令和7(2025)年7月、歌舞伎座で染五郎・團子による「蝶の道行」が上演
見慣れた武智鉄二演出、川口秀子振付のものではなく二世藤間勘祖振付と
表記されているが、名人六世藤間勘十郎のこと。
ちょっと珍しいので勘十郎振付の「蝶の道行」の資料を集めてみた。
★昭和31(1956)年7月 歌舞伎座
小巻に歌右衛門、助国に幸四郎 役名そのまま
「花台(はなのうてな)蝶道行(ちょうのみちゆき)」の外題
筋書 渥美清太郎の寄稿
作者は並木五瓶で「けいせい倭荘子」といい、助国小まき二人の首がお尋ね者の若殿と姫の身代わりになると言うのは、ずいぶん古い筋ですが、今から200年も前の上方ではやむをえません。次に小まき助国が蝶になって狂いの道行があります。文政元年、大阪で人形化したとき、やはりこの道行がついていて、むろん義太夫で鶴沢勇造の作曲で今に残りました。この義太夫の道行は、心ある舞踊家が目をつけてニ、三度会で復活いたしましたが、東京の大劇場での歌舞伎踊としては今度が初めてであります。
演劇界 利倉幸一
チョボを地にした貧しさは舞台にこたえている、こういう古い踊の復活はもっと準備もし、入念な仕事をしなくては、山口蓬春の美術ぐらいでは持ちこたえられるものではないようだ。
演劇界中 舞台美術評 尾澤勝三
竹本の浄瑠璃で忘れられたものの復活だと言う。この世の人でない若い男女の姿を野辺にうつつなき蝶の姿に見るというのだから詩文の境地、舞踊にもってこいと思えるが、劇的な展開もなく、心理的な変化も少ない。人間の形はやはり蝶の姿ではないし、昔の浄瑠璃の文句について踊るとなると、古いものを新しくさばいてと意図してみても、実はなかなか厄介である。美術は山口蓬春、背景は昼とも夜とも、この世ともあの世ともわかぬ空の色、舞台との境は草の花の種々でぼかされて、上手よりがやや小高く丘となるがそれも草隠れ、余計なものは何もない。品もあり、ハイカラでもある装置である。男は前茶筅の鬘、お納戸地露芝模様の着付着流し、白地薄物の羽織に金箔押しは蝶らしい。女は高島田薄藤色のぼかし振袖で帯は金と赤の色彩の強いもの。とき色のしごき。柄は小田巻(小巻を割ったシャレと看破)
幕間 松本幸四郎
所作事の義太夫地
歌右衛門さんと「蝶の道行」という所作事をやって、私は助国ですが、これは一度も歌舞伎の舞台には出ていない狂言で、昨年「幕間」の舞踊会に出たのが良かったからと関さんのお勧めもあり、今度出すことになったのです。その時のを見ていられる藤間勘十郎さんに振付をお願いしましたところ、なかなか結構な振りをつけて下さいました。その点は有難いのですが、地の方がちょっと困ったことになって弱っています。というのはこれは義太夫地の踊りで、振付は文楽の綱太夫さん弥七さんの録音されたテープによって考案されたのですが、従って文楽座の方々に特別出演してもらうことになればよかったのに、都合でチョボの人達になったので、どうもうまく合いません。同じものを同じ譜でやるのですが、文楽の人とでは間やイキの微妙なところがどうも違うのです。芝居の床語りと違って純粋の義太夫節となりますと、こうも違うものかと今さらに両者の修行の違いなどを感じたり、こんなことなら始めからチョボの人達の義太夫から出発した方が、まだましな結果になったのではないかなどと思ったりしています。とにかく折角いい振りを考えてもらったのに、実に惜しいことです。
戸部銀作
舞踊会で一度見てなかなか面白いと思ったが、現在は筋がわかるのが先決だから「蝶の道行」だけを上演して煙に巻くより、意味をわからせるためにも軍次兵衛住処をつけるのが親切だ。振付は勘十郎だが例の綺麗事の気分本位で感心しない。
