬人化したファンタジー性の強い新作舞踊。

 

プログラムに載った 吹雪の扮装

 

3年後の7月、歌舞伎座の七月特別公演でひと月本興行で上演された

昼の部は三世猿之助が、猿之助の名跡が誕生して途切れずに

100年が経ったという記念の奮闘公演。

夜の部は十七世勘三郎と初代水谷八重子による新派合同公演。

 

夜の部の打出しが「爪王」で

鷹と狐は、初演の波乃久里子と真帆志ぶきが続演

庄屋は安井昌二、鷹匠は父の勘三郎が勤めた。

〈筋書の舞台写真、演目ページの挿入写真〉

〈演劇界〉

 

真帆志ぶきは当時宝塚歌劇団在籍中で

この公演での扱いは〝特別参加〟事前に記者会見も行われた旨の

トピックが筋書に載っていた

〝3年前に波乃久里子が猿若明石を襲名したときに初演されて好評だった

「爪王」の再演にあたり初演と同じ狐の役に乞われて特別参加する

ことになった真帆志ぶきの記者会見が行われた、鷹を演じる久里子も

出席して和やかな一夕を過ごした〟

結果〝スータン〟ファンも歌舞伎座へ押しかけ、「中村屋!」「スータン!」

のかけ声合戦と相なった由。

 

約40年が経ち、第四期歌舞伎座のさよなら公演2年目の2010年2月

十七世勘三郎の二十三回忌の追善興行で勘九郎の狐、七之助の鷹で

歌舞伎舞踊として復活。話を持ってきたのは古参弟子の小山三と聞きました。

鷹匠は弥十郎、庄屋は当代の錦之助で初演に所縁

 

4年後2014年12月、京都南座の顔見世で兄弟による再演

舞台写真から、衣裳や演出に変更があるように見える

 

南座での公演から9年が経ち、2023年12月に歌舞伎座で

中村屋兄弟での上演予定、今年脚本を担当した平岩弓枝が

逝去したことも演目制定の理由だろうか。

中村屋所縁の舞踊演目も多くありますが、この「爪王」も

兄弟によって定番の演目となりました。

十七世がいずれ制定しようとしていた〝舞鶴十種〟の類が

今後決められるとしたらきっと「爪王」も候補に上がるでしょう。

令和5(2023)年7月、松竹座で「吉原狐」が3回目の上演。

吉原随一の人気芸者おきちは、早とちりゆえに失敗ばかり、また、落目の男を見ると狐憑きのように惚れてしまうという悪い性分で、いつも周りを巻き込んで引っ掻き回している。

 

再演時、平成18(2006)年8月 歌舞伎座

筋書の聞き書き

幇間十寸見東作の片岡亀蔵

「吉原狐」が初演されたのは生まれた年のこと。今回はそれ以来の上演となる。

「そういう芝居があることも知りませんでした。ただやっぱり中村屋のお弟子さんは覚えてらっしゃいますね」

 

小山三や千弥ら中村屋の古参の弟子が初演と再演どちらにも出演している

平成18年の配役表

 

昭和36(1961)年1月 歌舞伎座での配役表

初演には歌江や先代の吉之丞(当時万之丞)ら懐かしい名前も。

 

舞台写真の見比べ

平成18年 孝太郎の隣に付いている新造が千弥

お馴染み小山三も演劇界の舞台写真に写り込んでいる

 

昭和36年

さて、古い写真です。誰が誰でしょう…

 

初演の筋書から

〝心配と安心〟 村上元三

芝居や小説を書くときの着想などと言うのは、ひょっとした時、とんでもない事を思いつくもので、私が中村勘三郎の芸者を書こう、と考えたのは、もうだいぶ以前のことになる。

中村吉右衛門在世のころで、「伊勢音頭恋寝刃」の福岡貢が吉右衛門、お紺が中村歌右衛門、お鹿が勘三郎という配役で上演された時の、勘三郎のお鹿はそれまでのお鹿の演出とは全く異なったもので、哀れで、現代人にもよくわかる人間として演じていた。それに数年前、「夏祭浪花鑑」のお辰という素晴らしい演技を見てから、ますます私は勘三郎の芸者を描きたくなった。

もちろん、お鹿やお辰とは違う型の、わたしなりに創作をした女で、ユーモラスな味を加えた芝居にしたい、と考えたが、別に筋立てもまとまらず、いつ書こう、と言う気も起きずにいるうちに、今度の機会が来た。