資料を読む限りでは、衣装の引抜きなどはまだ無かった様子。
舞踊会などで知られてはいても誰も歌舞伎の興行で観たことがない演目という事で演者も評論家も遠慮がない。この時代の文楽座と歌舞伎の竹本(チョボ)の格差というのは武智演出の際の劇評でも度々言及されている。
★昭和35(1960)年3月 明治座 再開場二周年記念
小巻に歌右衛門、助国は中村藤太郎
明治座筋書に載ったスチール写真 苧環(小田巻)の柄がよく分かる。
舞台写真は演劇界や幕間のもの
雑誌幕間では表紙になっている
筋書 立石隆一
歌右衛門好みの舞踊。「蝶の道行」は義太夫で文楽の残っているものだから、歌舞伎に役者はあまり手がけていない。おそらく8年前だったか歌右衛門と幸四郎が藤間勘十郎の振付演出で上演したのが、役者のものとしては最初になるのではないかと思う。筋は助国という若い侍と小まきという郷土の娘、この相愛の二人が身替に殺されたが、その魂は抜け出して花園を飛び交う女蝶男蝶となって仲睦まじく道行するというもので、初めから蝶々になって出るのと、もう一つは最初が若侍と娘で、あとになって蝶々に引き抜く演出法と、二種類のものが現在行われている。今日上演のものは、その前者の演出法をとったもので、初演の時には女蝶男蝶が手をつないで、セリであがる演出だったが、こんどは女蝶花道へ舞い進んで、スッポンから男蝶を呼び出す、という新しい演出で見せる。蝶といえばすぐ春を想像するが、これは秋の蝶だから、最後は落ち入ることになる、という作者のしゃれた狙いが含まれている。だからノチの狂い、責めになってからの追い込みの曲は見事なもので、文楽特有のとても早い、凄みさえ覚える名曲で、これに踊りがどのようにうまく乗るか、というところが面白い見どころでもあり聞きどころといえる。
演劇界 立石隆一(筋書と同人なので重複が多い)
「蝶道行」は秋草の咲き揃う花園に大きな三日月という装置。振付は〽︎なわしろにせきとめられし恋仲も…の処など、大胆で古風な面白いフリを見せ、小巻の持つ扇と助国の持つ刀を交換して、一人づつで踊る〽︎坂はてるてる…の前後のフリも、踊りでは〝ここぞ〟とばかり見せる演技術の箇所だけに力の入ったフリで見応えがする。そのあとで唄はなく四人の三味線だけで文楽特有の早間の曲になり、狂い、責めになる肝心のところだが、これが当日の地方は期待したほどのものではなく、太棹の音色からくる凄味さえ覚えるような盛り上がり感じられなかった。秋の蝶が消え入るように両人が、花に宿る蝶の風情のフリで幕にしたのは賛成である。演技力のうえで藤太郎が舞踊家の芸から役者の芸になってきて、歌右衛門との呼吸もよく合っていた点は進歩である。
幕間 加賀山直三
数年前、歌右衛門が幸四郎と出した人形景事の古舞踊復活作の再演である。古舞踊とはいいながら、演出全般は新舞踊的だ。秋の蝶の淋しさと凄涼感が歌右衛門に適まっているのは先年の通り。線の細い「鷺娘」とでもいうべきか。鷺娘系の歌右衛門といえばそれで片付こう。小品として見れば一応の感銘はある。藤太郎の助国が勿論弱いけれど、押し出しが存外よく、さして見劣りのしない外観をもっているのはえらい。併し気のせいかこの一幕全体が歌舞伎舞台よりは舞踊会じみた感じに見えたのは微苦笑的だった。
明治座での歌右衛門の相手役は中村藤太郎 現東蔵の兄で初代藤間紫の弟
東蔵同様、歌右衛門預かりで役者をしていたが後に舞踊家に。
★昭和41年4月 大阪新歌舞伎座
37年6月の武智鉄二演出による通し狂言を経て、藤間勘十郎振付での
上演は減っていく中での上演。
小巻に雀右衛門、助国は三代目猿之助
演劇界 大鋸時生
在りし日のなれそめを語り合う前段に主題に似合う清楚な花があるが、後段の責めになると力量不足の形となった。山台が渡米文楽の留守軍なのが影響したのかもしれない。なお花道からセリ上がった瞬間の猿之助の横顔に故猿翁の面影がダブったのに興味を持った。
武智演出では文楽座の特別出演を請うていて、この時も文楽座が出張っているものの
劇評では辛い点が付いている。
構成や演出、衣装の変化など詳細はわからず。
★昭和59(1984)年3月 歌舞伎座花形歌舞伎
小槙に玉三郎、助国に片岡孝夫
この舞台写真の姿は、令和7年の上演と近しい
筋書 土岐迪子の聞き書きから
玉三郎
お稽古だけしたことはあるけど、舞台では全く初めてです。勘十郎先生が孝夫さんと僕とに考えて下さいましたけれど、大根は先生が初めてお作りになったものをそのまま踊らせていただきます。
孝夫
巡業で秀太郎兄さんと踊りましたが、花柳流でしたからね。これは覚えないとどうしようもない。三月公演はいつもそうだけれど、特に稽古日数が少ないのが悩みの種です。
演劇界 志野葉太郎
咲太夫、清治以下の文楽連中の物凄いヴォリュームに圧倒される。この踊りをはじめて見たのは昭和14年文楽の出開帳公演の時で、優れた節付と人形の奔放自在の動きの面白さに感嘆した記憶がある。夢幻的世界の展開はこの時が一番だったように思う。短い中での変換の激しいのが好まれてか戦後歌舞伎その他で盛んに採り上げられるようになったが、義太夫の余りにもスピーディな躍動感が歌舞伎舞踊として味わうには余りにも強すぎて、個人的好みを云っては申し訳ないが余り興味を引かなかったため、細部についての印象は余り残っていない。通しで上演してからは川口秀子振付が一般的となったが、今回はそれ以前に歌右衛門が二回演じた時の勘十郎振付。前者は新舞踊的味が濃く、それはそれで面白かったが、後者は地獄の責苦の部分を除けばそれほど新舞踊的ではない。振りでは引抜いて明るくなってからの万歳、馬子唄の部分も悪くないが、前半の昔を思い出し田圃の生活を謳う部分が抒情味があって面白かった。こういう踊りだけに孝夫、玉三郎には向いており、とにもかくにも美しいので見ていて楽しい。
たまたまネットで見た舞台をそのまま書くと
幕開き、義太夫のオキがあって正面セリから小槙の出
花道へ迎えにいくとスッポンから助国が出る。黒地に裾と袖に薄藍の雲
秋草の柄、助国は同じ柄の羽織(薄物ではない)、小槙の帯は朱色。
全体に暗く背景は水辺か夜明け前の秋の風景、竹林が見える。
途中で助国が羽織を取り(初演時のような片掛けにはせず)
引き抜きで水色とトキ色に。背景が飛んで明転。
書割は秋草の吹き寄せに(令和の舞台では見た四季替りはなし)
後段になり狂いで両脱ぎになって紋白蝶に。花道へ行く間に中割が飛んで
上手に丘、下手に松に三日月の装置に変わる。
二人椀久よろしく再度出てくる羽織は、最前のもの。
丘へ上がり落ち入る際は、女蝶が先に仰向けに倒れるが
そこへかぶさる男蝶を迎えながら幕が降りる。
★平成9(1997)年7月 大阪松竹座
小槙に孝太郎、助国に染五郎(現幸四郎)
引抜いてから、肌脱ぎをして落ち入りの衣装になるが
令和7年の衣装と比べるとかなりビビッドである
演劇界 植田正弘
(抜粋)ただ、足拍子が蝶の羽にも似た透明感を濁らせて、耳障りではあった。
令和7年の筋書では、勘十郎の振付を採った理由などはなく
出演者への聞き書きでも演出への言及はなかったが縁があることは分かった。
現藤間宗家の八世勘十郎の意向などもあったように聞く。














































































