この「吉原狐」という新作には、かつて私が書いた小説の一部が入っているが、それもほんの一部だけで、小説とは全く違った形になっている。

現在の吉原と言う土地を、若い人たちは知らないに違いない。関東大震災を境にして、古い頃の吉原の俤というものは全く失せてしまったと言うし、私の知っている吉原の無形文化財とも言うべき桜川忠七から、参考になる話を聞いた。

初めから、勘三郎を吉原の仲之町芸者、その父親を幸四郎、と言う設定で書きはじめたので、そのほかの配役にも、私の我儘を通してもらった。

この芝居が、若い人たちにどういう風に受け取られるか、それが心配だが、わたしの狙いは、なにも面倒なものではない。観終わった人たちの胸に、ほのぼのとしたものが残れば成功、と思っているし、勘三郎と幸四郎の演技力なら、それが十分に出せる、と作者は安心している。

 

雑誌幕間に載った富十郎(当時鶴之助)の聞き書き。

「おえんは、中村屋の兄さんと膝を引っ叩き合うだけですが、兄さんは、これは自分の役と対等の芸者だから、気がねをせず思い切って叩け、といわれますが、これも大先輩を相手ではどうしてもそんなに手が動きません。おえんは吉原の芸者ですが、吉原の芸者に限っては、右の褄をとり、玉かんざしも挿し方ちがっていて、必要な時には直ぐ抜けるようになっているのだそうです。これに出して頂くことになったのは、作者村上元三先生のご指名なのだそうですが、これは私の太っちょなところがお目当てのようです。でも私としては実に光栄です。毎日これに出るのが楽しいくらい、実に楽しい芝居です。おえんは江戸の芸者らしい、すっきりした気性の女というつもりでやっています」

(このインタビューは初日が始まってからの貴重なもの)

 

平成18年では そのおえんにやはり立役の

橋之助(現芝翫)で、喧嘩相手のおきちは兄の福助

「ちょっとした役かと思ったら兄とのからみが結構多いんですよね。僕、女方ってほとんどやっていないんです。三津五郎のお兄さんや兄に教えを受けながらつとめます」

 

福助

この年の4月に96歳で長逝した作者村上元三

「先生には本当にお世話になりました。追善の気持ちを込めてつとめさせていただくつもりです。おきちはとっても優しくていい子なんだけれど、そそっかしくて…。村上先生ならではの、江戸の人たちの機微が描かれた素敵な作品ですよね」初演は十七世勘三郎のおきちに、初世白鸚の三五郎という配役だった。「斎藤先生に少し台本を整理していただき、三津五郎兄さんと平成の「吉原狐」をお目にかけたいと思っています。新作のつもりで、でも江戸の風情は忘れずに…」

 

令和5年の松竹座では

平成18年に出演していた幸四郎や扇雀、孝太郎らが役を変えて出演して

芝居を伝えてゆく。

「鬼一法眼三略巻」の四段目「一條大蔵譚」は現在檜垣と奥殿がセットで上演される事が多いが、その間に「曲舞(くせまい)」という場面があって、戦前では初代吉右衛門と六代目菊五郎双方が演じ、戦後は十七世勘三郎、三代目猿之助、当代猿之助が演じている

 

一條家の乗っ取りを企む播磨大掾広盛と一條家の奸臣八剣勘解由が結託して大蔵卿を殺そうとするところを、舞に寄せて難を逃れ、ついでに広盛を嘲弄。後の奥殿の場で勘解由が突然出てくる伏線を見せる場面である。


その広盛へのイタズラに関して過去の資料で色々と書いてある部分を上演順にまとめてみました。同じタイミングのしぐさを説明しているのか不明な点もありますが、原文そのままで載せます。想像してみてください。

 

昭和30年6月 演舞場

(演劇界より)

三宅三郎の劇評(一部)

「曲舞」になると猿舞の唄の「松の葉越し」の勘解由と上下で極まる所「船の中には」の坐ったしぐさなど、単なる踊りの巧さではなく役の根元の性根を忘れない。菊五郎はむろんこうした所も巧かったが、広盛が切りかけてくるのを、どうしても刀を抜かせないしぐさが、特徴で巧緻だった。そして広盛を見送ってから大いに笑うのも巧妙であった。勘三郎も笑うことは笑うが簡略だ。

 

勘三郎の芸談(一部)

大蔵卿は殆んどそっくり兄吉右衛門の型で演っています。衣裳もだいたい同系統で同じといっていいのですが、唯序幕の長絹だけは白で、私はこの色が好きなので、特にこれだけは変えているのです。もう一つ違っているには奥殿の物語で、兄はそこ迄の眉を消して眉尻をあげて強くし、目はりもきつく描き直していたのを、私はずっと最初のままで通しています。これは岳父(菊五郎)もそうで、岳父は、何も人が変わった訳じァないんだからという建前なのです。檜垣でも曲舞でも、一才阿呆で通し、唯無心に、大らかに遊んでいる心で芝居をし、本性は全然見せません。広盛を揶揄する饅頭の件は、皮をつまみとって丸めてのませるのですが、以前は鼻糞をほじくり、丸めてのませたので、余りに汚い細工なので、兄が今度の様に改めたのだそうです。曲舞は随分長い間出なかったので、私は薄々しか覚えていませんでしたが、幸い吉之丞が全部すっかり覚えていてくれたので助かりました。この人の物覚えの良いのには全く驚き感心しています。

 

昭和41年1月 歌舞伎座

大蔵卿は勘三郎、播磨広盛は十三世仁左衛門

(上の2枚は筋書より)

(この写真は猿之助が上演した時の筋書に載っていた)

 

平成2年2月 大阪新歌舞伎座 三代目猿之助の大蔵卿

演劇界に載った林京平の寄稿

「一條大蔵譚」という外題は、「鬼一法眼三略巻」の四段目が独立して上演される時に用いられる。試みに「歌舞伎年表」では明治15年7月の市村座で九代目團十郎が演じた時を初出とする。團十郎はいわゆる活歴式に演じ「今様の所作」、即ち曲舞の部分に新しい試みをした。あくびをする広盛の口の中へ鼻くそを丸めて入れるやり方だったのを、いくら作り阿呆とはいえ、公卿の振舞いとしては余りだというので、菓子の上にとまった蝿をつかまえ、羽根をもいで耳の中へ入れるというやり方に改めたという。初代吉右衛門もこのやり方を継承している。年代記には「此方或ひは宜きかも知らんが槐門高貴の御館なるに座敷の菓子器に蝿が来てとまるといふもチト可笑な事」とある。

 

 

平成8年7月 歌舞伎座

三代目猿之助の大蔵卿、段四郎の播磨、弥十郎の勘解由

筋書のあらすじ(一部)

思うようにならずあくびが出てしまう広盛の口へ高坏の菓子をねじ込むなど、からかわれ通しで、ほんに大蔵卿のすることは、正気かうつけなのか分からない。暗殺は失敗に終わり、頭にきた広盛はそそくさと帰ろうとするが、大蔵卿はそれを呼び止め「そちの印籠が開いていたによって」と丸薬を差し出す。印籠に戻すも面倒と口に入れたが、この丸薬も大蔵卿の鼻くそ。からかわれたと知って睨みつける広盛の目線を扇で遮る大蔵卿「麿よりよほど阿呆じゃのう」と高笑いが館に響く。九つ刻を知らせる時計の音。常盤御前が楊弓を始める頃合い、「果報は寝て待て、うまいものは宵に喰え、言いたいことは明日言え」と狂言に魂奪われたかのように見える大蔵卿は、お京を従えて部屋を出ていく。

 

 

平成16年8月 第3回亀治郎の会(京都芸術劇場)

演劇界の劇評(一部)

地は従来「猿舞」だったが、今回は「外記猿」を使用。振りも藤間勘吉郎が新しくつけた。あくびをした広盛の口へ大蔵卿が饅頭を入れたりする。幕切れは広盛、勘解由を本舞台に残し、大蔵卿が花道を引っ込む。広盛に丸薬を渡して嘲弄する吉右衛門型の場面はない。

 

平成21年1月 浅草公会堂

演劇界の劇評(一部)

大蔵卿と広盛と勘解由の連舞のなかで、間に入った亀鶴の勘解由が見事なトンボを返る。中に友切丸を隠してある靱を枷にした振りはなく、ここではほとんど肚を割らない。

 

前月号で特集された浅草歌舞伎のインタビューから

亀治郎

亡くなった中村屋さんとうちの猿之助の伯父がやっているくらいで、最近はほとんど出てないですよね。「檜垣」だと大蔵卿がお京を召し抱えた経緯がよくわかる。「曲舞」だと勘解由と広盛のつながりとか悪人方のことがよくわかる。また「奥殿」で勘解由が登場した時も唐突な感じがしないという利点もあります。大蔵卿に関しては舞の部分であまり底を割ってしまうと「奥殿」が面白く亡くなってしまうので振りで見せたいと思っています。

 

令和5年3月 国立劇場での配役予定は

又五郎の大蔵卿、橘三郎の播磨広盛、片岡亀蔵の勘解由ほか

どの型を採用するかは見てのお楽しみです。

令和4年11月の「矢の根」の大道具が播磨屋型で、

いつも見る富士の裾野の遠景でないのが新鮮。

筋書で五郎を務めた幸四郎が

「父も勤めていない役です。二年前に上演される予定だった時、叔父(二世吉右衛門)に教わるつもりでいましたけれど、教わることが叶いませんでしたので、この役を叔父から唯一教わっている歌昇さんに教えていただきました。荒事を実感していただけるお芝居にできればと思っています」

と語っている。播磨屋型が具体的にどうこうという記述はないが、

舞台写真などの見比べて分かる道具の違いは三点。

舞台背景が羽目板

庵室の背面に金地に富士の障壁画

三本刀が刀掛けに掛けられている

 

過去の資料からご紹介します。

 

平成27(2015)年3月 南座花形歌舞伎

歌昇の五郎

五郎 歌昇

歌舞伎十八番の内「矢の根」では曽我五郎時致に取り組む。「荒事の中でも大きなお役だと思います。演らせて頂けることが光栄です。1729年の初演以来、荒事を得意としてきた方々によって受け継がれてきた、様式美が詰まっている作品。型が決まっているものですので、播磨屋(吉右衛門)のおじさんにしっかりと教わり、荒事特有の大らかさや溌剌とした姿、活発さといったものを、少しでも出せるように勤めていきたいと思います」

 

十郎 種之助

「歌舞伎十八番は歌舞伎の代表作で、多くのお客様がよくご存知の演目ですから、我々の世代だけで演じることが最大の挑戦だと思います。弟の五郎が兄(歌昇)なので、本来とは逆転している配役です。兄である十郎の落ち着きや、柔らかさも大切ですが、あまり柔らかくなり過ぎないように、父親の仇討ちを願っている芯の部分を、しっかり守って勤めたいと思っています」

 

大薩摩文太夫 隼人

全て初役。宝船の絵を持参する大薩摩文太夫に取り組む。「本来なら先輩方がなさるような芝居を締める役だと思います。歌舞伎十八番に出させて頂くのは初めて。雰囲気を大事にしながら、きっちり勤めたいと思います」

 

演劇界の劇評(一部)

〝本舞台で五郎がその馬に乗るのが素早く機敏な動きで盛り上がった〟

とあるのが令和4年11月の幸四郎の五郎と重なり、この辺も播磨屋型なのかと推測できる。

 

昭和53(1978)年4月 歌舞伎座

吉右衛門の五郎

筋書の吉右衛門の聞き書き

「矢の根」の五郎は好きな役ですが、こういう歌舞伎十八番は、やればやるほどむつかしさが増してくるのは不思議なものです。若さ、力強さ、色気などを出したいと思うと、どうしていいか考えこんでしまいますし、舞台は天衣無縫に見えないといけない、本当にむつかしい役です。

 

同年12月の京都南座での顔見世でも演じた

 

手元にある過去の舞台写真などずいぶん調べたが、はっきり播磨屋型と

分かる上演は上記の三名以外になく、また〝矢の根の播磨屋型〟という言葉自体を

見つけることが出来なかったので珍しさではかなり突出しているのではないだろうか。

 

参考に従来型(十八番であるから成田屋型か?)の代表的な道具の写真を 

背景が抜けていて、富士の遠景、刀が朱の下緒に掛けてある

(ただし、両側が網代塀などの変則も多く見る)

 

以後の上演でどの型を取るか、新しい視点を知る機会を得ました。

昭和60(1985)年 4、5、6月の三ヶ月に渡る大興行

表紙絵は四月が平山郁夫、五月が小倉遊亀、六月が守屋多々志

題字も各氏が揮毫している。

 

四月の後半の筋書に載った口上のページと舞台写真から

美術は前田青邨の荒磯の図柄、青邨は昭和52年に92歳で没しているが

前田家は團十郎家と懇意で十一代目の襲名時の美術を再現している

翌月の筋書にカラーの舞台写真が載った

 

五月は牡丹の図柄で、美術は加山又造

同じく翌月にカラー写真が載った

五月の舞台写真から〝にらみ〟

 

六月は山並みに富士の図柄。美術は表紙と同じ守屋多々志

(見開きページは中央が見づらいのが難点)

四、五月に比べるとひと世代若い座組である。

残念ながら翌月は襲名興行ではないのでカラー写真がない

赤富士かなと想像するがどうだろうか。

 

三ヶ月とも筋書には最前列の幹部俳優の並びのみ記載で

二列目、三列目に控える門弟の並びは分からず。

 

ちなみに、歌舞伎座の筋書に載る舞台写真がカラーになったのは

昭和63年の正月からである。

昭和37(1962)年4月、5月

九代目没後、空位になっていた團十郎の名跡が復活

(十代目は十一世の養父三升へ追贈)

筋書は4月、5月と同じ物で表紙絵は前田青邨、題字は佐藤栄作

4月と5月の区別は、5月の表紙の左下に印が入った。

ちなみに舞台写真が入る前と後のデザイン上での区別は当時は有りません。

 

4月の舞台写真が入る前の筋書の口上のページに載った

公演に先立って開催された〝市川團十郎襲名大興行顔寄せ手打式〟の様子

この時に口上の席次が書いてあるのだが

舞台写真が入った後半の筋書と並びが変わっている。

 

巻頭の舞台写真ページに一列目の幹部の名前が載っている

この口上の舞台写真を見ると並び順がどちらの筋書とも違っています

さらに昭和60年の十二代目團十郎襲名の筋書に載ったカラーの舞台写真だと

また並びが変わっていて、これは後半の筋書の席次と同じように見えます。

ひと月の中で、出演者や並びが変更されたことが分かりますが

それが何日から、というのは不明。

 

こちらは5月の前半の筋書に載った、前月の舞台写真というページから

4月の口上の手打ちの様子

一列目、左から左團次、寿海、松緑、新之助、團十郎、翠扇

これは4月の後半の筋書の席次と一緒。

 

襲名二ヶ月目、5月の後半の筋書から口上のページ

前月と出演者が変わり、並びも変更されている。

筋書の表紙絵同様、舞台美術も前田青邨の同じ物が使われている。

舞台写真のページには〝にらみ〟の全景と寄りが。

37年の十一代目團十郎襲名では、2列目に御曹司以下、3列目、4列目には

市川姓の門弟がズラリと居並ぶ壮観な口上でした。

九代目の血統の翠扇が女性ながら口上に並んでいるのも珍しい光景です。

昭和5(1930)年5月20日生まれ

9歳の時に女歌舞伎の子役で舞台を踏み、やがて大歌舞伎へ

戦前から営々と芸歴を重ね本年(2022)、92歳で矍鑠と

舞台に立ち続ける二代目寿猿の軌跡を手持ちの筋書で

追いたいと思います。

 

昭和32(1957)年4月 歌舞伎座

名題昇進 喜太郎→喜猿へ改名

鮮やかな「春蘭」は向井久万画伯の作

 

最下段。二代目猿之助(後の初代猿翁)の門弟、喜太郎の名題昇進に伴い喜猿へ改名する旨の挨拶文。当時の寿猿は26歳。上段は二世猿之助の孫で今の段四郎初舞台挨拶。

 

巻頭に付いていた香盤では

「血笑記」の会津藩士伊予田大三郎

「鈴ヶ森」の雲助 御殿山の作

「祇園祭礼人山鉾」の舞子鹿の子←この役は演目頁に記載がない

 

昭和50年7月 歌舞伎座

初代猿翁、三代目段四郎十三回忌追善

喜猿→二代目寿猿を襲名

襲名の挨拶文、隣は現右團次の部屋子東京披露。

この時、寿猿45歳

筋書に載った舞台写真にも名入りで写っている

他にも「弥次喜多」の大政小政の小政

「颶風時代」の山尾康三 で出演

そして「口上」にも列座している

 

寿猿襲名から25年経ち

平成12(2000)年7月 歌舞伎座 

七月大歌舞伎連続三十年・猿之助百三十年記念

幹部昇進 寿猿70歳

幹部昇進を説明する文章はどこにもなかったが

聞き書きの欄に同じく弟子系の幹部中村歌江と並んで掲載

 

舞台写真

「鎌髭」鹿島踊り琴作、実は渡辺源吾能綱

「四の切」川連法眼

「宇和島騒動」千寿

他に「黒塚」の後見に名前が載っている

 

巻末に載っている出演者紹介の写真が幹部扱いに

 

それまでの平名題の時の筋書(平成11年12月のもの)と比べると…

寿猿が25年間宣材写真を変えていなかったのが分かります。

懐かしい面々も写っています。

 

それからさらに22年経ち、前人未到の領域に立とうとしている

寿猿丈のますますの活躍を願っております。(令和4年8月)

七代目梅幸の著書「梅と菊」から〝裸足で雪の庭を歩く〟

大正13年5月、市村座が復旧したので父(六代目菊五郎)はまた古巣の市村座に戻った。そして翌年3月の市村座で「鼠小紋東君新形」の鼠小僧を上演することになり、私は子役の蜆売り三吉の役をふられた。これは黙阿弥の作で、三吉の姉の芸者おもとが盗人に百両の金を取られた刀屋の新助と心中しようとするところを占者稲葉幸蔵、実は鼠小僧に助けられたので、三吉は鼠小僧とは知らず雪のなかを幸蔵の家を訪れる場面がある。初日前にここを柏木の家で父に稽古してもらったことが忘れられない。

その日は偶然朝から雪が降り続き、広い庭の植木や築山は白一色、折から筑波おろしがビュービュー吹き荒れているのが、夜目にも座敷のガラス戸を通して浮き彫りにされている。座敷の隅には祖母、母、弟子の鯉三郎が正坐して見守るうち、「月雪花のそのなかでも雪にまさる眺めはない。野も山も白妙に限りなき銀世界…」書抜きを手にした父が占者実は鼠小僧のせりふを読み上げたあと「おい誠三、三吉の出だ」その声に「ハイ」と言って私は揚幕から花道へかかる心で座敷の隅へいき、そこから寒そうなしぐさで歩きはじめた。とたんに父が叫ぶ。「おっといけねえ、もういっぺんやってみな」私はまた隅から歩き出す。「ダメだ、やり直し」何回繰り返しても父は首をタテにふらない。十回ぐらい繰り返したころ、ついに父の雷が落ちる。「バカヤロ、そりゃあ畳の上の歩き方だ、おめえの役は蜆売りの三吉だぞ。刺し子の筒っぽを着て、紺の腹がけにひざの切れた股引をはしょった草鞋ばきの蜆売りという役が、全然ハラに入ってねえじゃねえか。おれがやって見せるからよく見ておきねえ」そう言いながら子供が雪のなかを寒そうに歩くしぐさをたくみにやってのける。相撲取りのような大きな父が子供のように小さく見えて、それはまさに蜆売り三吉そのままで、居並ぶ祖母たちまで惚れ惚れと見とれている。「もういっぺんやれ」という声に促されて私は半泣きで繰り返す。「いけねえ、いけねえ」じれ出した父は庭の雪に気づき、裸足になって雪のなかを歩けといい出す。見かねて止めようとする母に「おめえは芸のことに口出しするな」と一喝したかと思うと、ガラス戸をさっとあけて私は庭へ突き出されてしまった。十歳の子供とて情け容赦はないのだ。私は涙をぐっとこらえて北風が吹きすさぶ庭の雪の上を裸足で歩いた。十歩も歩くと寒いというより痛みを感じた。二分ほどたつとすっかり足の感覚がなくなる。それでも苦しさをこらえて庭の隅から隅まで歩いた。五分…十分…十五分…どうにでもなれという気になってくるうち、父の許しが出たらしく鯉三郎が戸をあけて私を呼んでいる。私がぞうきんで足をふいて座敷へ上がるやいなや、母は涙を浮かべながら「誠三」といって私を抱きしめる。「まあ、こんなに足が赤くはれ上がって…寒かったろう」そういって私の足をあたためようとすると、父は「おい誠三、おめえはそのままでもういっぺん歩いて見ねえ」という。母は足をあたためてからというのに、父はあたためてからでは気分が元へ戻るからそのまま歩けという。私は死ぬ気になって畳の上を歩く。「おおできた。そのイキでやるんだ。いまの気持ちを決して忘れちゃいけねえぜ…誠三、さぞ寒かっただろうなあ」もう一度歩こうとする私を引き止めて、ぎゅっと抱いてくれたその時の父の暖かい感触はいまでも覚えている。母がたらいに熱い湯を入れて持ってくると、父は「ぬるま湯からだんだん熱くしてやれ」といって、水を足したぬるま湯で私の足をもんでくれた。母の心尽しの暖かいうどんを食べて正気を取り戻した私に父がいった。「まだ子供のおめえにいっても無理かもしれねえが、人間骨惜しみをしちゃあならねえ。今夜はつらかったろうが、これから先雪のなかを裸足で歩いたことがどれほど役に立つか知れたもんじゃねえぜ」

 

以上は、平成5年3月国立劇場で上演された黙阿弥の「鼠小紋春着雛形」いわゆる「鼠小僧次郎吉」の筋書に転載された梅幸の有名な六代目菊五郎からの幼少時の稽古のエピソードですが、この「鼠小僧次郎吉」が令和4年2月歌舞伎座で上演される。配役予定は鼠小僧稲葉幸蔵に五代目菊之助、蜆売り三吉に七代目丑之助。今回はこの作品についてご紹介します。

 

筋書から

河竹登志夫 監修のことば

大正14年六代目菊五郎が演じて以来、68年ぶり。初演は「鼠小紋東君新形」の題で1857年1月江戸市村座、名人と言われた四代目小団次の主演。黙阿弥かぞえて42歳、小団次46歳、心技ともに充実した二人の合作といってもいい。明治になってから、この狂言は五代目菊五郎によって復演された。大正に入り、さらに六代目によって継承される。が、それは5年と14年の2回だけ。以来なぜか上演されていない。

しかも記録によると、再演以降は通しではなく、鼠小僧またの名稲葉幸蔵と父親が再会する「辻番」の場と、蜆売り三吉や、盲目になった松山太夫と娘みどりの哀話のからむ「幸蔵内」の場を主とした、いわば〝見取り〟だったようだ。

 

津田類の寄稿 狂言豆知識

五代目菊五郎13歳のとき、「鼠小僧次郎吉」初演時に蜆売りの三吉を演じ、主役の四代目小団次以上の名演技を見せて喝采を博したというから、栴檀は双葉より芳しだ。菊五郎は市村座十二代座本と三代目菊五郎の娘を両親として生まれた根っからの若太夫で、事実、父の早逝でわずか8歳のとき羽左衛門を襲名。幼児から舞台の小道具や仕掛物を遊び道具にしていたほど芝居好きで、5歳の初舞台以来ずば抜けた才能ぶりを発揮しておとなの役者たちをびっくりさせたそうだ。黙阿弥や小団次の推薦で文句なく三吉役をやることになった羽左衛門少年は、モデルにする蜆売りの少年の姿を求めてあちこち歩きまわり、ようやく蛤河岸で目指す少年を見つけると、そのあとをくっついて歩き、売り声から日常のことば使い、服装まですっかり移し取って舞台で用いたという。これがわずか13歳の少年のやることかとびっくりさせられるのだが、のち菊五郎の五代目を襲名、世話物役者の頂点に立ち、立居振舞からことばまで実地に研究した考証癖は、この時からすでにはじまっていたのだ。

 

初演で三吉を演じたのが五代目菊五郎、令和4年に三吉を演じるのが

六代目、梅幸、七代目、菊之助と代を経て当代の丑之助というのが感慨深い。

 

梅幸が書いていた稽古の出来栄えやいかに。上演時のスチール写真

上の写真は切り貼りで 別撮りもある。

 

役者の聞き書き

菊五郎

初演の三吉を曾祖父五代目菊五郎がつとめて以降、祖父六代目から父梅幸と、代々つながっている芝居ですので、復活上演する意義はあると思います。初演当時は近い事件であったため幕府に遠慮して、舞台を鎌倉にしたのでしょうけれど、今更鎌倉でもなし、監修の河竹さんとも相談して、今回江戸に改めました。幸蔵のせりふにもあるように、盗みはするものの金の使いようがなく、貧しい人に与えるほかなく、鼠小僧には盗んだ者のジレンマがあったのではないでしょうか。

 

羽左衛門

前回この芝居が上演されたのは今から70年近く前で、梅幸さんが蜆売りをやったそうですが、私は初舞台をして間もなくのころで、その舞台を見た記憶がありません。その時は二場しか出なかったそうです。先々代の友右衛門さんが与惣兵衛に扮した写真が残っています。与惣兵衛と鼠小僧が父子というのはよくある黙阿弥さんのご趣向でしょう。我々にとってはなじみの深い作者ですから、見たことはなくても台本を読むとおよその見当はつきますね。

※「舞台を見た記憶がない」と書いているが出演している。

 

権十郎

役者でこの芝居を知っているのは当時七つくらいで三吉をつとめた梅幸さんしかいないという、新作も同様の復活狂言ですので、河竹さんと相談してやります。

 

田之助

まだ幼かった梅幸兄さんが三吉の稽古をしていて、雪の中おもてにつき出されたという話を聞いていたこのお芝居に、しかも松山といういい役で出させて頂けてまことに嬉しゅうございます。

 

(三吉に触れていないが、面白かったので)

三津五郎(九世)

「甲子夜話」という本に鼠小僧の記録が出ている中に、三津五郎宅から七十両盗んだとあるそうです。鼠小僧がつかまった時から推量して、多分永木の三津五郎といわれた三代目でしょう。先般テレビで、鼠小僧が義賊というのは作り上げた盗人像で、実際には困った人にほどこすということもなく、単なる泥棒にすぎないと言っていましたが、役者のうちへ入ったのであれば、それが真相かもしれませんね。

 

オマケに平成5年の上演の際の該当場面の舞台写真

背中しか写っていないが三吉は当時名子役の松也。稲葉幸蔵は当代菊五郎。

この時は国立劇場ならではの総通しだったが、令和4年2月は三部制の中での見取りとあって、文中にあった二場の上演になる可能性が高い。

令和4年2月の歌舞伎座で「鬼次拍子舞」が上演予定。

珍しい演目なので過去の筋書をあたってみました。

 

まず演目の読み方ですが

昭和25年2月三越劇場のチラシのルビでは

「おにじのひょうしまい」

昭和32年11月歌舞伎座では「おにじびょうしまい」

しかし、現在では「おにじひょうしまい」が通例。

 

この〝鬼次〟とは、三代目大谷鬼次(おおたにおにじ)のことで

東洲斎写楽のお馴染みの大首絵の人物。後の二代目中村仲蔵です。

 

舞台写真や解説、寄稿など古い順に紹介します。

★昭和25年2月 三越劇場

長田太郎 又五郎

白拍子松の前 慶三

筋書の解説

近頃珍しい演し物で、初演は「蜘蛛の拍子舞」よりも新しく、寛政五年九月河原崎座の「姫小松子日酒遊」の第一番目三立目に出されたもの。本名題は「月顔最中名取種」という。役の中、長田の太郎を大谷鬼次が演じた所から、一般に「鬼次拍子舞」というのである。脚本が残っていないので前からの筋は不明であるが、拍子舞のくだりについていえば、山賤姿の長田の太郎(敵役)が、白拍子松の前と、山中で名笛を争い、末は立回りになるという筋。単純なものだが、拍子舞に眼目がある。

 

演劇界劇評 利倉幸一

又五郎(長田太郎)と慶三(白拍子松の前)が踊る。古く三津五郎が踊ったきり、久しく出なかった狂言だが、こういう古風な狂言はやはり「役者」が出来ていないと、ただ踊っているだけで狂言の面白さなどさらさらない。又五郎のような小さな顔の役者では損な出し物だ。あの鬘の映るのはもっとでっかりとした顔だ。古風な面白い振も又五郎では見得一つにしても大袈裟に見えるばかりで、少しも曲がない。慶三がすんなりとよく踊っている。

 

★昭和32年11月歌舞伎座

長田太郎兼政 中車

白拍子実は亀井の妹松の前 歌右衛門

 

渥美清太郎

先々代中村福助(五世)が帝劇で、初めて「羽衣会」を開くとき、三津五郎(七世)と二人で踊る古典で、何か珍しいものはないかと訊かれました。わたしはその前、杵屋和吉に「鬼次拍子舞」を習い、素人長唄会で唄った覚えがあるので、これでよかろうということできまり、橋場の三津五郎の内でけいこにかかりました。幸い坂東の古い名取りが知っていたのでこれに習い、二百年ぶりで復活ができましたが、何しろその名取りは耳の遠いお婆さんだったので、習うのも大騒ぎでした。初めは唄が残っているだけであとは見当がつかず、わたくしは清盛の館だろうと思って、オキを増補しましたが、後に場所は山の中だということがわかりました。

大谷鬼次という役者が長田太郎をやったので、この称がありますが、本当は「月顔最中名取種(つきのかおもなかのなとりぐさ)」という名題です。鬼次は後に二代目中村仲蔵になったくらいですから、踊は非常に巧かったのですが、このときはまだ薄っ暗い序幕にやったのです。それが今まで残ったのだから不思議な感じがします。白拍子松の前は、岩井喜代太郎という女形が踊ったのですが、この人は後に立役へ転向して、四代目市川八百蔵となりました。赤ッ面と白拍子が、名笛を中にしての争い。昔の芝居にはよくありますが、古風でのどかで、神おろしや踊り地など、二百年の昔が思い出されます。

 

★昭和40年1月歌舞伎座

山賤実は長田太郎兼光 三津五郎8

白拍子実は、岡部六弥太妹松の前 雀右衛門4

 

★昭和43年1月 東横劇場

長田太郎 孝夫

白拍子実は岡部の妹松の前 精四郎

 

★平成14年6月 歌舞伎座

長田太郎兼光 新之助

白拍子実は岡部六弥太妹松の前 菊之助

 

寛政五年(1793)河原崎座で初演。

拍子舞とは曲の一部を役者が歌いながら拍子に合わせて舞うことで、この作品では長田太郎が男舞の由来を語るところが拍子舞になっている。長田太郎が持つ〝青葉の笛〟を松の前が奪おうとする様子を描いている。

 

それぞれの筋書を見比べると、絡みが出る時と出ない時がある。

他に写真では長田太郎の衣装が、ぶっかえりの時と肩脱ぎの時の違い。

平成14年では背景が紅葉になっている。(後藤芳世 美術)

また笛の名を〝青葉の笛〟と明示している筋書は平成14年が初めて。

 

令和4年2月の予定配役は

長田太郎に八代目芝翫、白拍子実は松の前に五代目雀右衛門。

過去にそれぞれの家で出し物にした縁があるのが分かる。

演出などはまだ不明。